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10月10日は「銭湯の日」、「銭湯」の歴史・私の思い出。午後「舎人公園」の秋を散策。

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 10月10日は「銭湯の日」

1964年10月10日に開幕した「東京オリンピック」に因み、スポーツで汗を掻(か)いた後に入浴すると健康増進に繋がることからと、「1010」⇒「千十」⇒「せんとう」と読む語呂合わせとから、江東区の「公衆浴場商業協同組合」が1991年に制定し、その後、全国の組合に広まった。

「銭湯」は日本の公衆浴場の一種で、「風呂屋」「湯屋(ゆや)」とも呼ばれる。


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□「風呂」の語源


物を保存するために外気を防ぐように作った部屋である「室(むろ)」から転じたとする説。
茶の湯で湯を沸かすために使う道具である「風炉(ふろ)」に由来する説。


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□「銭湯」の歴史


日本の古代より神道の風習で、川や滝で行われた「沐浴」の一種、「禊(みそぎ)」が行われていた。
ヤマト王権時代に、朝鮮半島の百済(くだら)國から仏教が伝来した時(538年が有力説)、僧侶達が沐浴し身を清めるため寺院に「浴堂」「湯堂」が設置された。


飛鳥~奈良時代には、病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人・病人・囚人らへの施浴も積極的に行うようになった。当時の入浴は湯に浸かるのではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ「蒸(む)し風呂」形式だった。


平安時代になると、寺院の「蒸し風呂」様式の浴堂の施設を、上級の公家屋敷内に取り込む様式が現われた。それが次第に、浴槽にお湯を張り、そこに体を浸かるという「湯屋・湯殿」様式へと変化して行ったと思われる。


鎌倉時代には、一般人にも無料で開放する寺社が現れた。やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになり、これが銭湯の始まりと言われている。建造物として現存する最古の「湯屋」は平安時代の1239年に東大寺に再建された(室町時代の1408年に修復された)もので、「東大寺大湯屋」として国の重要文化財にも指定されている。
庶民の方は桶に水を入れて体を洗う「行水(ぎょうずい)」というスタイルが続いていた。
室町時代の京都の街中では庶民向けの蒸し風呂タイプの銭湯が増えて行った。


江戸時代には、行水と蒸し風呂が融合し浴槽を設けた「湯屋」「湯殿」の様式が一般的。浴室内の小さめの湯船に下半身を浸し上半身は戸を閉め切って蒸し風呂にするという中間型の入浴法で入る「戸棚風呂」が登場した。
銭湯は次第に、薬草を炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂から湯に浸かる湯浴スタイルへと変化して行った。しかも男女別に浴槽を設けることが経済的に困難なため、節約文化として老若男女が混浴であった。
当時の銭湯は、概ね朝五ツ(午前8時頃)~夜五ツ(午後8時頃)の営業。庶民や下級武士たちの娯楽・社交の場として機能していた。
一方、内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から庶民の家で内風呂を持つことは基本的に禁止されていた。
江戸時代後期には大店の商家でも内風呂を持つようになったが、それでも江戸の住民の大部分は内風呂を持つことが経済的に困難だった事情もあって銭湯を利用し続けた。
文化年間(1804~18年)には、人口約100万~120万人の江戸全体で600軒以上の銭湯があった。
尚、江戸・大坂・京都伏見などには水上生活者が利用する船内に浴槽を設けた湯船もあった。


*


□ お題「銭湯の思い出ある?」
 

 

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幼少期~少年期には、郡部の農村地帯に住んでいて集落に五右衛門風呂式の共同浴場(湯屋)が4軒在った。そして班毎に毎日持ち回りで沸かす風習だった。
ゆっくり入っていられない雰囲気で、待っている間は追い炊きや、入っている間は年寄りから背中を流してくれと求められたり・・・そんなこんなで風呂嫌いになってしまった。


実家にユニットバスが設けられたのは、思春期が過ぎた高校3年生の頃(1965年)だった。


私が初めて銭湯に入ったのも高校3年生時。能登和倉温泉出身のクラスメイト下宿先に遊びに行った際に、脱衣場の或る一点からだけ女湯が覗けると誘われたからだ。


その後では、社会人になって独身寮生活をしていた時期。最初に入居した横浜市内に在った独身寮(1971~73年)は、当時新築の6階建てビルでエレベータと大浴場を備えていた。但し2人部屋だったので、希望で1人部屋の世田谷区内に在った独身寮(1974~75年)に移った。ところが後者は古くて時々風呂釜が不具合になることがあり、近所の銭湯に通ったことがあった。それが最後。
 

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「舎人(とねり)公園」までサイクリング。4/21(水)以来6カ月近い、久しぶりの訪問。

▽ 往き


言問通り ⇒ 昭和通り ⇒ 明治通り ⇒ 荒川中央通り ⇒ 尾竹橋通り ⇒ 隅田川=尾竹橋 

 

尾竹橋は塗装工事中。

 

⇒ 荒川=西新井橋 ⇒ 荒川土手 


西新井橋 (足立区千住元町35 ~ 足立区関原1-1) から荒川上流方向を撮影。

 

⇒ 尾久橋通り(「都営新交通システム 日暮里・舎人スカイライナー」と並行) ⇒ 舎人公園。

▽ 帰り


舎人公園 ⇒ 尾久橋通り ⇒ 荒川土手(河川敷) ⇒ 荒川=千住新橋 ⇒ 隅田川=千住大橋 ⇒ 日光街道 ⇒ 国際通り。

往きも帰りも片道12.6kmだった。


*


尾久橋通り=日暮里・舎人ライナーの高架下に沿って北上。この路線は、ほぼ国道58号「尾久橋通り」の上を高架で走る。

4日前の10/7(木)夜に首都圏を襲った最大震度5強の地震で、脱線し、運転を見合わせていたが、今朝10/11(月)始発から全線で運転再開した。

東京新聞20211007


高野(こうや)駅 (足立区扇2-45-1) の張り紙



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■ 「都立舎人公園」 (足立区の舎人/舎人公園/西伊興/古千谷/皿沼に広がる)


舎人地区は、東京都23区の最北端で、文字通り細くて長い「毛長川」を境に、埼玉県草加市~川口市と隣接している。
元は江戸開城以来、後北条の重臣・遠山氏~城主・舎人氏の「舎人城郭」。太平洋戦争の戦前・戦後を通じた防空緑地 ⇒ 現在は首都圏直下型大地震の広域避難場所として指定されている。加えて、舎人ライナーの地下車両基地でもある。東京都中央卸市場/ 足立北市場、足立流通センターが隣接。1981年の開園。最終的には約70haの広域となる。 


園内マップ

 

 

全景






大池とマガモたち



アキニレの紅葉


ハナミズキの紅葉

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ピラカンサの赤い実


落葉針葉樹(メタセコイア)の林。
菖蒲田、せせらぎ、木道、四阿(あずまや)
噴水、中央の流れ/散歩道

 

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□ 舎人公園ボランティア花壇


ダリア各種


 

 



ダリア、コキア(別名ホウキギ)


ジニア(別名ヒャクニチソウ)、キバナコスモス


アメジストセージ(別名メキシカンブッシュセージ)


カッシア・コリンボーサ(別名ハナセンナ)??


ノコンギク??


ススキ(別名オバナ)、ハギ



ベニシジミチョウ


ショウリョウバッタ




▽ 舎人公園野草園

シモバシラ、ミズヒキ


ギンギツネ(別名ペニセタム・ビロサム)


ペルシカリア(別名シルバードラゴン)


サクラタデ


 

 

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昨日の宵の月 月齢3.7 「四日月(通称・夕月)」
20211010--17:30 (正中の2時間17分後)
南西の天空




 

 


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