■ 9月17日は「八朔(はっさく)」
「八朔」は八月朔日の略で旧暦8月1日、新暦2020年9月17日(木)。期間では旧暦8月1日~30日、新暦2020年9月17日(木)~10月16日(金)。
「二百十日」[旧暦7月13日、新暦2020年8月31日(月)]、「二百二十日」[旧暦7月23日、新暦2020年9月10日(木)]、「八朔」[旧暦8月1日、新暦2020年9月17日(木)] を "農家の三大厄日" とも言う。
この頃に早稲(わせ、早場米)の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから「田の実節句」(たのみのせっく)とも言う。
ミカン類の「ハッサク」もまた、昔はこの時期から食べられるようになることから名付けられた。
尚、「お彼岸」は、2020年9月19日(土)~25日(金)。
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■ 9月17日は「キュートな日」
作詞家・作曲家・音楽プロデューサーの中村泰士(たいじ)氏は、
「キュー(9)ト(10)な(7)」と読める語呂合わせから、9月17日を「キュートな日」と呼び、粋(いき)で何時までも若々しさを失わない愛すべき大人を「キュートナー」と呼ぶことを提唱した。
私が好きな中村泰士氏の楽曲
「今は幸せかい」作詞・作曲:中村泰士、編曲:小林亜星、歌:佐川満男、リリース:日本コロムビア1968年10月
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□ 「キュート」(英米語「cute」)の語源
ラテン語「acūtus」 (発音アクートゥス、意味:鋭くされた)
⇒ 英語「acute」(発音アキュート、意味:鋭い/尖った、類似語「sharp」「keen」)
⇒ 米語スラング(隠語)化 (意味:キザな/気取った⇒可愛い、類似語「pretty」)
「pretty」も「cute」も「可愛い」だが、敢えて比較すると-----
「pretty」が顔立ち・スタイルなど外形が良い(good-loocking/beautiful/sexy)という意味に対して、「cute」は仕草・雰囲気などが魅力的(attractive/charming)という意味に近い。
また、「pretty」が大人の女性に使うのに対して、「cute」は少女~若年の女性、ペットなどに使うことが多い。
中村泰士氏が提唱する「キュートナー」は熟年の女性を指しているが、米スラングの原義は若年の女性を指していると言える。
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□ お題「お気に入りのキュートな写真見せて!」
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オードリー・ヘップバーンが演じたハリウッド映画「ローマの休日」(1953年) のヒロイン・アン王女。
オードリー・ヘプバーン(英語 Audrey Hepburn、1929年5月4日ベルギー・ブリュッセル生まれ、イギリス・エラム村の私立女学校⇒オランダ・アーネム音楽院、1993年1月20日死去⇒スイス・トロシュナ村墓地)
関連ブログ NHKBSP「アナザーストーリーズ」#74「オードリーとローマの休日」紹介(2018-10-23)
□ 私が感じた最近の「キュートな女の子」 (順不同・敬称略)
☆ 飯豊(いいで)まりえ・・・1998年1月5日千葉県千葉市生まれ⇒市立生浜中学校⇒目黒・日出高校⇒エイベックス・マネジメント所属。
出典「ザ・テレビジョン」20190105
☆ 本田翼・・・1992年6月27日東京都三鷹市生まれ⇒市立三鷹第二中学校⇒都立新宿山吹高校⇒スターダストプロモーション所属。
出典「日刊ゲンダイ」20190421
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先日から撮影して来た「台東区の記念碑」を更に追加したい。
これまでの関連ブログ
9月12日は「プログラマーの日」「マラソンの日」。「台東区の記念碑」#1 (2020-09-13)
9月13日は「世界の法の日」。「台東区の記念碑」#2 (2020-09-14)
9月14日は「コスモスの日」。「台東区の記念碑」#3 (2020-09-15)
■ 「台東区の記念碑」#4
▽「駒形どぜう 久保田万太郎句碑」(台東区駒形1-7-12、1966年)
久保田万太郎(1889年11月7日~1963年5月6日) の句「神輿まつ まのどぜう汁 すゝりけり」。
「駒形どぜう 越後屋」五代目助七が、この句に所縁の初夏・三社祭吉日に当って店の前に句碑を建立した。先生の生家 [東京市浅草区浅草田原町3-10 (現・台東区雷門1-15-12)] に程近い場所に立てられたことは定めし先生も喜ばれていることでしょうと、安藤鶴夫・筆による。
安藤鶴夫(1908年11月16日~1969年9月9日)は、浅草区向柳原町(現・台東区浅草橋)に、義太夫の八代目竹本都太夫の長男として生まれた。1950年代から三越名人会と三越落語会を主宰し、新作落語が人気を博していた戦後に古典落語を再評価して演芸評論の重鎮となった。それまで主に寄席で聞くものだった落語をホール落語という新しい形を定着させた功績は大きい。
1963年『巷談本牧亭』により第50回直木賞受賞。。劇団前進座によって劇化され日中国交回復前の中国・北京でも上演された。
▽「川柳発祥の地 柄井川柳碑」(台東区蔵前4-37 三筋二丁目交差点の南東角、2007年)
柄井川柳 (1718年~1790年10月30日)は、無名庵川柳と号し談林派俳諧の前句付の点者として最初の万句合を興行した。句集『誹風柳多留』で川柳万句合の人気が高まり、他を圧倒して江戸第一の点者となり、一句で意味が分かる一句立ちの句が「川柳」と呼ばれるようになった。
最初の万句合を興行した跡地(推定)に川柳発祥250年を記念して「川柳発祥の地」の碑が建立された。
▽「はなし塚」(台東区寿2-9-7 「日蓮宗長瀧山本法寺」境内、1941年)
1941年、太平洋戦争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は演題種目について自粛を強いられていた。落語界では演題を分類し時局に合わないものを禁演として発表し自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作と言われた「明烏」「五人廻し」「木乃伊取」等が高座から聴けなくなった。「はなし塚」はこれら名作と落語界先輩の霊を弔うため建立し、塚には禁演となった台本等が納められた。戦後の1946年には塚の前で禁演落語復活祭が行われ、戦時中の台本などが差し替えて納められた。
▽「扇塚」(台東区寿2-9-7 「日蓮宗長瀧山本法寺」境内)「扇塚」本法寺
▽「お伽丸柳一碑」(台東区寿2-9-7 「日蓮宗長瀧山本法寺」境内、1934年)
寄席の昼間の主任(とり)の時は「お伽丸柳一」と名乗り、一風変わった芸、皿廻しの曲芸や記憶術を高座で演じる時は「一柳斎柳一」と言った。特に雑学の記憶術は、安田邸での園遊会で大正天皇をも感心させた位の能力だった。
関東大震災の時の苦難の世相を詠った句「秋あっし 呑まんとすれば 毒の水」(井戸水確保するため、避難民が井戸端に押し寄せて来ても毒が入っているから飲むなと嘘を吐いて避難民を排除した世相を嘆いた)。
▽「書家・田中千代 筆塚」(台東区寿2-9-7 「日蓮宗長瀧山本法寺」境内、1977年)
田代秋鶴先生に師事し、尾上紫舟先生にかな文字の書を学び、書塾「竹生会」を主宰した。
雙葉高女・女子学院・京華高女等で教鞭を取る一方、第一回日展に入選、銀座村松画廊で個展、ボストン博物館東洋館に作品寄贈、ロスアンゼルスで個展を開いた。
無心会同人理事、全日本書芸文化院総務長、独立書人団会員、日本書学院審査員、東京タイムス書道展審査員を歴任。
▽「漱石 学び始めの碑」(台東区蔵前4-19-11 区立蔵前小学校校門傍、2003年⇒2019年新校舎)
夏目漱石(1867年2月9日~1916年12月9日)
1868年、養父・塩原昌之助と養母・やすが不和になり、牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)の生家に戻された。
1869年、養父・昌之助が浅草の添年寄(町年寄の補佐)となり浅草三間町(現・台東区寿)に移転した。
1874年、遠く離れた創立したばかりの「第五番中学区 第八番小学戸田学校」(浅草区寿町7番地、現・台東区寿)の下等小学第八級に入学した。
第八番小学戸田学校とは後の台東区立精華小学校、現・区立蔵前小学校のことである。
1876年、市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・新宿区立愛日小学校)に転校した。
1878年、錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校) に転校した。
▽「育英小学校発祥之地」(蔵前4-16-16 「東光山松平良雲院西福寺」門前、1987年)
1869年に明治新政府は小学校の設置を定め、1870年に東京に6つの小学校を設立した。その1つが本寺境内に1870年に開校した「仮小学第四校」(現・育英小学校の前身)。蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋付近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学した。1872年の「学制発布」に先立つ東京で最も早い公立小学校発祥の地。1874年には江戸医学館跡地(浅草区向柳原1、現・台東区浅草橋4-16)に移転。1877年に「育英小学校」と改称。1885年に浅草区浅草猿屋町17 (現・浅草橋2-26-8) に移転した。・・・ 2001年に柳北小学校と統合し「区立台東育英小学校」と改称された。
▽「日本最初の喫茶店 可否茶館(かひさかん)」跡地 (台東区上野1-1-10 オリックス上野1丁目ビル玄関、2016年更新)
1888年4月13日、日本人による初めての喫茶店が、勤めていた外務省を辞めた鄭永慶(ていえいけい、日本名・西村鶴吉)によりこの地に開業した。二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館。現代の複合喫茶スタイルでトランプやビリヤードなどの娯楽品/国内外の新聞や書籍/化粧室やシャワー室まで備えられていた。コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭 (因みに当時の「もりそば」は八厘)。パンやカステラなども出していた。
▽「学問のみち 湯島天神-~湯島~御徒町」案内板 (上野1-16-20 区立黒門小学校前)
学問の神様・菅原道真公を祀(まつ)る「湯島天満宮」(通称「湯島天神」)から仲御徒町駅に至る東参道、その名も「学問のみち」。この地域は江戸幕末の上野戦争の舞台でもあり、西郷隆盛率いる薩摩軍が上野広小路に陣を敷き、学問のみちを進軍したと言われている。
▽「弁慶鏡ケ井戸」(台東区池之端1-6-13「境稲荷神社」前)
文明年間(1469~86年)に室町幕府第の第九代将軍・足利義尚が再建したという「境稲荷」。その社名はこの付近が忍ケ丘(上野台地)と向ケ丘(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現・池之端)鎮守として信仰を集めて来た。井戸は源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ一行の喉(のど)を潤したと伝えられている。1945年の東京大空襲では多くの被災者を飢渇から救った。
▽「森鴎外居住之跡」(池之端3-3-21 「水月ホテル鷗外荘」前)
森鴎外(本名・森林太郎、1862年2月17日~1922年7月9日)。
コロナ禍の真っ只中で、1946年創業の老舗温泉旅館「水月ホテル鷗外荘」が5月31日を以って営業を終了するという報が入って来た。この宿最大の魅力は明治の文豪・森鴎外が28~29歳にかけての約1年半を過ごし、処女作「舞姫」を書いた「舞姫の間」居宅跡が敷地内に在ること。その上に大浴場(大理石風呂と古代檜塗り風呂) には都内第1号に認定された然温泉の黒湯が掛け流されるとともに、「プロが選ぶ日本のホテル料理100選」を15年連続受賞して来た。
▽「水の恩人 玉川兄弟顕彰碑」(台東区松が谷2-3-3 「浄土宗用明山四天王院聖徳寺」)
玉川上水の開削工事は、1653年に徳川四代将軍・家綱の代に着工され、翌1654年に多摩の羽村 (現在の東京都羽村市羽字玉川附741地先) から四谷大木戸(現・新宿区四谷四丁目交差点付近)に至る43kmの導水部が竣工した。その後は給水地域が順次拡大され、江戸城内はじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋の下町に及んだ。江戸の水道施設建設の功績により、玉川庄右衛門(1622?~1695年7月16日)・清右衛門(生年不明~1696年6月4日?) の兄弟は200石の扶持を賜り玉川上水役に任ぜられ玉川という名字を与えられ帯刀も許された。