国営企業だった「日本電信電話公社」(略称「電電公社」)が1985年に民営化され、「日本電信電話株式会社」(略称「NTT」) が発足した翌年1986年6月19日、「電話でおしゃべりしてほしい」という意味を込めて、語呂合わせで毎月19日を『トー(10))ク(9)の日』と定めスタートしたのが始まり。
近年の若者達は自宅に固定電話を持たず携帯電話(スマートフォン)や携帯情報端末(PDA)が主体となり、しかも通話するよりメールやLINEなどによる交信が中心となっている。
□ お題は「最近電話で話したのは誰?」
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妻は固定電話やスマホで通話し、スマホでメールやLINEを交信する。
夫(私)は固定電話やガラケーで通話し、ノートPCでメールを交信する。
尚、固定電話は常時、留守電に設定して詐欺電話や営業売り込み電話をほぼ排除している。
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「台東区の記念碑&像」を引き続き巡回撮影した。
これまでの関連ブログ
9月12日は「プログラマーの日」「マラソンの日」。「台東区の記念碑&像」#1 (2020-09-13)
9月13日は「世界の法の日」。「台東区の記念碑&像」#2 (2020-09-14)
9月14日は「コスモスの日」。「台東区の記念碑&像」#3 (2020-09-15)
9月17日は「八朔」、「キュートな日」。「台東区の記念碑&像」#4 (2020-09-18)
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■ 「台東区の記念碑&像」#5
▽「浅草天文台跡」[別称「司天台(してんだい)跡」、台東区浅草橋3-20-12 蔵前橋通りと江戸通りの蔵前一丁目交差点]
1782年に牛込藁店(わらだな、現・新宿区袋町6日本出版クラブ付近)から浅草御蔵前片町裏(台東区蔵前1/2/3付近) に移転し新築された江戸幕府「天文方」の施設「頒暦所御用屋敷」。明治維新の1869年に廃止されるまで暦を作るための天体観測などが行われていた。
高橋至時が「寛政の改暦」に際して観測し、その弟子・伊能忠敬は『大日本沿海輿地全図』の全国測量に先立ちここで緯度一分の長さを求めようとしている。至時の子・高橋景保や「天保の改暦」を主導した渋川景佑たちが働いた施設である。
▽「浅草御蔵(おくら)跡」(別称「浅草御米蔵跡」、台東区蔵前2-1 蔵前橋西詰の北部下水道事務所傍、1956年)
江戸幕府が全国に散在する天領から運んだ年貢米、買い上げ米、大豆などを収納・保管した倉庫で、幕臣団(旗本・御家人)への俸禄米支給、札差に委託して江戸市中への売却などを出納する機関。1620年に創設。「浅草御蔵」、「大坂御蔵」、「二条御蔵」(京都二条城内)と合わせて勘定奉行が管轄する"三御蔵"と呼ばれた。
明治維新で新政府に接収され、関東大震災(1923年)で焼失した。尚、東京台東区に「蔵前」という町名が生まれたのは1934年。
▽「首尾の松」(蔵前1-3 蔵前橋西詰の浅草御蔵跡向かい、1962年)
柳橋の舟宿から猪牙舟に乗って大川(隅田川)の釣り名所へ出て、山谷(吉原遊廓方面)へ向かったところにある、浅草御蔵の一角から枝が川面に迫(せ)り出した松をこう呼んだ。
名の由来には諸説あるが、その一説に、舟で大川を遡(さかのぼ)り山谷堀から吉原遊郭へ入り込む客が、この松の辺りで「今日の首尾は…」「昨夜の妓楼は…」などと首尾を求め語った(情報交換した)とか・・・。
歌川広重「名所江戸百景 第54景『浅草川首尾の松御厩河岸(おうまやがし)』。
▽「浅草文庫跡」(蔵前1-4-3 第六天榊神社境内、1940年)
1874年に創設された官立図書館。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万~13万冊とも言われ、1881年に封鎖、翌年に設立された東京職工学校(⇒旧・東京高等工業学校⇒現・東京工業大学)の敷地の一部となった。現在、その蔵書は国立公文書館内閣文庫、国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵されている。
▽「御厩(おうまや)の渡し跡」[別称「御厩河岸の渡し跡」、台東区駒形2-1先 「隅田川テラス」厩橋西詰]
現在の「厩橋」付近の河岸には幕府「浅草御米蔵」があり、その付随施設の「厩(うまや)」があったのでこの名が付いた。1690年に「渡し」として定められた。渡し船8艘、船頭14人、番人4人、渡賃は1人2文で武士は無料という記録が残る。歌川広重の錦絵「浅草川首尾の松 御厩河岸」にも描かれた。1874年の「厩橋」架橋に伴い廃された。
▽「浅草六区通り」(旧「ロックフラワーロード」、台東区浅草2-6)
伝法院通りと浅草公園六区興行街を結び、つくばエクスプレス浅草駅から0分という繁華な浅草の核になる位置に存在する。1951年に「瓢箪(ひょうたん)池」が埋め立てられて後、六区界隈に緑が望まれ通りを植栽で埋め道路もジグザグにした。しかし植栽が繁茂しすぎて通りが暗くなりがちだったので、つくばエクスプレス開業(2005年)を機に植栽を撤去し道路と街路灯のリニューアルを行った。15本の街路灯の表裏に浅草を愛し育てた六区所縁の文人・芸人として大宮敏光・渥美清など33名の写真とプロフィールを取付け、浅草らしさを演出している。
▽「幇間塚(ほうかんづか)」(浅草2-3-1 浅草寺鎮護堂境内、1963年)
鎮護堂(愛称・お狸さま)は、浅草寺境内に大量に出没しイタズラする狸を鎮めるために、伝法院の守護として祀った。お座敷言葉で“たぬき”と言えば、男芸者で太鼓持ちとも呼ばれる「幇間」のこと。客の宴席に侍し座を取り持つなどして遊興を助ける役。幇間有志(吉原の幇間として聞こえた桜川の一門)によって、幇間物故供養のために建立された。碑には、久保田万太郎氏の俳句「またの名の たぬきづか春 ふかきかな」。
▽「かっぱ寺の伝承」[台東区松が谷3-7-2 曹洞宗巨獄山(こがくさん)曹源寺(通称「かっぱ寺」)]
文化年間(1804~1817年)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)が、この付近は水捌(は)けの悪い低地で雨が降ると洪水となり住民は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための「新堀川」堀割(開削)工事に着手。この時、かつて川太郎に助けられた河童が工事を手伝い堀割工事が完成した。この河童を目撃すると商売繁盛したという。「河童寺」や「合羽橋」の名はこの伝承に由来する。当寺には河童大明神が祀られ、合羽川太郎の墓とつたえる石碑があり「てつへんへ 手向けの水や 川太郎」という句が刻まれている。