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今日は「ゴールドラッシュの日」。金と銀、どっちが好き?【ブログネタ】

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金と銀、どっちが好き?

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今日は休息日として外出しないので、命題の"金銀"について精力的にネットサーフィンした。
 
 
■ 1月24日は「ゴールドラッシュの日」


カリフォルニア・ゴールドラッシュ(英 California Gold Rush、1848~55年)とは---

1848年1月24日、米国カリフォルニア・エルドラド郡コロマの製材工場の現場監督ジェームズ・ウィルソン・マーシャル(James Wilson Marshall、1810年10月8日ニュージャージー州ランバートビル生まれ ~1885年8月10日)が、
コロマに近いサッターズミルのアメリカン川底に金の粒(23カラット・純度96%)を発見した。
 
「金だ!金だ!アメリカン川から金だ!」と叫んだため、この噂は全米に広まり、多数のアメリカ人が一獲千金を求めてカリフォルニアに押し掛ける「ゴールドラッシュ」となった。
 
これら初期の採掘者らは1849年にカリフォニアに向かった者が多かったことから「フォーティナイナーズ」('49ers)と呼ばれた。
 
 
このゴールドラッシュはラテンアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアおよびアジアなどの何万人もの人々をも惹き付けた。

サンフランシスコは1846年に人口200人ほどの小さな開拓地だったが、1852年には約36,000人の新興都市に急成長した。


カリフォルニア・ゴールドラッシュは世界中の経済までも刺激した。
貿易品に対して大量のカリフォルニア金が代金として支払われ、世界中で物価を上げ、投資を刺激し、雇用を創出した。

イングランド銀行の場合、1847年10月の830万ポンド ⇒ 1852年の第3・4半期平均では2180万ポンドに増えた。
フランス銀行の場合、1847年の1億2260万フラン ⇒ 1852年には5倍近く急増し5億8480万フラン、1870年には15億5000万フランにまで膨れた。
プロイセン銀行の場合、1850年に1837万ターラー ⇒ 1870年には1億6326ターラーに達した。金準備の増加は中央銀行の再割引も促進した。


1863年、最初の大陸横断鉄道西部部分の資金の一部はゴールドラッシュの金で賄われ、カリフォルニアと中部および東部とを一体にした。何週間も何ヶ月も掛かっていた旅がこの時から数日で成されるようになった。


*


□ カリフォルニア以外のゴールドラッシュ


1845年、グレートブリテン及びアイルランド連合王国のアイルランド島。

1849~50年、米国カンザス準州西部(現在はコロラド州北東部)のロッキー山脈麓にあるチェリー・クリークで少量の砂金を発見した。1858年、リトルドライ川河口近く(現在はイングルウッド)で小さな漂砂鉱床を見付け、ロッキー山脈地域のパイクスピーク・ゴールドラッシュを引き起こした。

1851年 オーストラリア・ビクトリア州のバララット・・・オーストラリアの探鉱者エドワード・ハーグレイブスはカリフォルニアと母国の地形の類似性に注目し、オーストラリアに戻ってシドニー北西部のバサースト近郷マックワイアー川渓谷で、砂金を発見、
オーストラリア・ゴールドラッシュに火を付けた。
1861年 ニュージーランド・オタゴ

1874年 米国サウスダコタ州ブラックヒルズ
1896年 カナダ・ユーコン準州クロンダイク・ゴールドラッシュ
1899~1900年 米国アラスカ州ノーム・ゴールドラッシュ

1970年代 ブラジル・アマゾン



*


□ トリビア

1840~42年のアヘン戦争の結果、清国(中国)は開国した上に香港がイギリスに割譲されマカオがポルトガルの支配下になったが、
香港・マカオが帰属していた広東省から北アメリカへ多くの労働者が鉱山や鉄道建設現場で働くために移民し、その後の広東人を主体とするチャイナタウンの形成につながった。

ジーンズは、金を掘っていると従来のズボンではすぐ破れて困るということに着目したリーヴァイ・ストラウス(Levi Strauss、1829~1902年。リーヴァイス創業者)が発明した。

土佐國中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)出身の漂流民であるジョン万次郎(本名: 中濱萬次郎、1827~98年)は、ゴールドラッシュ期のカリフォルニアに金を採りに来た(1850年)、唯一の日本人とされる。


□ 文学

マーク・トウェイン(Mark Twain, 1835~1910年)「カラベラス郡の祝された跳び蛙」(原題 「The Celebrated Jumping Frog of Calaveras County」1865年) 
・・・「マーク・トウェイン傑作選 ジム・スマイリーの跳び蛙」翻訳: 柴田元幸、新潮文庫2014年8月

ホアキン・ミラー(Joaquin Miller,1837~1913年)「モードック族の中の生活」(原題「Life Amongst the Modocs」1873年)
・・・Malcolm Margolin's books 1996年

ブレット・ハート(Bret Harte, 1836~1902年)「ラフ・アンド・レディの百万長者」(原題「A Millionaire of Rough-and-Ready」1887年)
・・・Kessinger Publishing 2004年


□ 映画

「黄金狂時代」(原題「The Gold Rush」米国1925年)
・・・監督・脚本・主演チャールズ・チャップリン、喜劇王と呼ばれたチャップリン作品中でも特に傑作と呼ばれている。
YouTube

 
「スポイラース」(原題「The Spoilers」) 原作レックス・ビーチ
1st・・・米国1914年、監督コリン・キャンベル、脚色ローレンス・ハザード、主演ウィリアム・ファーナム/キャスリン・ウィリアムス。
2nd・・・米国1923年、監督ランバート・ヒルヤー、脚色エリオット・J・クローソン、主演ミルトン・シルス。
3rd・・・米国1930年、監督エドウィン・カリュー、脚色バートレット・コーマック、主演ゲイリー・クーパー。
4th・・・米国1942年、監督レイ・エンライト、脚色ローレンス・ハザード/トム・リード。主演マレーネ・ディートリッヒ/ランドルフ・スコット/ジョン・ウェイン。

「黄金」(原題「The Treasure of the Sierra Madre」米国1948年)
監督・脚色ジョン・ヒューストン、原作B・トレヴン、主演ハンフリー・ボガート/ウォルター・ヒューストン/ティム・ホルト。

「遠い国」(原題「The Far Country」米国1954年)
・・・監督アンソニー・マン、脚本ボーデン・チェイス、主演ジェームズ・スチュアート。

「アラスカ魂」(原題「North to Alaska」米国1960年)
・・・監督ヘンリー・ハサウェイ、原作(舞台劇)ラズロ・フォーダー、脚色ジョン・リー・メイヒン/マーティン・ラッキン/クロード・ビニヨン、主演ジョン・ウェイン。

「西部開拓史」(原題「How the West Was Won」米国1962年)
・・・監督ヘンリー・ハサウェイ/ジョン・フォード/ジョージ・マーシャル/リチャード・ソープ、脚本ジェームズ・R・ウェッブ、主演グレゴリー・ペック/ジョージ・ペパード。

「マッケンナの黄金」(原題「Mackenna's Gold」米国1969年)
・・・監督J・リー・トンプソン、原作ウィル・ヘンリー(本名ヘック・アレン)、脚色カール・フォアマン、主演グレゴリー・ペック/オマー・シャリフ。







■ お題「金と銀、どっちが好き?」


同じ金額分(価値分)、頂けると言うのなら、銀。

食器も金より銀。歯も金歯より銀歯。
髪を染めるなら金髪より銀髪(染めなくても成っている)。

金ピカ・成金趣味・金満家に対して、燻(いぶ)し銀の老人がいい。
 


金の悪いイメージの熟語・・・悪金(悪銭のこと)、贋金・偽金(にせがね)、街金・闇金、課金・掛金、金環蝕(巨悪の政財界汚職)、金隠し、・・・。

銀の良いイメージの熟語・・・銀河、銀嶺・銀世界・白銀、銀鮭、銀幕、銀座、・・・。

以上、かなり作為的でした(苦笑)。
 
 
*


■ 日本の銀山の歴史


続縄文時代(約2300年前)の「植別川遺跡」(北海道目梨郡羅臼町峯浜)の墓から、日本最古の銀製品として、鉄製の刀子についていた長方形の銀の小片4個が発見された。

674年、日本最古の銀山「対馬銀山」(長崎県対馬市厳原町樫根)が発見された。

伝1309年、周防國の大内氏第8代当主・大内弘幸が、露天掘りの「石見銀山」(島根県大田市大森町)を発見した。仙ノ山・要害山および周辺一帯の大久保間歩(まぶ、坑道)・釜屋間歩、その他5つの間歩。

1526年、周防國の戦国大名の大内氏第30代当主・大内義興のもと、博多の豪商・神谷寿貞が銀峯山(ぎんぷせん)の中腹で地下の銀鉱脈を再発見した。1533年、神谷寿貞は海外渡来の銀精錬技術の灰吹法を導入した。

16世紀半ば、ユーラシア大陸経済が求めていた決済手段用の銀需要が合致したことにより日本の産銀量は激増。16~17世紀、大量の銀が採掘され大内氏はじめ尼子氏・毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われた。 また海外にも数多く輸出され、中国や朝鮮半島などのアジア諸国とポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担った。 
17世紀前半の石見銀の産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めていたといわれ主として石見銀だった。

江戸時代前期にも石見銀は、日本の膨大な銀需要を支えた(銅も産出した)。しかし、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期には深く掘らなければ銀を産出できなくなり地下水にも悩まされ不採算となった。

1867年、「石見銀山」は博多の豪商・田中義太郎に払い下げられたが、1872年、浜田地震の被害を受けて休山となった。後の1941年、銅の再産出を試みるものの、1943年、水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。

*

1542年、「生野銀山」(兵庫県朝来市生野町小野)でも但馬國の守護大名・山名祐豊により、「石見銀山」から採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まった。第3代将軍・徳川家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出した。
1868年、「生野銀山」は日本初の政府直轄運営鉱山となり、1889年、宮内省所管の皇室財産となったが、1896年、三菱合資会社に払下げられ国内有数の鉱山となった。1973年、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから閉山した。
それ以降、日本の銀山は資源枯渇のため、世界の銀産出地から日本の名前は消えた。



 

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