渋滞の時のひまつぶし、なにしてる?
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■ 「東名高速」の思い出
□ 私が「東名高速」を初めて利用したのは、開通した1969年5月から1年3カ月後の大学最後の夏だった。
それも関東への就職が内定し、免許取り立てて直ぐに軽四スバルR2SS(ツインキャブ)を買ってもらって、2カ月後という学生ならではの無謀な冒険だった。
父母にはその目的を明かさず、友人たちと金沢から東京のベトナム反戦・安保反対・沖縄基地撤去のデモに参加するためで、真夜中の高速初走行とあってドキドキの連続だった。
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□ その半年後の1971年春には再び、今度は一人、心配顔で見送る両親を尻目に軽四にフトンやら本やらを一杯に積んで、就職先の独身寮があった横浜へと旅立った。
金沢東ICから横浜青葉ICまでの距離575.7km、正味所要時間6時間16分。「名神」の米原・関ケ原辺りで休憩。
夜間走行の「東名」の静岡県は長い。長距離トラック野郎と抜きつ抜かれつを繰り返しながら日本平SA辺りでサラバの休憩ってな調子だったのだが、そのお陰もあって無事、居眠りしないで到着した。
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■ お題の「渋滞の時のひまつぶし、なにしてる?」
□ その後の私は横浜で家庭を持って、1977年晩秋に埼玉・東武線沿線に一戸建てのマイホームを購入した。
子供3人に恵まれ帰郷の際は、久喜IC(時々、花園IC)から「関越」長岡JCT経由(未だ「上信越」が全通していなかった)の金沢東ICまでの距離493.3km、正味所要時間5時間33分。
車種はマツダファミリア~トヨタカムリ。
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□ 子供たちが未だ幼かった頃、私はハンドルを握りっ放し。
運転技術では車庫入れなんかで判断すると私より上手な妻は恐がって高速運転は代わってくれず、専ら私のタバコ(当時は平気でナガラ運転)やらガムやらドリンクやらアタリメやらのケアに尽していた。
そこで子供たちの「ひまつぶし」の一つに、「関越」・「北陸」のトンネルの数のカウントがあり、確か全部で25本。そしてトンネルの長さの当てっこもあった。
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□ そんな1990年の晩秋だった。小学生になったばかりの末っ子の次女が大切にしていた縫い包み、ニャンコのミーとワン公のポテを「赤城高原SA」で休憩を取った折り、うっかりトイレに置き忘れてしまったのだ。
騒ぎ出して沼田ICだったかで引返し、掃除のオバサンに訊いたり全員で探し捲(まく)ったりしたが、とうとう出て来なかった。娘は長岡JCTを回って日本海が見える頃まで、車窓に顔をくっつけたまま泣き続けていた。
忘れた方が悪いには違いないのだが、やり切れない暗い記憶。それ以来、娘は「赤城高原SA」での休憩は絶対しないでと言い続けたものだった。
ぬいぐるみミーとポテ(2006/12/10記)