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12月13日は「正月事始め」。「ビタミンの日」、ビタミン系サプリ。

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■ 12月13日は「正月事始め」「煤(すす)払い」「松迎え」


江戸時代中期まで使われていた「宣明暦(せんみょうれき)」では旧暦12月13日は「鬼(き)の日」になっており、婚礼以外は全てのことに「吉」とされているので、正月の年神様を迎えるのに良い日とされた。その後の「改暦」※ でも「正月事始め」は12月13日のままとなった。

「煤払い」などをして年神様を迎える準備を始める日。地域によっては12月8日の「御事始め」として正月の準備を始める所もある。

昔はこの日に門松やお雑煮を炊くための薪など、お正月に必要な松の木を山へ取りに行く習慣「松迎え」があった。

京都祇園では芸妓や舞妓が芸事の師匠宅やお茶屋を訪れ挨拶をする習わしが続いている。


※ 改暦とは-----


「宣明暦(せんみょうれき)」・・・中国暦の一つで、かつて中国・朝鮮・日本などで長く使用されていた太陰太陽暦の暦法。日本では貞観4年1月1日(862年2月3日)~ 貞享元年12月30日(1685年2月3日)の何と! 823年間継続して使用された。
「貞享暦(じょうきょうれき)」・・・天文暦学者・渋川春海によって編纂され、貞享2年1月1日(1685年2月4日)~ 宝暦4年12月30日(1755年2月10日)の70年間使用された。
「宝暦暦(ほうりゃくれき)」・・・第8代将軍・徳川吉宗の意向で編纂されたが、吉宗の急死や幕府天文方の非力により朝廷陰陽頭・土御門泰邦に主導権を奪われて、「貞享暦」よりも劣ったものとなったものの、宝暦5年1月1日(1755年2月11日)~ 寛政9年12月30日(1798年2月16日)の43年間使用された。
「寛政暦(かんせいれき)」・・・天文学者・高橋至時によって編纂され、寛政10年1月1日(1798年2月16日)~ 天保14年12月29日(1844年2月17日)の46年間使用された。
「天保暦(てんぽうれき)」・・・天文学者・渋川景佑らによって編纂され、天保15年1月1日(1844年2月18日)~ 明治5年12月2日(1872年12月31日)の約29年間使用された。太陽の位置を計算し、天球上の太陽の軌道を24等分(空間分割)して「二十四節気」を求める定気法を採用した。
「グレゴリオ暦」・・・明治維新の改暦によって、新暦のグレゴリオ暦に改暦され、明治6年1月1日(1873年1月1日)~ 使用されている。「天保暦」は「旧暦(和暦、太陰暦)」と呼ばれ、「グレゴリオ暦」は「新暦(西暦、太陽暦)」と呼ばれた。



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■ 12月13日は「ビタミンの日」


1910年12月13日、農芸化学者・鈴木梅太郎博士(1874年4月7日~1943年9月20日)が、ニワトリとハトを白米で飼育すると「脚気(かっけ)」の症状で死ぬこと、そしてその原因として、米糠(こめぬか)と玄米と麦には脚気を予防して回復させる成分があることを示した、世界最初の論文が東京化学会誌に掲載された。

当初はその成分を、「アベリ酸」(ドイツ語 Aberisäure、英語 aberic acid)と命名したが、後に「オリザニン」(ドイツ語 Oryzanin、英語 oryzanin)と改名した。

1911年 米の糠の有効成分は、抗脚気因子に止まらず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であること、糠に脚気を予防する新規成分が存在することを示した。
1912年、糠から脚気を予防する成分を結晶として抽出し、改めて「オリザニン」と命名した。

しかしながら国際名としては、当時ロンドンのリスター予防医学研究所にいたポーランド生まれの化学者カシミール・フンク(ドイツ語 Kazimierz Funk、英語 Casimir Funk)が提唱した「ビタミン」(ドイツ語 Vitamin、英語 vitamin) が採用されてしまった。

そして、「ビタミン」のうちの「ビタミンB1」が「オリザニン」と同じ物質であることが判明し、更に「ビタミンB1」は「チアミン」(ドイツ語 Thiamin、英語 thiamin / thiamine)とも呼ばれるようになった。


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以上、「脚気」(かっけ、英語beriberi) とは、ビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1の欠乏によって心不全と末梢神経障害を来す疾患である。心不全によって足の浮腫(むく)み、神経障害によって足の痺(しび)れが起きることからそう呼ばれる。

精米された白米を食べる習慣が広まった平安時代以降の京都に住む公家・貴族が多く罹(かか)っていたが、江戸時代の江戸市中に住む徳川将軍はじめ上層武士にもこの疾患が流行したため次第に「江戸煩い(患い、わずらい)」と呼ばれるようになった。

大正時代には、結核と並ぶ "二大国民亡国病" と言われる程に拡大し、"難病" となった。

しかし、鈴木梅太郎博士の研究などによりビタミンB1の不足が原因と判明し、遂に脚気は治療可能となったのである。


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□「ビタミンB1」の多い食品


豚肉・ハム・ベーコン、鰻(うなぎ)、タラコ・スジコ・イクラなどの魚卵、海藻、玄米・黄粉、糠漬け、インスタントラーメン、など。



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□ お題「ビタミン系サプリ飲んでる?」


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我が夫婦は、サプリメント(栄養補助食品、健康補助食品)は全く利用しないことにしている。


小さい頃の私は、虚弱体質だったようで顔色は青白く皮膚病のハタケに悩まされ、しばしば感冒(風邪)の高熱と鼻炎に冒(おか)されていた。
戦後間もない当時の日本の子供たちは、その多くが大なり小なり栄養不足だった。

そのため親たちに、「薬用養命酒」「強力わかもと」「チョコラBB」などを飲ませられ、小学校では「ゼリー状の肝油ドロップス」を斡旋(あっせん)販売まで行っていた。

このように戦争直後の昭和20~30年代の日本は、家庭も学校も体力増強に一生懸命だった。

 

 


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