■ 9月13日は「世界の法の日」
1961年、東京で開催された「法による世界平和に関するアジア会議」で「世界法の日」の制定が提唱され、1965年9月13日~20日、米国ワシントンで開催された「法による世界平和第2回世界会議」で、9月13日を「世界法の日」とすることが宣言された。国際間に法の支配を徹底させることで世界平和を確立しようという趣旨。
この日とは別に日本では、刑事事件について陪審員が評議を行う陪審制度を定める「陪審法」が明治憲法の下で1928年10月1日に施行され、翌1929年からこの日を「司法記念日」に制定している。
戦後の新憲法(日本国憲法)の下では陪審制度は廃止され、1960年に「司法記念日」は「法の日」と改称された。
尚、刑事事件について裁判員制度が2009年5月21日に施行された。
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□ お題 「自分で世界平和の法を作るなら?」
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現行の日本国憲法を守る。
その立法精神に反していなければ(違憲でなければ)、次の事項について改正(極力、特別法制定)するのは賛成。
☆ 人命を奪う殺人罪は死刑。刑法体系を見直して刑事犯は厳罰化し情状酌量は制限される。
☆ 自衛隊は、専守防衛の範囲内で強化、交戦することができるが、海外派兵はできない。核・生物・化学など大量破壊兵器の使用は厳罰。
☆ 地球温暖化を助長する自然破壊と温室効果ガス排出を全力で阻止する。違反者・組織は厳罰。
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俄雨(にわかあめ)のため中断した一昨日に続いて9/13(日)も、
浅草・上野界隈など台東区における "記念碑" を巡回撮影した。
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9月12日は「プログラマーの日」「マラソンの日」。「台東区の記念碑」#1 (2020-09-13)
■「台東区の記念碑」#2
▽「あゝ上野駅」歌碑 (台東区上野7-1 JR上野駅広小路口前の広場、2003年)
1964年に発表された演歌。作詞・関口義明、作曲・荒井英一、歌・井沢八郎、レーベル・東芝音楽工業。高度成長期の世相を描いた代表的ヒット曲で、中卒・高卒の集団就職で上京した団塊世代の若者を中心に "心の応援歌" として多くの人々に勇気と感動を与えた。
▽「川柳の原点 俳風柳多留(はいふう・やなぎだる)発祥の地」碑 (台東区上野公園1 京成電鉄上野駅正面口~中央通り上野公園口(路上画家たちのいる)階段下との間、2015年)
川柳は江戸に生まれた17文字の庶民文芸。「川柳」という名称は、1757年に浅草・新堀端河岸 (合羽橋~菊屋橋の間) に始まり1765年に川柳の原点とも言われる「誹風柳多留」を刊行した。記念碑に一句『羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ』(「誹風柳多留」の編者・呉陵軒可有の作)。
▽「蜀山人(しょくさんじん)の碑」(上野公園4 上野広小路口~桜並木道口、1938年)
「一めんの 花は基盤の 上野山 黒門前に かかるしら雲」[蜀山人=大田南畝(なんぽ)・筆]
1749年4月19日~1823年5月16日。 幕臣であった(支配勘定まで上り詰めた)が狂文・狂歌を良くし漢学・国学を学んで博識。江戸文人の典型と言われ狂歌では唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)/朱楽管江(あけらかんこう)とともに"狂歌三大家" と評された。上野は江戸の桜の名所。1938年に寛永寺総門(黒門)跡(上野広小路口~桜並木道に入る付近) にその桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻み碑が建てられた。
▽「彰義隊の墓」碑 (上野公園1 西郷隆盛銅像の裏手、1882年)
1868年7月4日(旧暦・慶応4年5月15日)、明治新政府樹立に反抗し上野寛永寺に立て籠もり、戊辰戦争の一環・上野戦争として新政府軍(大村益次郎が指揮)の圧倒的な火力によって僅か半日で壊滅した。彰義隊隊士の戦死者266名の遺体は逆賊として戦場に放置されたままだったが、当地で荼毘(だび、火葬)に付され後、上野寛永寺の総門(黒門)の移築とともに、「曹洞宗補陀山円通寺」(現・荒川区南千住1-59-11)への埋葬が行われた。この火葬跡地に旧幕臣・山岡鉄舟の筆による「戦士之墓」(彰義隊の銘は無い)。
▽「西郷隆盛銅像」(上野公園1 1898年) 高村光雲・作、高さ3.7m/胸囲2.6m/重さ9t。連れている犬「ツン」は後藤貞行・作。
1828年1月23日~1877年9月24日。 "最後の真の侍"と評され、"敬天愛人"の言葉に象徴される西郷隆盛(通名・吉之助、号・南洲翁)の人格「道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」---その銅像は上野山のシンボルになっている。
薩長同盟・王政復古を主導するとともに新政府軍(官軍)の指揮官として江戸総攻撃直前に勝海舟らの請を容認して江戸無血開城を実現。江戸を戦火から救った明治維新の功労者。
<訂正>
しかし、征韓論を巡って自ら全権大使となった早期平和交渉を主張したが、それを時期尚早と捉え欧米列強に比べて劣る内政優先論に固執する岩倉具視・大久保利通らの反論に敗れて下野した。しかも、帰郷して私学校で後進育成に努めんとするも、廃刀令・徴兵制・秩禄処分に対する不平士族らに擁せられ、士族民権の血気盛んな青年らに担がれた形で「西南戦争」が勃発するに至った。九州転戦7カ月余に遂に敗北し無念のまま自刃した。
▽「博士王仁(わに)碑」(上野公園1 清水観音堂の裏手広場、1940/41年)
生没年不詳。王仁博士は漢国・高祖の末裔で、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などに登場している人物。応神天皇の時(5世紀初め)に百済国から渡来し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらした学者で、後に帰化した。
▽「時忘れじの塔」(上野公園1 いこいの広場、2005年)
関東大震災(1923年)、東京大空襲(1945年)など東京にも現在からは想像もできない悲しい歴史がある。今、緑美しい上野の山を行き交う人々にそのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時を繋げる心の目印として、この時計台を寄贈した(初代林家三平の妻・海老名香葉子、他)。
▽「正岡子規記念球場 句碑」 (上野公園5-20 東京文化会館裏手、2006年)
1867年10月14日~1902年9月19日。「上野恩賜公園」開園式典130周年記念事業として、「上野恩賜公園野球場」から「正岡子規記念球場」へと改称。子規が大学予備門の仲間達と上野公園で野球をしていた頃(1890年)に詠まれた「春風や まりを投げたき 草の原」句碑を設置した。
▽「小松宮彰仁親王銅像」(上野公園8 上野動物園表門出口前、1912年) 大熊氏廣・作。
1846年2月11日~1903年2月18日。明治維新の際にはヨーロッパ君主国の例に倣(なら)って、皇族が進んで軍務に就くことを奨励し自らも率先垂範した。戊辰戦争(1868年)奥羽討伐総督、佐賀の乱(1874年)征討総督、西南戦争(1876年)旅団長など内乱鎮圧の指揮を執り、1890年以降、陸軍大将~近衛師団長~参謀総長~元帥といった要職を歴任。さらに日本赤十字社をはじめ各種社会奉仕団体の総裁職を務め、後の皇族公務の原型を作る一翼を担った。
尚、エドヒガン系の桜の栽培品種「コマツオトメ(小松乙女)」の命名は、この小松宮親王銅像の傍に原木があることから。
▽「野口英世銅像」(上野公園8 竹の台噴水広場の東側に沿った林の中 / 国立科学博物館前、1951年) 吉田三郎・作。
1876年11月9日~1928年5月21日。福島県耶麻郡三ッ和村(現・猪苗代町)の貧農に生まれ、医術開業試験に合格して医師となり北里柴三郎博士に師事。渡米してペンシルベニア大学医学部助手を経てロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学研究に従事し、梅毒や黄熱病の研究でワクチン開発の端緒を開く実績を残し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度挙がった。黄熱病研究のため渡った英領ゴールド・コースト(現・ガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。
試験管を持って研究中の像の台座には ラテン語で "人類の幸福のために" と刻まれている。紙幣・千円札の肖像でも有名。
▽「ボードワン博士」胸像 (上野公園8 竹の台噴水広場の東側に沿った林の中、1973年⇒2006年再建) 林昭三・作。
日本語読みボードワン博士こと、アントニウス・フランシスクス・ボードウィン博士(Anthonius Franciscus Bauduin、1820年6月20日~1885年6月7日)。オランダの軍医で1862年に来日し、オランダ医学の普及に尽力した。江戸期を通じて日本は蘭学に注力していたが、明治維新期にはドイツ医学の導入に腐心していた。だが大学東校(東京大学医学部の前身)が招く予定だったドイツ人講師の来日が普仏戦争の影響で遅れたため、ボードワン博士が臨時講師となった。当時の大学東校と附属病院は、上野の森が移転先候補だったが、彼は掛け替えのない自然が失われることを危惧し明治政府に保存を提言。その結果、移転先は本郷に決まり、上野の森は西洋式公園として保存されることになった。