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東京湾岸(旧・江戸湾岸)の主な地名のルーツ

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先週のテレビ番組で、「江戸」「浅草」「品川」などの地名の由来(語源)が採り上げられていた。

興味深いので、早速、アレコレ検索してみた。






かつて武蔵國と下総國の間は広大な低湿地帯で通行に適さなかった。

 

そのため、奈良時代初期に成立した歴史書「古事記」(712年)・「日本書紀」(720年)によれば---

日本武尊(倭建命・ヤマトタケル、?~113年)は東国征伐に向かった際、771年以前の律令時代の東海道は、相模國では国府津~大磯まで相模湾沿いに東進、一之宮(現在の寒川神社付近)で相模川を渡り、三浦半島より湾を渡る"海道"(海路)で、房総半島の上総國へ至った。



■「木更津」


① 海路を取るために三浦半島へ入り、相模國走水(はしりみず)から浦賀水道を渡って房総半島の富津に入った。富津から南下し安房國府(後の安房郡三芳村⇒現在の南房総市)へ。そして上総國府(現在の市原市)から下総國府(現在の市川市)へと進んだ。


日本武尊の伝説によれば---

景行天皇の命で東国征伐(東征)に向かった際、走水を船で上総國に渡ろうとした時、海上で暴風雨に遭い、同伴していた妃(妻)の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が「この暴風は海神の怒りに違いない」と悟り、海神の怒りを鎮めるため身代わりに自らの身を海に投じて風雨を鎮(しず)めたお陰で、武尊は無事に上総國に渡ることができた。

武尊は、妻のことを想い「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」と詠った。この「君去らず」が木更津や君津の地名の由来とされている。
更に、海岸に弟橘媛の櫛(くし)が流れ着き、村人は旗山崎(御所ヶ崎)に社を建てて櫛を納めたとされる。この社が弟橘媛を祀る橘神社⇒橘樹神社(たちばなじんじゃ、茂原市本納)。また、弟橘媛の着物の袖が流れ着いた地は布流津(ふるつ)と名付けられ⇒転じて富津(ふっつ)になり、腰巻が流れ着いた地は袖ヶ浦と名付けられた。

と各説が伝えられている。


② 一方、言語学的には---

「市町村名語源辞典」(溝手理太郎・著、2001年東京堂出版)・・・「木更津」(きさらづ)の「きさ」は「浸食されやすい海岸」、「ら(接頭語)」+「つ(津)」。






武蔵國は当初は東山道※1 に属し、上野國新田--下野國足利から南下する東山道武蔵路が、武蔵國府(現在の東京都府中市)まで延びていた。

やがて奈良時代後期~平安時代前期の武蔵國には朝鮮半島からの渡来人⇒帰化人が多く移り住んだ。


平安時代初期に成立した歴史書「続日本紀」(797年)によれば---

朝鮮半島からの渡来人を中心に高麗郡(712年)、新羅郡(758年)が設置され、東山道と東海道※2 の交通が活発となった。


東海道の相模國以遠は、それまでの海路で上総國へ入ることを止め、相模國を北上して武蔵國府に至り、東遷して(現在の東京都心部、その東に広がる隅田川・利根川・渡良瀬川の) デルタ湿地帯は各川を渡船で通過し、下総國府へ入り上総國府へ向うルートとなった。



※1 東山道

近江--美濃--飛騨--信濃--諏方--上野--下野-- 
武蔵-- 
陸奥(石背--岩代--石城--磐城--陸前--陸中--陸後--陸奥)-- 出羽(羽前--羽後)。


※2 東海道

伊賀--伊勢--志摩--尾張--三河--
遠江--駿河--伊豆--甲斐--
相模--
武蔵(771までは東山道に属していた)--
海路で安房--上総--下総--だったのを止め陸路で下総--上総--に変更
常陸。



■「江戸」



平安時代中期の辞書「和名類聚抄」(931~938年)・・・武蔵國豊島郡湯島郷(現在の文京区湯島)・日頭郷(ひがしらごう、現在の文京区小日向)、荏原郡桜田郷(後に豊島郡江戸郷、現在の千代田区霞が関) が存在したと記されている。

しかし未だ「江戸」と言う地名は登場していなかった。


平安時代後期に武蔵國秩父から出て河越から入間川(現在の荒川)沿いに平野部へと進出して来た、
桓武平氏を称する「秩父党」一族によって、江戸の開発が始められた。


12世紀に秩父重継は、江戸の地を領して桜田郷の高台に城館を構え(後の江戸城)、江戸の地名を採って江戸太郎重継を称し江戸氏を興した。
かくして平安時代末期までには「江戸」の地名が登場していた。

鎌倉時代初期の歴史書「吾妻鏡」(1181~1266年の記録、1300年頃に成立)にも---

江戸桜田郷に居を構える重継の嫡男が江戸太郎重長と名乗り、武蔵國の長として1180年に源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦った。後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。1261年、江戸氏の一族の地頭・江戸長重が江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏に寄進してその被官となった

---とあり、江戸郷という地名を見ることができる。


地形的には---

「江」・・・入り込んだ地形、「戸」・・・水の流れの出入口・門、「浦」※3 ・・・湾曲した地形を表している。
 ※3「浦」(うら)・・・湖岸、海岸に沿った屈曲(湾曲)があり入り込んでいる岸辺。
   「浜」(はま)・・・湖岸、海岸に沿った屈曲(湾曲)がない泥・砂・礫(小石)の岸辺。
   「磯」(いそ)・・・岩が露出している岸辺。


武蔵野台地の東端(後の江戸城)。武蔵野台地が北から回り込んだ「本郷台地」。平川(後の神田川)が流れ込んだ低湿地「江戸浦」。南に延びる半島である「江戸前島」に囲まれていた。

1450年以前の江戸図
 



秀吉に命じられ家康が江戸に入った1590年頃は、「日比谷入江」が「江戸浦」(後の「江戸湊」) から入り込んでいた。

江戸時代初期の随筆書「慶長見聞録(見聞集)」(三浦浄心・著、1614年)・・・「相模、安房、上総、下総、武蔵五カ国の中に大いなる入海あり」「今は鯨 江戸浦まで来てうしおを空へ吹き上げる見れば」などの記述がある。

家康が江戸に入府した1620年頃、低湿地「江戸浦」のうちの「日比谷入江」が埋め立てられ、平川、小石川、旧・石神井川が東流して隅田川に注ぎ、現在の神田川の流路が完成した。

このように、北の「浅草湊」、中央奥の「江戸湊」、南の「品川湊」が代表的な港湾となったのである。


尚、「江戸前」とは、江戸城の前に位置する意で、「芝浜」(現・港区)、「洲崎」(現・江東区)、「佃沖」(現・中央区)などと並んで良い漁場を指した。

江戸の堀と河川(1600年頃、「別本慶長江戸図」を地勢図に重ねた)

 


*



■「浅草」


弥生時代の頃では、本郷台地と陸続きの浅草や鳥越の丘には漁労の人々が定住していた。待乳山(真土山、真土とは関東ロームの残る山の意味か?)、弁天山、蔵前、鳥越付近などから陸地化が進み海の幸に恵まれた。

「浅草寺」・・・漁師の檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が、隅田川において観音像を網で掬(すく)い上げ、祀った。628年に創建。


「鳥越神社」・・・日本武尊を「白鳥明神」として祀った。651年に創建。前九年の役(1051~62年)の折りには、源義家がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることができた。それを「白鳥明神」の加護と称えて「鳥越大明神」の社号を奉った。


鎌倉時代初期の歴史書「吾妻鏡」(1181~1266年の記録、1300年頃に成立)によれば---

「浅草」の地名が登場した。

「可召進武蔵國浅草大工字郷司」(武蔵國浅草の大工字郷司を召し進すべき)。「淺草大工參上之間、被始若宮營作」(浅草の大工参上するの間、若宮営作を始めらる)。

源頼朝が鶴岡八幡宮を造営した時に、浅草から船で宮大工を呼び寄せた。 当時の湊は、石浜(現在の橋場)や今津(現在の今戸)にあった。


江戸時代までには、浅草より北では砂礫層が海面下となって表土の関東ロームが洗い流されて重い砂礫だけが残り、砂礫のため草が疎(まば)ら。石浜は砂利の採掘場となった。


随筆集「燕石十種」第六「江戸往古図説」(大橋方長・著、1800年頃。これは1784年頃に見つかった1456年頃の記録だった)によれば---

「往古下谷より此わたりへかけて平地にして武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云しなるべしといへりさもあらんか」。隅田川に近い低湿地だった浅草の辺りは、武蔵野の深草に比べて草が少ない浅い草叢(くさむら)だった。

「浅草観光のオトモ 浅草の起源を知ろう!」


*



■「小石川」


鎌倉時代の創始とされる「北野神社」(別名「牛天神」、文京区春日1-5-2)の縁起絵巻・・・足下に海があったとあるが、白鳥池や小石川大沼などを海と表現したものと思われる。
神田川の目白通り沿いの「大曲」(白鳥橋が架かる辺り、神田川が大きく向きを変える大曲交差点・安藤坂・巻石通り付近)から飯田橋に至る少し手前まで、「白鳥池」という大きな池があった。

源頼朝が1184年東征の際に船が堂々と入るような入江のような池だった。


家康が江戸に入府して以来、白鳥池などの池は徐々に埋め立てられた。

「白鳥池」から先(下流)には「小石川大沼(現在の三崎町・西神田・神田神保町辺り)」があり相当な湿地帯だった。そして小石川大沼から平川(神田川)は日比谷入江に抜けていた。


尚、「本郷」のルーツは---

古代末期から中世初期にかけて荘園公領制が成立すると、領主らは荘園または公領内に支配拠点を設け、これを維持するため拠点の周囲に村落が形成され、これが「本郷」の発祥。本郷は荘園・公領の政治的・経済的・流通的なセンター機能。
中世後期になり荘園公領制がやや弱体化し各地に百姓の自治結合による惣村・郷村が形成されると、郷地名は自治共同体の中心地域を指して用いられた。





■「品川」


1392年頃、品川は「品河」と書かれていた。中世には「品川湊」が存在し、また1488年頃には「品川浜」という表記がある。


しかし地名の由来(語源)には諸説がある。

① 目黒川の古くは、その下流・河口付近を品川と呼んだ。

河口付近で大きくカーブしているため、「しなり川(しなる川)」と呼ばれたという説。

②「神奈川」の語源になった「上無川」(水源が定かでない川)に対して、目黒川を「下無川」(しもなしがわ)と呼び、それが略されて「品川」になったという説。

③「JR・第三セクター 全駅ルーツ事典」(村石利夫・著、2004年東京堂出版)・・・品川は「砂川」が訛(なま)った。

「誰も知らない語源の話」(増井金典、ベスト新書)・・・目黒川の下流を、「砂川」の変化で「品川」と呼んだ。

④「東京の地名 地形と語源をたずねて」(筒井功・著、2014年河出書房新社)・・・「シナ」の語源は「きざ(階)」「きざはし(段階・階段)」すなわち「階段」の意味。

「階段のような段差のついた」土地を意味し、川に面していれば「河岸段丘」を意味する。長野県の「信濃(科野)」「立科・蓼科」「更科」「山科」なども同様。



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