■ 9月21日は「敬老の日」
1966年に国民の祝日として、「多年に亘り社会に尽くして来た老人を敬愛し長寿を祝う」という趣旨で「敬老の日」が制定された。
2002年までは9月15日を固定の「敬老の日」としていた。だが「祝日法」の改正で「ハッピーマンデー制度」が実施され、2003年からは可変の「9月第3月曜日」となった。
「敬老の日」と同様の趣旨の記念日として、「老人福祉法」によって定められた、9月15日の「老人の日」、9月15日~21日の「老人週間」がある。
そもそも「敬老の日」は、兵庫県多可郡野間谷村(1954多可郡八千代村⇒2005多可郡多可町八千代区)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始まり。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、1947年から、農閑期に当たり気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、「敬老会」を開いた。1950年からは兵庫県全体で行われるようになり更に全国に広まったのである。
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□ お題 「敬老の日、感謝の気持ち伝えた?」
▼本日限定!ブログスタンプ
9/24(木)にお彼岸の墓参りに伺うので、その時に伝えたい。
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「敬老の日」の昨日9/21(月・祝)は、「お彼岸」4連休の3日目。
日中から涼しく"withコロナ"の人出く、久々の"密"に驚いた。
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気温℃ 湿度%
最低 最高 平均
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9/18(金) 26.4 33.4 74
9/19(土) 「彼岸入り」 22.6 27.1 78
9/20(日) 20.8 23.7 80
9/21(月・祝)「敬老の日」 19.7 26.1 78
9/22(火・祝)「秋分の日」
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午後、陽が傾いてから「隅田公園」~「山谷堀公園」~「今戸神社」などを散策した。
今回も☆「台東区の記念碑&像」#6が含まれる。
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□「聖観音宗総本山金龍山 浅草寺」(台東区浅草2-3-1)
▽ 本堂(観音堂)裏 奥山一葉観音銅像の周辺
ムクゲ
コムラサキの実
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□「区立隅田公園 梅めぐり散歩道」周辺 (台東区浅草7-1)
ヒガンバナ
スイフヨウ
今でも多くの人々に名曲として歌われている「春」は、「春」武島羽衣(本名は又次郎)・作詞、滝廉太郎・作曲の唱歌。
武島羽衣は、東京帝国大学国文科を卒業し、上田萬年の指導を受け、現在の東京芸術大学音楽部の教授となった。同学の助教授だった滝廉太郎が曲を付けた。
☆正岡子規の句碑「雪の日の 隅田は青し 都鳥」(浅草7-1 梅めぐり散歩道付近)
程近い「待乳山聖天」から、大正時代まであった渡船場「竹屋の渡し」への眺めを詠んだ句。
19,18
☆「竹屋の渡し跡」(別称「竹町の渡し」「花川戸の渡し」など。少年野球場付近)
隅田川には新吉原遊郭への乗客を乗せた船が、両岸を何往復もしていた。女主人の掛け声、「竹ヤー」は山谷掘の船宿竹屋からとったもので、その声の美しさは有名だったらしい。
☆「平成中村座の発祥地」(少年野球場付近)
江戸初期に、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)により中橋南地(現在の京橋付近)に建てられた「猿若座」が「中村座」の最初であるととともに江戸歌舞伎の発祥地。
その後は、日本橋の禰宜町~堺町を経て天保年間に浅草(現在の台東区浅草6丁目)に移った。以後約40年にわたって一大芝居町として繁栄した。
その「中村座」が長い時を経た2000年、先祖所縁の土地・浅草で「平成中村座」として復活した。たちまち浅草を席巻し大當りを取った平成中村座は、平成の終わりが近づく平成30年(2018年)11月、十八世中村勘三郎七回忌追善公演として浅草に帰って来た。
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□「区立山谷堀(さんやぼり)公園」(浅草6/7, 東浅草1)
公園内の橋・・・隅田川側より今戸(いまど)橋~聖天(しょうでん)橋~吉野橋~正法寺橋~山谷堀橋~紙洗(かみあらい)橋~地方(じかた)新橋~地方橋~日本堤(にほんづつみ)橋~三ノ輪橋。
山谷堀はかつて在った水路で、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、石神井川の支流・音無川の箕輪(三ノ輪)⇒大川(隅田川)への出入口である今戸(水門)まで造られた。戦後の売春防止法による吉原閉鎖後、1975年までに全て埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが「台東区立山谷堀公園」として整備されている。
☆「今戸橋跡」
ハナミズキの実
「紙洗橋」
名前はこの付近で作られていた浅草紙に由来する。浅草紙は古紙や紙屑を原料にした漉返紙(ちり紙、再生紙)で、吉原の遊女が手紙の代用や後始末に使い大量の需要があった。山谷堀にも多くの作業所があり職人たちが紙屑を紙舟に入れて堀の流れに曝(さら)しておくことを "冷やかす" と呼んだ。この2Hばかりの作業中は暇を持て余した職人が遊郭見物に出掛け、登楼せずに帰ってしまうことから買う気のない客を表す隠語として "冷やかし" という言葉が生まれた。
「地方橋」
「日本堤」案内板
「新吉原」案内板
江戸時代には、「新吉原遊郭」への水上路として隅田川から遊郭入口・大門(おおもん)近くまで猪牙舟(山谷舟)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言った。山谷通いの旦那衆が乗ったという猪牙舟は、柳橋(神田川)から大川(隅田川)を上って「首尾の松」(今の蔵前橋)の目印を越えて大川橋(今の吾妻橋)を潜り、待乳山聖天様を目印に山谷堀へ左折した。山谷堀は川幅が極端に狭くなっていて小舟でもUターンができず御大尽でも船を降ろされ、徒歩か籠で日本堤(土手通り)を廓の玄関・大門口まで通わなくてはならなかった。
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□「今戸神社」(別称「今戸八幡」、台東区今戸1-5-22)
1937年に「白山神社」を合祀し「今戸神社」に改称した。
沖田総司終焉の地
今戸焼の平成版招き猫発祥の地。
もう帰るの? と私には聞こえた!?
1571年の創建し浅草鳥越に鎮座。1645年に幕府御用地に指定され三谷村(現・台東区清川1-7/8付近)に遷座し「三谷明神」と尊称。1923年の関東大震災で社殿を焼失し区画整理で現在地に遷座。
☆「熱田神社と大太刀陰陽丸」の案内板
全長368.5cm。1847年に刀工・川井久幸が制作。1858年のコレラ流行の際には疫病を祓うため町内を巡行した。
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□「吉原神社」(台東区千束3-20-2)
1655年の「明暦の大火」後に建設された「新吉原遊郭」に祀られていた「玄徳(よしとく)稲荷社」と廓四隅の「榎本/明石/開運/九朗助の四稲荷社」が、1872年に合祀され「吉原神社」と改称した。
☆「新吉原花園池『弁天池』碑」
1923年の関東大震災の際に逃げ遅れた遊女約490人がここにあった弁天池に飛び込み溺死した。新吉原は遊女の逃亡を防ぐために出入口が大門のみという構造であったため、遊女達が逃げ惑い次々と弁天池に身を投じることとなった。1959年の吉原電話局(現・NTT吉原ビル)の建設に伴う埋立て工事のため、池は僅かにその名残を留めるのみとなった。
1934年に現在の新社殿を造営し、その際に境内飛び地の花園池「弁天池」に鎮座する「吉原弁財天」も合祀した。1945年の東京大空襲で焼失、1968年に現社殿が再建された。
「逢初桜(あいぞめざくら)」
逢初とは恋焦がれている人に初めて会うという意味。江戸時代より遊客の出逢いを叶える桜として新吉原入口の「玄徳稲荷社」脇に植えられていた。「駒止松」「見返り柳」と合わせて「廓の三雅木(さんがぼく)」として呼ばれていた。
現在の「逢初桜」は2012年に植樹された枝垂れ桜。
□「緑苑吉原弁財天本宮(もとみや)」(別称「吉原弁財天奥宮(おくみや)拝殿」、千束3-22-3)
新吉原花園池「弁天池」跡。1657年の明暦の大火後、幕府の命により湿地の一部を埋立て日本橋の吉原遊廓がこの地に移された。遊廓造成の際に池の一部は残り池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰を集めた。1960年には有志の方々によって改修工事が行われ、東京芸術大学学生によって壁画が描かれた。
☆「花吉原名残碑」(1960年)
吉原遊郭の歴史を永く止めようと地域有志によって建立された。碑文は共立大学教授で俳人の山路閑古氏。
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昨夕の三日月 (月齢3.7・・・月の入り20:40)
南西の空
20200921--17:39 (月の入りの丁度3H前)