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9月27日は「世界観光の日」、思い出の都市。

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■ 9月27日は「世界観光の日」(英「World Tourism Day」)。


「世界観光機関」(英「World Tourism Organization」、略称「UNWTO」) が1980年に制定した。

日本では近年、官民が一丸となって "観光立国" の実現に向けて取り組んでおり、2006年には「観光立国推進基本法」が制定され、2008年には「国土交通省」外局として「観光庁」が設立された。


***



■ お題「行ってよかった国、行ってみたい国はある?」

 

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□ 国全体の印象を語る程、多く訪問していないので、

訪問した都市のエピソードを紹介したい <再掲記事> 。

尚、余生に海外渡航する可能性は薄いが、訪問したい都市を敢えて挙げるならば、ローマかな。



*


▽ 1981年、米国のサンフランシスコ、メキシコのティファナ。 

 
私が米国西海岸へ出張した1981年だった。
サンフランシスコで仕事を終えた休日に、駐在員のMさんがロサンゼルス・ハリウッドのユニバーサルスタジオへ連れて行ってくれた。次々と思い出の映画シーンが出現するので、とにかく陽光眩(まぶ)しく花一杯のテーマパークだった。
我が国でも大阪でユニバーサルスタジオジャパン(USJ)が2001年3月にオープンし、出張の折りに訪れた。その時は下の娘が欲しがっていたスヌーピーの大きな縫包(ぬいぐる)みを、恥ずかしながら土産に買って帰った。
ハリウッドを後にして、ひたすらハイウェイを南下し、サンディエゴの軍港を右に見ながら、私が希望したメキシコ国境に入った。空港以外の出入国審査、パスポート提示というものは初めての経験。左手に砂漠というよりも土漠がスロープを描いて延々と続いていた。そして国境線の金網も延々と続いているのだが、運転手のMさんが指差す方向には、密入国を試みるメキシコ人が現実的にいるではないか。私が訪れた瞬時でもそうなのだから、密入国は日常茶飯事なのだろうと思った。
国境を越えるとそこはもう米国とは全然違う、明るいけれども貧しい風景なのである。米国は豊かでスプリンクラーを効かしたオアシスという感じなのだが、メキシコはあのマカロニウエスタンの映画そのものだった。

ティファナ(Tijuana)の町に入ると、原住民インディオの小柄で煤(すす)けた母親が背中に一人おんぶし、一方の手に子供の手を繋ぎながら、ガムを差し出している。Mさんから買ってやる必要は無いからと言われたが、つい同情からそのガムを買ってしまった。食べようとすると銀紙がくっ付いて剥(は)がれない。相当古かったのだろう。
<脱線> これで思い出したのは、後年、夏休みに家族と逗子へ出掛けた時。会社の保養所で夕食を取った後、夕涼みのため海岸を散歩した。帰りに小さな駄菓子屋さんを見つけたので中に入ると、私の好きなロッテ・ラミーチョコレートがあった!! お婆ちゃんから買って保養所の部屋で包みを開いてビックリ。溶けて銀紙が剥がれない。そう言えばこのチョコは夏場は通常、販売されていない種類である。
街中のメインストリートには、観光客向けの写真屋がいた。私はソンブレロを被(かぶ)らせてもらい、ロバに乗って記念撮影をしてもらった。結構高価だったと思ったが、悪い気はしなかった。
土産物屋が立ち並ぶストリートへ入って行った。Mさんは精一杯値切ったらいいですよ、とアドバイスしてくれた。店員は日本語が上手。いかに日本人の旅行者が多いか分かる。「オキャクサン、カネモチ、スミトモギンコウ」と言いながら、しつこく寄って来るのだ。
Mさんが耳打ちする。高いから帰るフリをしなさいと。私は家内への土産として皮製のバッグ(民族的な細工と模様を施したもの)を買いたいなと思っていたので、”Expensive!”と呟(つぶや)くフリをして帰ろうとしたところ、「オキャクサン、ビンボウ、ヤスクスル。」と半分にしてくれた。そこで、もう一声と思って、再び去ろうとしましたところ、更に半値、とうとう 1/4にして頂いたのだった。
グラシアス、アディオス、アミーゴ!
その日は、大きなタコスを食べ、運転をしない私だけテキーラを飲んで、一路、サンフランシスコへ戻った。メキシコのほんの玄関先を覗いたに過ぎなかったが、それでもきっとメキシコには一生のうちこれっきりじゃないかなと感じながら。

 

ティファナ市街の観光写真



 
*



▽ 1982年、カナダのケベックシティ。


1982年6月、私は会社代表の幹部お二人(A氏とB氏)のお供で、カナダ・ケベック州都のケベックシティにおいて開催 された業界の国際会議に出席した。
ケベックと言えば、カナダ建国当初から今日に至るまで、国のヘゲモニーを握るブリティッシュ系に抗し、独立の意志が事ある毎に見え隠れするフランス系が居住する地域である。実際に滞在してみると州の至る処がフランスであった。
幹部B氏と早朝散歩に出掛けた。その散歩道に、とんでもない落し物がある! 女性特有のナプキン、それも特大だ。ジョギングしていて外れて落ちてしまったのだろうか? それにしても驚嘆サイズ。体格が違い過ぎる。
3日間の会議日程も過ぎ、ケベックシティの最後の夜、民話劇を鑑賞した。フォークダンス、フォークソング、フォークコスチュームの素晴らしかったこと。旅愁も手伝ってウルルンする程だった。
会議終了後の休暇は、幹部A氏のプランで3人は、業界所定のコースに参加せず中年カナダ女性をガイドに雇って彼女の運転する車で、ご推奨コースを回ることになった。
日本に例えると夏を迎えた北海道であり、実に 美しい緑木と花と滝の連続だった。
A氏は、途中の土産として、とても大きな Wood Carving(木彫り画)を購入した。
これを成田空港に着くまで、私が運搬する役目だと。
私は大変困った。
出発前夜のホテルの部屋でHand Carryの準備に取り掛かった。
この時、良妻に感謝した。旅の準備中に妻から「遠出の時だから持ち帰り小物を持って行ったら。」と忍ばせてくれた麻紐・手提げが正しく活きた。
汗かきかきカナディアンウイスキーを飲みながら仕上げた。

 

ケベックシティ市街



B氏と空港で別れた後、ダラス経由でヒューストンに一泊し、世界的なコンピュータ・フェアを見学した。
見学後、ヒューストンから最後のサンフランシスコに向かうため、A氏と搭乗手続を取った。
外国の航空会社は、必ず、前夜、Recomfirmationしておく必要があるので、私がまとめて済ませていた。
しかし、安心は裏切られた。
あのパンアメリカンは、Reconfirm関係無く、過剰にOverbookingしていた。我々を含む7,8名があぶれてしまった。
A氏は得意の英語で捲くし立てて交渉に成功し、最後の一人として予備シートかをGetしたのである。
私のこともPartnerだと折衝はしてくれていたものの、彼は「I don't like PANAM !」と捨て台詞し、機内に吸い込まれて行った。
私はパニクった。これは大変困ったことになった。
そこへ、日本語で「もしもし」と後ろから肩を叩く人物がいた。
振り返ると白人であった。彼はフィンランド人で秋葉原にも調査と買い物に来ることもあるという、部品メーカーのManaging Directorの方、欧州では社長に当たる。
PANAMからUnitedのシートを確保したという解決策が出され、社長氏のリードの下にそのゲートへ向かった。
空港は物凄く広い。その代替のゲートは全く反対側だった。彼に励まされ、痺(しび)れる両腕の力を振り絞って着き従った。
サンフランシスコ国際空港(SFO)に到着し彼はレンタカーでシリコンバレーに向かうと言った。
別れる前に空港のバーでビールまでご馳走してくれた。「よく頑張ったね」「何と御礼したら良いか」「日本の事を教えて下さい」。私は一生懸命にペンを走らせながら、時間の許す限り、返礼した。
涙の「See you again, in Tokyo.」の後、SFOにやっと着いたのだった。

会社の現地事務所にとっくにご到着のA氏に電話が繋げた。「心配していたよ。一人でも来れるじゃないか。自信になるね」。
戦後、先駆けてボーイング・ジェット旅客機を世界に飛ばし、インターコンチネンタル・ホテルを経営し、日本でも、兼高かおる世界の旅、大相撲のヒョーショージョーで名を轟かせた老舗PANAMは、その3年後の1985年のユナイテッドへの一部営業譲渡、91年経営破綻。
その後、デルタ、アメリカンの各航空会社へその多くを譲渡し、国内便会社となってしまった。


*



▽ 1986年、スペインのマドリッド。 


私は1986年に、仕事でスペインを訪れた。
渡航前の壮行飲み会では、ロサンゼルスのエイズ(AIDS)患者からウィルス(HIV)が発見されてから5年経過し、我が国でも認識が高まって来ていたため、「十分気を付けろよ」と背中を叩かれた。
私は「仕事一途(いちず)だよ」と。
マドリッドのホテルでの会議の後は、夜の食事。
プラド美術館。エル・グレコ、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤそしてピカソ。あ~あ~あ~!!
トレド・コルトバ・セビリアへのバス・ツアーは、マドリッドから一路南下、モレナ山脈を越えれば、アンダルシア地方。
ネバダ山脈とに囲まれたこの広大な盆地には、至る所、8C~15Cの長きアラブ支配の影響が満載だ。
フラメンコ、トレロ(闘牛士)、シェリー酒。極東の人間でさえ、ある種ノルタルジーを覚えるのだから、異郷に置かれていた出身者は、白い壁やイエペス、タレガのギターの調べが流れて来たならば、嗚咽(おえつ)が止まらなくなるのではないか。
トレド
ホテルでは、当時の日本では珍しい、
冷蔵庫と電話がコンピュータに接続された 
"コンピュータ=テレフォニー・・・現代ならばIPテレフォニー"が稼動していた。
会社のA役員氏がそのご出張では、奥様ご同伴だった。
チェックアウトの時に、彼がびっくり仰天!
全く覚えの無い大量のドリンクがチャージされていたからである。
彼女はおっしゃった。
「貴方が会議に出ている間に、退屈していたから、冷蔵庫にどんな飲み物があるのかなと思って、全部出してみたのよ」と。

私は、スペイン料理を堪能(たんのう)できた。
小海老の塩茹(ゆ)で、ヨーロッパ鰻(うなぎ)・・・学名はアンギラ・アンギラ・・・の稚魚=シラスのニンニク・オリープオイル煮。
海産物を主体とした料理が多く、日本人の舌に実に合う。
先日、2月21日の日経新聞朝刊のコラム「春秋」欄には、このアンギラ・アンギラや、太平洋マリアナの海で孵化(ふか)し、春を告げるように辿り着く日本鰻・・・学名はアンギラ・ジャポニカ・・・が、20年前の1割以下に激減したそう。
20年前と言えば、正しく私がスペインを訪れた頃。
またしてもワシントン条約の登場。

マドリッドのデパートへ行ったところ、1Fが家具・調度品の売り場でちょっと驚いた。
ヨーロッパ人らしい。
私の求める食料品やワイン・シャングリアは、最上階だった。
日本では、家具や催事場は上の階、食料品はデパ地下と決まっているのに。
市内を散歩しますと、どのショップもどのカフェレストランも、薄明かりしか点けていない。
これも日米と異なり、電気を浪費しない生活態度ではと感じた。

今夕のTBS番組「人間これでいいのだ、世界初耳ランキング(最終回)」を観ていたところ、女性から男性を誘う比率が世界一なのは、断トツにスペイン。
勿論、素人の女性の統計だとのこと。
家内と一緒に、もう一度、陽気な国を訪れたいものである。
そこには、「愛のロマンス」、「アルハンブラ宮殿の思い出」などの風景・生活・文化が溢(あふ)れている。

 

トレド市街


 

 
*



▽ 1988年、韓国のソウル。 


私が韓国のソウルを訪れたのは、1988年の冬1月22日だった。
丁度、数カ月前の前年11月に金賢姫(ヒョンヒ)による大韓航空(KAL)機爆破事件が起こり、その年の9月にはソウル・オリンピック直前の時期である。
<追記> 2007/04/12号の週刊文春では、彼女が子供達のために米国へ亡命している、と報じている。
当時は、今後の日本はSEの不足が深刻化する所謂(いわゆる) "ソフトウェア危機" がやがて到来する恐れがあるので、韓国・中国・台湾・シンガポール・インドなどの成長が予想される諸国と協力する必要があると、旧・通産省とコンピュータ業界とが、国際情報化協力センターという財団法人「CICC」を設立したり、「Σ(シグマ)」という国家プロジェクトを立ち上げた頃だった。
私の勤務先でも、先ず韓国企業とソフトウェア協力を進めようとしており、データベースセンターを持つD社や、財閥系のコンピュータ企業のS社と提携を模索していた。

私は海外事業を支援するスタフ部門に属し、入社から17年弱を経過し、子供が11歳を頭に9歳と4歳の3人授かったこともあって、張り切って韓国・米国・欧州の有力企業との国際提携支援スタフの仕事に従事していた。
その前々年かには、会社が粋(いき)な計らいをし、真新しい "インテリジェントビル" となった本社へ、年末の休日を利用して社員の家族が職場見学できる催しがあった。
二人の娘が私のデスクに腰掛けて、「パパは、こうしてタバコばっかり吸ってんでしょ」と。
会社の食堂(カフェテリア)で昼食を取ったり、経営会議の行われるディシジョンルームの100インチx2面の大型スクリーンに映し出された「サザエさん」を、しかも次の日曜日に放映予定の話という極め付け。私の家族は最前列に座らせて。。。
最後には、正面玄関に飾られた門松と記念撮影もした。

年明けの冬の或る日、提携先の韓国D社のL社長殿が、上司のM部長に対し、日頃お世話になっているからと、裏方の私をソウルに招待したいとのお声が掛かったのだった。
部長は3泊4日で行ってらっしゃいと私に命じた。私は折角のお誘いなのに随分短いですねと彼に申したところ、余り長いと体が持たないからとよく分からないことをおっしゃいた。
いずれにしてもお金を出してもらい、初めて韓国へ行けるという楽しみが湧いて来たのだ。
当時、丁度、親友のY新聞カメラマンをしているO君が、成田支局勤務となっていたので、飛び立つ前に会おうじゃないかと私は直ぐ彼に連絡した。
当日の彼は、フリーパスの腕章をしていて、何か有名人を撮るように、パシャパシャとシャッターを切ってくれた。
ところが、成田のソウル行きゲートの周辺には、一目見てもその道の御方と分かる恐い集団がラウンジを占めていらっしやる。国際ご開帳だろうか。紅一点の姉御さんもいらっしゃった。
この方々が飛行機機内に消えてしまうまで、我々は待っていたところ、とうとう最後の一人となり、O君は機内まであたかもVIPの如くに、私を撮影してくれた。
金浦(きんぽ)國際空港(김포국제공항)に着陸しましたところ、迎えてくれたD社の幹部の計らいで、VIP入国手続きだった。離陸も着陸も、どーなっちゃってるのかな!?
空港から市内までの高速道路は、緊急時には、いつでも滑走路に転換できるようになっているとの説明を受けた。
途中で見た山々は全て禿山(はげやま)で、植林しないのかなあと思った。
早速、D社事務所に案内されたところ、社員全員が朝8時に早朝出勤して、日本語の勉強をしておられるとのこと。
そのうちの若手幹部の人達を前に、私の拙(つたな)い講演をした。テーマは、「日本市場におけるコンピュータの分散処理動向」という風なものだったと思った。
私は、ゆっくりした日本語で話した。皆さんの目は真剣そのもので輝きさえ感じた程だった。
仕事を終えた時間帯には、主だった市内観光、建設中のオリッピック競技場施設、屋台村、などへ案内して頂いた。
韓国では、目上(親・年上・上司など)の人に対しては、お酒を注(つ)ぐ場合、両手を添えて、目下には片手で受ける習いがあり、それを知らない私は若手に両手で注いだところ、クスクス笑われた。日本も戦前はそうだっただろうか。
屋台村では、店のお姐さんから、私のことを ”韓国人と変わらない”、つまり、違和感が無いというようなことを言われ、私の血は朝鮮半島を経て来たに違いないと実感した。
翌日の夜は、伝統的かつ高価な宮廷料理をご馳走になったり、韓国サウナへ連れて行かれて、"垢(あか)すり" の洗礼を受けたりした。
素っ裸になってハイティーンらしき若者二人に左右から垢すりをやられる体験は初めてだったので、最初は何か、うら若き女性が襲われる時はこんな気持ちかな、なんて思う恥ずかしさが先行した。
しかし不思議なもので、ものの2,30分もすると恥じらいなんて無くなり、キモチイイ気分になるものなんである。
サウナの後は、焼肉と韓国ビール・眞露(じんろ)を腹一杯頂き、クラブへ行った。カラオケが無くって、若者の生バンドなのだ。釜山港へ帰れ、黄色いシャツ、そして日本の演歌を数々披露した。
ロッテホテルの喫茶室では、私に対する接待を巡り、D社とS社の幹部氏が言い争っていた。複雑さ・・・。
そうこうしているうちに、アッと3日が経ってしまった。深々(しんしん)と降る美しいソウルの深夜の雪にも出会った。
今回はご招待とは言え、飛行機代と、せめてホテル宿泊代は支払わなければと、4日目の朝早く起きて7時にチェックアウトに参ったところ、もう既に精算されていたのである。

さて、お土産の一つに、大きな樽に入ったキムチは完全密閉(みっぺい)していますから、大丈夫ですよと頂き、土曜日のお昼頃、箱崎からタクシーで会社事務所まで到着し、書類やお土産を置いてから自宅に帰ろうとした。
ところが、その土曜日は、滅多に無いビル電気設備の点検の日で、全館停電だった。エレベータも動いていない。
警備員に21Fまで階段を上ると言ったところ、行けるものなら行ってごらん、なんて言われ、階段口へ行ったところ、真っ暗!
しょうがないので、頼み込んで月曜まで警備室に荷物を預かってもらうことにした。
月曜日にご挨拶して荷物を自分の席まで運び、机の下に置いた。1時間位経って自席に戻ったところ、キムチの激臭だ。それにしては警備員の方は何もおっしゃらなかったことに、頭が下がった。
会社経理に今回の出張精算を出し、殆ど会社の費用を使いませんでしたと言ったところ、そんなのが一番危ない、と言われてしまった。

ソウルの土産・韓国人形


 
*


▽ 1991年、スイスのジュネーヴ/ローザンヌ。 


私が初めてスイスに出張したのは1991年3月のこと。
国連における電気通信分野の国際標準・電波割り当てという大変重要な機関としてITU(International Telecommunication Union, 国際電気通信連合)があり、本部はスイス・ジュネーヴに置かれている。
この機関の主催で、4年毎に開催される通信分野では世界最大級のフォーラム&フェアが、その年は開催年であり10月に迫っていた。「テレコム91」である。
そこで、いよいよ会期が迫り、後、残すところ半年となって来たため、リーダーのD氏と二人でスイスへ乗り込み、ITUとの対話、会場の下見、フェアサポート要員の宿泊施設予約、等をすることになった。
レマン湖の西南端に位置し、フランスに突き出ている地形なので、周囲をフランスに囲まれています。市電で通勤するフランス人労働者が大変多いそう。
アルプスの雪が融(と)けたレマン湖水が、ここジュネーヴから流れ出し、ローヌ川となってフランス・マルセイユで地中海に注ぐ。
我々が訪れた3月下旬は天候に恵まれ、長旅の眼が覚めるような雲一つ無い快晴だった。レマン湖面を滑空しながらコアントラン空港に着陸するまでの心のときめき。
空港から「国連ITU本部」を告げたにも拘わらず、タクシーの運ちゃんは通り過ぎる始末。どうも英語が通じない様子なので、フランス人でしょう。それとも誤魔化した?  
ITUの下部組織の事務局を訪れドイツ人の幹部氏と対話した。ところが、彼が何度かお茶を頼んでも事務局の女性二人はおしゃべりしていて、給湯室? から出て来ない。自分達のティーブレイク優先? とうとう痺(しび)れを切らした氏ご自身が、申し訳無さそうに、ティーを入れて来られた。国連の非効率性の一端を垣間見た気分だった。巨額の運営費を負担している米国がいつも批判的なのは理解できた。

ジュネーヴで初めてのランチは、街中の庶民的な所でということになり、旧市街の石畳をかなりの高速で走る路面電車「トラム」に乗って移動し、適当なところでスーパーマーケットの中に在る大衆食堂に入った。
カフェテリア・スタイルだったので、D氏が私の勉強をかねて先に列に並ぶようにと。順番が来るまでにアレとコレにしようと決め、いよいよ私の番が来た。国際都市といえども街中では英語が通じないとは知りつつ、単語位は分かるだろうと指を差してローストチキン&フライドポテト、プリーズと注文した。
ところが、チキン、ビーフの両ミートに、粟(あわ)のような主食の物、更に途轍(とてつ)も無い大量のプライドポテトが大皿に載って出て来たのだ! とても全部は食べられそうに無い程の量。予めパンも選んでいる。ア・リトル・フライドポテトと再び申し出ても全く通じず、食堂のお婆ちゃんの方も迷惑というより分からなくて申し訳無さそうな表情を繰り返すばかり。私も狼狽(ろうばい)している。どうも定食メニューしか無く、一品別の組み合わせはやっていなかった。
私は、結果として、どうも二種類の定食・・・①ローストチキン+フライドポテト+主食、②ローストビーフ+フライドポテト+主食・・・を一度に頼んだことになり、その量の、言わば馬にでも食わせるような多さに苦笑。周りのお客さんもさぞ、"東洋人の大食漢" と思ったに違いない。

午後は、特急に乗ってヴォー州都の上品な街、ローザンヌへ向かった。国際オリンピック委員会IOCの本部が置かれている。
現地に住む日本人女性の通訳さんの案内で、フェアのスタフが会期中、寝泊りするホテルの確認作業。全世界の政府・業界団体、ベンダー各社が、前回「テレコム87」が終了した直後に予約を済ませるような状況。

ローザンヌでの役目を終えたジュネーヴへの帰途、飛び乗った電車が特急や急行でなく普通電車(レギオナルツーク) で、1時間に1本しかない各駅停車。
のんびり構えましょうと、徐(おもむろ)に件(くだん)の沢山残ったポテト・・・かなり臭(にお)って来ていた・・・をバッグから取り出し、二人仲良く半分っこし、ムシャムシャ。ローザンヌ駅を出て間もなく、程近い西の外れにワイン畑とチューリップ祭で知られたモルジュがあり、その隣村がトロシュナ。かのオードリー・ヘプバーンはこの村に眠っている。私が訪れた2年後の1993年1月に亡くなってしまった。
車内でポテトを食っている東洋人二人は、途中で乗って来た女学生にご挨拶した。我々と彼女達、その車両には他に乗客はいない。アルプスの少女ハイジ」や「ハウルの動く城」の雰囲気。
のんびり電車で、退屈を和らげることができ、車窓のスイスの田園風景と旅情に浸(ひた)ったのだった。

 

レマン湖、ローザンヌ市街



 
*


▽ 1996年、米国のサンフランシスコ/シリコンバレー(サンタクララバレー)/ラスベガス。 


1996年11月下旬だった。
業界の営業代表によるインターネット、モバイルコンピューティングの進展、等々の米国最新事情視察団御一行で、シリコンバレー、ラスベガスを訪れた時のこと。
ラスベガスでは、駐在員の友人とともに、本場のストリップ拝見としゃれ込み、一人20$のチップを弾(はず)むと、列を飛び越えて齧(かぶ)り付きに案内される。
齧り付きにはナント!! 日本人団体ばかりがズラリ。
社長らしき人物の左右に幹部らしき人達が付いている姿も。
ちょっと抵抗を感じたものの形振り(なりふり)は構っていられない。
駐在員の彼に教わって、自分の真ん前のステージ裾(すそ)に1$札を折って立てる。
言わば紙相撲の如く。
そうすると踊り子さんがスペシャルサービス。
流石に、本場は凄い美人揃い。
けれども、7$程立てたところで、飽(あ)きが来てしまい、劇場を後にした。

ラスベガスというところは聞きしに勝る大アミューズメントエンターテイメント・シティだった。
並み居る一流ホテル、それが全てテーマパークなのだ。かつカジノ。
またミュージカル、アイスオンステージ、マジックショー、数々エンジョイできる。
私は、よく出ていたスロットマシンを見つけて、こっそり朝駆けでチャレンジし、100$ゲットした。
尚、ベガスを去る時の空港の待ち時間では、ゆめゆめスロットで時間を潰(つぶ)してはいけない。
必ずや残金を皆落として行けという回収マシンになっているからである。

私の場合は、COMDEXという世界最大のコンピュータ見本市がラスベガスで開かれた年だった関係上、日本人を筆頭に世界各地から米国へ押し寄せる時期であって、我々業界もチャーター便でサンフランシスコまで飛んだ。
シリコンバレーのHPやORACLEを訪問した後、一昼夜かけてバスを連ね、一路、ベガスへと向かった。
シエラ・ネバダ山脈の向こう側の広大かつ荒涼とした砂漠・・・いわゆる砂地ではなく、土漠(どばく)という方がピッタリ、ドバクを進んでトバクをやりに行く、なーんちゃって・・・
ハイウェイの中には、大きなアウトレット・モールがあった。
我が国にも近年は「道の駅」の中にはそれに似たスポットが増えつつあるが、米国は何から何まで大規模。
行けども行けども、あたり一面真っ暗な空間が続き、乗客は居眠りをするしかない。
そこで忽然(こつぜん)と、暗闇の中から、フルカラーのネオン煌(きらめ)く一大都市が出現するのだ。サプライズ!!
米国では、小金を貯めた老夫婦が昼夜を問わずギャンブル三昧(ざんまい)。
グランドキャニオンを見てベガスに泊まる、これが老後の楽しみの一つだそう。
さしずめ日本ならば、富士山の麓(ふもと)、風林火山の甲斐辺りにカジノを設けてはいかがか?
オリンピックだ、カジノだを東京に設け、これ以上、過度集中させるような政策を避けて頂けないか、石原さん。
私はナイヤガラは訪れたことはないが、空から、そして降り立ってのグランドキャニオンの眺望は必見!!
最初から最後までカメラレンズの眼を通してのみ見物している日本人も散見されるが、一生に一度でしょうから、肉眼に焼き付けた方をお勧めしたい。
 

ラスベガス市街

 

 


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