■ 9月14日は「コスモスの日」
「ホワイトデー」の3月14日から半年目の今日9月14日は「コスモスの日」。プレゼントにコスモスを添えて交換し、お互いの愛を確認し合う日と言われている。
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□ コスモス (オオハルシャギク)
分類: キク目Asteralesキク科Asteraceaeコスモス属Cosmos種オオハルシャギクC.bipinnatus。同属別種として、キバナコスモス、チョコレートコスモスがある。
学名: Cosmos bipinnatus Cav.、ギリシャ語κόσμος (kòsmos)、スペイン語・英語cosmos。原義: ①秩序・調和②宇宙・世界③飾り・美。
原産地: メキシコなど熱帯アメリカ。メキシコ中央高原から採取したスペインの探検隊が、 マドリード王立植物園 (植物学者のホセ・カバニレス神父) に届け、神父はCosmos bipinnatus(細かく切れ込んだ葉を持つ美しい花)と名付けた。
キク科の一年草。開花期は晩夏~秋季(8~11月)。桃(ピンク)色の花を咲かせるが、品種改良により白・赤・黄・橙(オレンジ)などの色も作り出され、観賞用として花壇などに栽植されている他、各地の休耕田・野菜畑・道路沿い・川岸などに景観作物として広く使われている一方、しばしば逸出して野生状態になっている。茎は直立して高さ1~2mに育ち、枝分かれ。葉は対生で、2~3回、細かく羽状に裂け裂片は線形。頭状花は直径約7㎝。
和名: オオハルシャギク(大春車菊・大波斯菊)。通称: アキザクラ(秋桜)。
日本には1887年(明治20年)頃に、東京美術学校(現・東京藝大)の彫刻の教授としてイタリアから招聘されたヴィンチェンツォ・ラグーザ教授が持ち込んだ。教授から西洋画指導を受けモデルも務めた日本画家・清原玉は、当時、日本語で「あきざくら(秋桜)」と呼んだ。彼女は恋愛結婚しエレオノーラ・ラグーザ(またはラグーザ玉)となって、イタリアのパレルモに渡り現地美術界で活躍した。夫との死別後には帰国し活動した。
「秋桜(コスモス)」の表記をブームにしたのは、さだまさしが作詞・作曲(原題「小春日和」)、萩田光雄が編曲し、山口百恵が歌った「秋桜」(CBSソニー、1977年10月リリース)。
第19回日本レコード大賞で、山口百恵は歌唱賞、作詞者のさだまさしは西条八十賞を受賞した。翌年、さだまさし自身がアルバム「私花集<アンソロジイ>」でセルフカヴァー・・・ワーナー・パイオニア1978年3月25日リリース。
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□ キバナコスモス
分類: キク目Asteralesキク科Asteraceaeコスモス属Cosmos種キバナコスモス C. sulphureus。
学名: Cosmos sulphureus。ラテン語 cosmos sulphureus、英語 yellow cosmos, sulphur cosmos。
原産地: メキシコをはじめ熱帯アメリカ。オオハルシャギクとは同属別種であり、交配することはできない。しかし、繁殖力が旺盛であるため、オオハルシャギクを席巻してしまう恐れがある。零(こぼ)れ種は要注意。キク科の一年草(多年草のものもある)。開花期は盛夏~秋季(7~11月)。夏場の暑さに強いため、オオハルシャギクよりも早い時期に花を咲かせる。黄・橙(オレンジ、日本で品種改良)の色の花を咲かせ、観賞用として花壇などに栽植されている。茎は直立して高さ30~100cmに育ち、オオハルシャギクと比べて葉が幅広く切れ込みが深い。マリーゴールドに似ている。
和名: キバナコスモス [通称:キバナアキザクラ(黄花秋桜)・サンセットコスモス]。
日本には大正時代初め(1912~13年)頃に伝えられた。しばしば逸出して野生状態になっている。
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□ お題 「コスモスの花言葉、知ってる?」
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花言葉
赤いコスモス「愛情」「調和」。
白いコスモス「優美」。
ピンクのコスモス「純潔」。
チョコレート(黒)色のコスモス「恋の終わり」「恋の思い出」。
キバナコスモス「野生美」「幼い恋心」。
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□ コスモスの記憶
コスモスは大好きな花のひとつ。特にどの色がということではなく、色取り取り(多彩)なところが一番いい。
▽ 私にとって、強い記憶として残っているのは1985~86年初秋の思い出。妻とよちよち歩きの次女の3人で、栃木県方面へキノコ狩りのドライブに出掛けた折り、田沼町戸奈良(現・佐野市戸奈良町)という集落、そしてその奥のゴルフ場でキノコがいっぱい採れた。妻は恐いからと車の中で待っていた間、幼い娘はどんどん小高い薮の中へと進む。この子は勇気があるなあと感激。萩の花、ちょうちょ、そして妻の元へと二人で戻る里の道端はコスモスでいっぱいだった。
▽ これまで撮影したコスモスの中から。
国営昭和記念公園20161103
チョコレート
都立浜離宮恩賜庭園20160927
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一昨日9/13(日)に巡回撮影した台東区の "記念碑"の数が多かったので、説明文が遅れた分を掲載する。
関連ブログ
9月12日は「プログラマーの日」「マラソンの日」。「台東区の記念碑」#1 (2020-09-13)
9月13日は「世界の法の日」。「台東区の記念碑」#2 (2020-09-14)
■「台東区の記念碑」#3
▽ 「寛永寺根本中堂跡」碑 (台東区上野公園8 竹の台噴水池広場、1625年本坊建立=創建、1698年根本中堂建立)
現「上野恩賜公園」の地は「天台宗関東総本山東叡山寛永寺円頓院」境内で堂塔伽藍が建ち並んでいた。今、噴水池広場の在る一帯を、俗に「竹の台(だい)」と呼び、そこには廻廊が巡らされ、勅額門(ちょくがくもん)を入ると根本中堂(別称・瑠璃殿)が建ち坂東第一と言われた程ら荘厳華麗であった。堂内には本尊・薬師如来像(別称・薬師瑠璃光如来像)が奉安してあった。中堂前の両側には近江・延暦寺中堂から根分けの竹が植えられ「竹の台(うてな)」と呼ばれた。
1868年5月15日、彰義隊との上野戦争がこの地で起こり寛永寺の堂塔伽藍は殆ど焼失した。現在の根本中堂(上野桜木1-14-11)は、1879年に川越・喜多院の本地堂を子院・大慈院の地に移築し再建されたもの。
▽「増山雪斎博物図譜関係資料 虫塚」(台東区上野桜木1-14-11 寛永寺根本中堂、1821年)
伊勢長島藩増山家の6代当主・増山雪斎 (1754年11月27日~1819年2月23日)。
『虫豸帖(ちゅうちじょう)』を作画・編集のために殺生した虫類を供養するため、1821年に作られた石碑。元々は増山家菩提寺の子院・勧善院に在ったが、昭和初期に勧善院が寛永寺に合併されたため石碑のみ現在の場所に移された。
▽「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟」(上野桜木1-14-11 寛永寺根本中堂、1823年)
琳派の創始者・尾形光琳の弟の尾形乾山は、画業の他にも書や茶も良くし、特に作陶は有名で輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。その墓の存在自体も忘れ去られてしまっていたが、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、1823年に顕彰碑「乾山深省蹟」が建てられた。
▽「了翁禅師塔碑」(上野桜木1-14-11 寛永寺根本中堂、1692年)
黄檗宗の僧・了翁道覚(りょうおう・どうかく、1630年4月29日~1707年6月21日) 。
隠元禅師に師事した後に諸国を巡錫した。途中、肥前長崎・興福寺の開山如定(にょじょう)禅師に教えを請け(一説に、夢の中で一種の薬法を修得)、これを錦袋円と名付けて江戸上野・不忍池の池畔に店舗を営んだ。江戸大火の際には罹災民の救済に私財を投じ、経典七千巻を購入して経庫を造って寛永寺に寄贈した。1683年には勧学院を建てて教育に尽力した功によって輪王寺宮より勧学院権大僧都法印に任ぜられた。
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▽「京成電鉄 博物館動物園駅」碑 (上野公園13-23 東京国立博物館の黒田記念館向かい、1933年開業⇒2004年廃止⇒2018年改修し公開)
1933年の京成電鉄本線開通に合わせ、東京帝室博物館・東京科學博物館・恩賜上野動物園・東京音樂學校・東京美術學校・旧制第二東京市立中学校など文化施設が密集するエリアの最寄り駅として、上野駅と日暮里駅の間に開業した地下駅。最寄り各文化施設の改修に伴うアクセス方法の変遷が影響し乗降客が減少したことや駅舎老朽化などにより1997年に営業を停止、2004年に廃止となった。
駅舎やホームは現存しており、京成電鉄は改修して2018年秋から公開に踏み切った。
▽「国際こども図書館 小泉八雲記念碑」(1935年)
国際子ども図書館は、国立国会図書館の上野支部図書館(旧・帝国図書館)を転用し、2000年に日本初の児童書専門の国立図書館として設立された。転用に当たり安藤忠雄氏の設計で改修が行われ、東側にガラスのエントランス、西側にカフェテラスが付加された。
小泉八雲 [パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)1850年6月27日~1904年9月26日]の多才な業績を称えた。
ギリシャ生まれのイギリス人新聞記者、紀行文作家・随筆家・小説家、日本研究家・日本民俗学者。1890年に特派員で来日し松江中学英語教師に転じ、小泉セツと結婚。熊本五高、神戸で執筆専念。1895年に帰化し小泉八雲と改名。その後は東京帝国大学や早稲田大学の英文学講師として精力的に日本紹介の筆を執った。
主な著作・・・知られぬ日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan、1894年)、仏陀の国の落穂 (Gleanings in Buddha-Fields、1897年)、影 (Shadowings、1900年)、日本雑録 (A Japanese Miscellany、1901年)、骨董 (Kotto、1902年)、怪談 (kwaidan、1904年)。
東京帝大時代の教え子であった詩人・土井晩翠(本名・林吉)が、結核のため早世した長男・英一の遺言に基づいて小泉八雲を偲んで建てた。八雲の肖像のレリーフを正面を嵌(は)め込み上部に壷を囲む天使達の群像がいる噴水になっている。両脇には「文盡人情美」「筆開皇國華」という言葉が刻まれている。
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▽「駅伝の歴史ここに始まる」碑 (上野公園2-1 不忍池弁天島正面の天竜橋左詰め、2017年)
「奠都(てんと)50周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が、1917年4月27~29日の3日間に亘り開催された。スタートは京都・三条大橋⇒ゴールは東京・上野不忍池の大博覧会正面玄関。京都三条大橋~草津~水口~北土山~亀山~四日市~長島~名古屋~知立~藤川~豊橋~新居~見附~掛川~藤枝~静岡~興津~吉原~三島~箱根~国府津~藤沢~川崎~上野不忍池の23区間508kmを昼夜を問わずぶっ通しで走り抜けた。これが "駅伝の誕生" とされ、日本で生まれたスポーツで古代の伝馬制からヒントを得たもの。
"駅伝発祥の地"を記念して三条大橋左岸東詰めの交差点と上野不忍池正面の天竜橋左詰めとに同形の記念碑が、「(財)日本陸上競技連盟」(新宿区霞ケ丘町4-2 JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE 9F)、「(財)京都陸上競技協会」(京都市右京区西京極南衣手町57-2) などにより2017年4月29日に建立された。
▽「めがね之碑」(上野公園2-1 不忍池弁天島正面の天竜橋付近、1968年)
眼鏡が遥かに海を越えて日本に渡来したのは420余年前のこと。1284年頃にイタリア・ヴェネチアで発明され、日本には1549年にキリスト教を日本に伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルが、周防・大内義隆、豊後・大友宗麟、京都の室町幕府第12代将軍・足利義晴、尾張・織田信長、三河・徳川家康などに献上した。徳川家康が愛用した丸形の眼鏡が、東京眼鏡販売店協同組合(中央区日本橋3-13-11 油脂工業会館6F) により明治百年を記念し、黒御影石の上に大きなレリーフで象(かたど)られている。実は家康愛用の鼻眼鏡『目器』は現存し、静岡県「久能山東照宮博物館」に収蔵されている。
▽「魚塚」(上野公園2-1 不忍池弁天堂境内、1976年)
「東京魚商業協同組合」(江東区豊洲6-5-1 水産仲卸売場棟3F)により黒御影石の碑が建立された。日本人のタンパク質源を歴史的に支えてくれたことに感謝して。
▽「ふぐ供養碑」(上野公園2-1 不忍池弁天堂境内、1965年)
「東京ふぐ料理連盟」により建立された。題字は岸信介・筆。碑文を読むと、世俗に「ふぐは食いたし命は惜しし」という文句があるように、昔は相当多くの中毒死者を出した。ふぐ料理業者はこの天下の珍味のふぐを安心して都民の皆様に料理して提供したい念願から、1930年にこの連盟を結成し古来秘密にされていた料理法も講習会などを開催してふぐの毒素を除去する調理法を組合員に公開し完全調理したふぐは安心であることを世の皆さんに認識して頂いた歴史から、改めてふぐを供養するもの。
▽「四世杵屋六三郎の賛碑」(上野公園2-1 不忍池弁天堂境内)
従来の長唄の曲風を一変させて今日ある江戸風の長唄の基礎を築いた、長唄三味線の江戸幕末の中興の祖、名跡・杵屋六三郎((1780年2月14日~1856年1月7日)を讃える。「池之端同門会」により建立された。
初代杵屋正次郎に師事し1798年に中村座で初舞台を踏み1808年に四代目六三郎を襲名。演奏・作曲ともに優れ七世市川団十郎の知遇を得て「勧進帳」などを作曲。1840年に杵屋六翁と改名。「勧進帳」「晒女」「老松」「吾妻八景」「松の緑」など数多くの名作を残した。
▽「八橋検校顕彰碑」(上野公園2-1 不忍池弁天堂境内、1966年)
八橋検校(1614~1685年7月13日)の生誕350年を記念して「(公社)日本三曲協会」(港区赤坂2-15-12 パール赤坂403) が建立した。生田流・山田流などの箏曲(そうきょく、こと)の祖と言われており、現在の箏曲の基礎を築いた。大坂で城秀(じょうひで)の名で三味線名手として活躍後、江戸に出て法水より筑紫筝を学び、それを改訂・増補し陰音階の調弦を考案して組歌13曲を作り、筝独奏の段物3曲「六段」「八段」「乱」も作曲した。山住勾当(こうとう)~上永検校城談の名を経て八橋を名乗った。筝曲を盲人音楽家の専業として確立するとともに一般への普及にも努めた。
▽「扇塚」(上野公園2-1 不忍池弁天堂境内、1949年)
題字と詩文「ああ佳き人かおも影を 志のばざらめや不忍の 池のばほとりに香を焚き かたみの阿ふぎ納めつつ」は佐藤春夫・筆。初代・花柳寿美の三周忌に当たり、舞踏生涯45年間に使用した舞扇を筐中に納めて、六代目尾上菊五郎・二世花柳寿輔・花柳章太郎らにより建立された。
▽「スッポン感謝之碑 蘇叟九十二」(上野公園2-1 不忍池弁天堂境内、1967年)
題字は鼈(スッポン)愛好家の徳富蘇峰・筆。村上本家第十八代当主・村上友次郎により建立された。
文武天皇元年(697年)に近江より朝廷に献上して以来、宮中の祭祀・儀式に際して御供物として珍重されて来た。村上本家の始祖においても360余年の昔に薬師如来様の霊夢を見て食してその神効を賜って以来伝承して来た。呼吸器疾患唯一の民間療法として、近年では栄養・美容の源泉として尊ばれるに至っている。
▽「琵琶の碑」(上野公園2-1 不忍池弁天堂本堂の階段手前左)
そもそも寛永寺の開祖である天海大僧正(慈眼大師)が、近江・琵琶湖に見立て竹生島に準(なぞら)えて弁天島(中之島)を築かせ弁天堂を作ったことから、福徳・財宝・芸能上達の水神として広く信仰されている七福神の一人「弁財天(弁才天)」と奏でる「琵琶」を模して作られた。
▽「いと塚」(上野公園2-1 不忍池弁天堂本堂付近)
琵琶・箏(そう、琴)・三絃(さんげん、三味線)などの雅楽の弦楽器、洋楽の弦楽器とも全て弦(糸)が欠かせない。
荻江節家元の五代目荻江露友(1892年10月10日~1993年9月22日)は日本画家の前田青邨の妻で、琴を萩岡松韻に、長唄を杵屋勘五郎・芳村伊十郎に、鼓を田中伝右衛門・二代目望月太左衛門に、河東節を山彦秀翁に、清元を清元延寿太夫に、清元三味線を清元梅吉に、荻江節を荻江露章に習って、1956年に五代目を襲名した。
1966年作曲の「蝉丸」が芸術祭奨励賞、1969年に芸術選奨文部大臣賞、1971年に日本芸術院賞、日本芸術院会員、1973年に勲三等瑞宝章。
碑の背面に夫・前田青邨画伯の撰文が刻されている。
▽「暦塚」(上野公園2-1 不忍池弁天堂本堂南側、1983年)
「全国団扇扇子カレンダー協議会」(台東区台東1-27-11 佐藤第二ビル204) の第70回記念総会事業の一環として建立された。
題字は時の首相・中曽根康弘。日時を知る原点とも言うべき日時計の文字盤と地球儀を型どったブロンズが据えられている。
▽「包丁塚」(上野公園2-1 不忍池弁天堂本堂裏手)
東京・千葉・茨城の料理店で構成された「上豊調理師会」により建立された。
▽「鳥塚」(上野公園2-1 不忍池弁天堂本堂裏手、1962年)
弁天島の石碑の中でも一際大きく目立つ石碑。当時の都知事の東龍太郎・筆。都内の食鳥肉の販売業者「食鳥鶏卵商業協同組合」(台東区下谷2-1-10) によって、生活の糧であり、また子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めんがため建立された。
▽「幕末之剣豪櫛淵虚中軒之碑」(上野公園2-1 不忍池弁天堂本堂裏、1978年)
櫛淵虚中軒 [櫛淵宣根(くしぶち・のぶもと)、1748年6月5日~1819年5月16日] 江戸幕末ではなく江戸後期の剣豪。
上州利根郡後閑村 (現・群馬県利根郡みなかみ町後閑) の住人で、父・櫛淵宣久より神道流を学んだ後、微塵流(剣)・戸田流(薙刀)・直心影流(剣)・三和無敵流(剣)・揚心流(柔)・宝蔵院流(槍)など、鹿嶋の剣六流儀を極め、独自の流儀「神道一心流兵法」を開いた。1790年に江戸へ進出し下谷御徒町に稽古場を創設した。1806年の江戸大火で道場を小川町広小路に移し全盛期の門人は451名を数え深川八幡前にも出張稽古場を創設した。1792年に一橋徳川家に150石で召し抱えられた。
▽「講道館柔道発祥之地」(台東区東上野5-1-2 稲荷町交差点傍・永昌寺境内、1968年)
嘉納治五郎(1860年12月10日~1938年5月4日)は1882年に「講道館」を創設し、浄土宗朝日山願成院永昌寺の書院を道場として学習院大学学生に養柔道訓育を始め、これが今日国際的な広がりを持つに至った国技・講道館柔道の発祥である。1909年に財団法人化・段位の発行、1933年に小石川区小石川町1(現・文京区春日1-16-30)に移転した。1978年より「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」が開催された。
▽「合羽橋道具街誕生90周年記念シンボル像 かっぱ河太郎像の碑」(台東区松が谷2-25-9 合羽橋道具街の清水寺並びのポケットパーク、2003年)
「東京合羽橋商店街振興組合」(台東区松が谷3-18-2)、通称 「合羽橋道具街」は明治末期~大正初期に古道具を取り扱う店の集まりから発生し、太平洋戦争後に料理飲食店器具や菓子道具を販売する商店街へと発展し、現在では170店舗強で構成される約800mにも連なる専門店街に成長した。現在は暗渠となった道具街通りの下を流れる新堀川などの堀割工事を手伝ったとされる "河童伝説" に基づき「かっぱ河太郎像」を建立。
▽「浅草凌雲閣記念碑」(台東区浅草2-14 WINS浅草斜め向かい、2004年)
東京における高層建築物の先駆けとして「浅草公園六区」に建てられた、高さ52m・の八角形の12階建て展望塔で、愛称「浅草十二階」と呼ばれた。建築設計担当はW・K・バルトン(William K. Burton、英国人技師)。日本初の電動エレベーター[設計担当は白熱舎(後の東京電気⇒東芝)を創業した藤岡市助]。1890年に完成したが、33年後の1923年の関東大震災で半壊し解体された。2004年に「凌雲閣史蹟保存の会」がプレートを設置した。
尚、凌雲閣解体後の1932年、近くの浅草国際通り雷門一丁目交差点に凌雲閣を模した「仁丹塔」(森下仁丹の広告塔)が完成。1942年に太平洋戦争の金属供出で解体された。戦後の1949年に再建された二代目も1986年に老朽化のため解体された。
▽「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」(浅草1-36-4 浅草寺仲見世通りの東裏通り)
河竹黙阿弥((かわたけ・もくあみ、本名・吉村芳三郎、1816年3月1日~1893年1月22日)
江戸期幕末~明治期に活躍した狂言作者で、文豪・坪内逍遥は「日本のシェークスピア」と讃えた。1835年(20歳時)に五代目鶴屋南北の門に入り狂言作者見習となった。1843年には二代目河竹新七を名乗り江戸河原崎座の立作者となった。1854年に四代目市川小団次のために書いた「都鳥廓白浪」が当たって、以後は小団次が亡くなる1866年まで彼のために多くの傑作を書いた。1843年に天保の改革で水野忠邦により江戸三座が浅草猿若町に移転させられると、黙阿弥も芝から浅草寺子院・正智院に移住した。
▽「浅草猿若町碑」(浅草6-19-4)
「江戸猿若町市村座跡」(浅草6-18-13 1964年)
市村座の定式幕は黒・萌葱(緑)・柿の三色の引幕で、現在の国立劇場が同じ定式幕を使用している。
猿若町では天保末期(1843年)~明治期、1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)の「猿若三座」(江戸役者の始祖・猿若勘三郎に因んだ)が在り、芝居町を形成し江戸歌舞伎興隆の場となった。
▽「池波正太郎生誕の地」[浅草7-4 待乳山聖天(まつちやましょうでん)正面階段下の「区立待乳山聖天公園内」、2007年]
池波正太郎(1923年1月25日~1990年5月3日)
旧・東京市浅草区聖天町61 (現・台東区浅草7-3)で誕生。戦後復員し都職員となり下谷区などに勤務する傍ら、新聞社の懸賞戯曲に応募し2年続けて入選、これを機に劇作家になった。1948年に長谷川伸に師事し、1951年に戯曲「鈍牛」が新国劇で上演され商業演劇の脚本家第一作となった。1956年に「恩田木工」(後に「真田騒動」と改題)が下半期直木賞候補、1960年の「錯乱」で第43回直木賞。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」の3大シリーズで時代小説の第一人者となった。1977年に吉川英治文学賞。1990年に急性白血病で永眠。
エッセイに「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は、私の心のふるさとのようなものだ」と記す程。