■ 6月7日は「母親大会記念日」
1955年6月7日、東京「豊島公会堂」(豊島区東池袋1-19-1 ※)で約2千人が参加して「第1回母親大会」が開催された。
その前年の1954年3月、米国がビキニ環礁(当時の信託統治領)で繰り返していた水爆実験(広島型原爆の約千倍の核出力15メガトン)を行っため、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ千隻以上の漁船が死の灰を浴びて被曝し無線長・久保山愛吉さんが死亡したことを切っ掛けに、日本婦人団体連合会(会長・平塚らいてう) は国際民主婦人連盟に原水爆禁止運動(ビキニ・デー)を提案し、「第1回世界母親大会」がスイス・ローザンヌで開かれることになった。
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尚、この地域の豊島区立施設は、現在は次のように再開発されている。
「豊島区役所」(東池袋1-18-1) ⇒ 2015年5月、「としまエコミューゼタウン」(南池袋2-45-1)へと移転。
2020年6月、 旧区役所庁舎跡地には「Hareza池袋」(東池袋1-18-1)がオープン。
「豊島公会堂」(東池袋1-19-1) ⇒ 2019年11月、「東京建物 Brillia HALL」(正式名称「芸術文化劇場」、東池袋1-19-1)へとリニューアルオープン。
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□ お題「あなたのおふくろの味は?」
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▽ 母の早世
私の母は、従軍看護婦+助産婦 ~ 田舎の個人助産婦 ~ 金沢の産婦人科医院/病院の助産婦をしていた。
金沢の国立助産婦学校に学び、中国大陸の上海・北京・平壌・京城へ、横浜・本牧から日本赤十字社として派遣された思い出を、よくアルバムを説明しながら語ってくれた。
田舎では産婆さんは恩人扱いであり、かつ生来の社交的・世話好きな性格も手伝って、母は地元の広域エリアで名士的な顔の広さを持っていた。
私が中学~高校へと進級した頃には結婚の仲人役を熱心に引き受けるようになっており、酒やタバコの量も増えるようになって行った。
そんな母は、4人を産んだ後にはあちこち体調が悪かったにも拘わらず、主婦業と助産婦業と仲人業の三役を続けていたため、内臓疾患の兆候が著しくなり遂には胃癌が全身に転移してしまい、痛い痛いと呻(うめ)きながら56歳で早世(早逝)した。私が結婚した翌年1976年であり、長男(内孫)が生まれる僅か2カ月半前のことだった。
尚、父は28年後の2004年に86歳で逝去した。
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▽ おふくろの味
前述のように私の母は、助産婦(後の助産師)であったためか、家事もまた手際が良く迅速だった (姉がDNAを引き継いでいるような気がする)。
でも改めて "おふくろの味" のことについて思い出すと、中国大陸の生活も十分だったにも拘わらず、専ら日本料理であったように思う。
肉や野菜の炒め物よりも魚や野菜の煮物が非常に多かった。その味付けは北陸の田舎に多い醤油と砂糖をふんだんに使って濃い目だった。その中で私が好きな魚の煮付けはイワシ・カレイ・ハタハタ・身欠きニシンなど。