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「ラジオ深夜便」いずみたく作品集

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 いずみたく(作曲)作品集


昨日5/11(月)未明の午前3:05~午前4:00、

NHK「ラジオ深夜便」の「にっぽんの歌こころの歌」コーナーで、

「作家でつづる流行歌 ~ いずみたく(作曲)作品集」(アンカー:山下信アナ) を聴いた。

5/11はいずみたくの命日。


彼の楽曲は、1963~65年の高校時代、1966~70年の浪人・大学時代、1971~74年の新社会人(会社独身寮)時代と---"私の青春"そのものなのだ。


「深夜便」の曲目(playlist)・・・但し時系列。※印は「深夜便」以外の私が好きな曲目。

1963年


「手のひらを太陽に」歌:宮城まり子/ビクター児童合唱団、作詞:やなせたかし、作曲:いずみたく、日本ビクター1963年3月。

「見上げてごらん夜の星を」歌:坂本九、作詞:永六輔、作曲:いずみたく(第5回日本レコード大賞作曲賞)、編曲:渋谷毅、東芝音楽工業1963年5月。1960年初演のミュージカル劇中主題歌。


1964年

「夜明けのうた」歌:岸洋子(第6回日本レコード大賞歌唱賞)、作詞:岩谷時子(第6回日本レコード大賞作詩賞)、作曲・編曲:いずみたく、キング1964年9月。

1965年


「女ひとり」歌:デューク・エイセス、作詞:永六輔、作曲:いずみたく、東芝音楽工業1965年8月。ご当地ソング「にほんのうた」シリーズの京都府を舞台とした楽曲。

1966年

「ベッドで煙草を吸わないで」歌:沢たまき、作詩:岩谷時子、作曲・編曲:いずみたく、日本ビクター1966年4月。

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「これが青春だ」歌:布施明、作詞:岩谷時子、作曲・編曲:いずみたく、キング1966年10月。日本テレビ系連続ドラマ「これが青春だ」主題歌。

1967年

「世界は二人のために」歌:佐良直美(第9回日本レコード大賞新人賞)、作詞:山上路夫、作曲・編曲:いずみたく、日本ビクター1967年5月。

「ゲゲゲの鬼太郎」歌:熊倉一雄、作詞:水木しげる、作曲:いずみたく、編曲:大柿隆、キング1967年10月。

 

1968年

「恋の季節」ピンキーとキラーズ(第10回日本レコード大賞新人賞)、作詞:岩谷時子、作曲・編曲:いずみたく、キング1968年7月。

1969年

「夜明けのスキャット」歌:由紀さおり、作詞:山上路夫(第11回日本レコード大賞作詩賞)、作曲:いずみたく、編曲:渋谷毅、東芝音楽工業1969年3月。

「希望」歌:フォー・セインツ、作詞:藤田敏雄、作曲:いずみたく、編曲:渋谷毅、東芝音楽工業1969年5月。
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1970年

 

 「つくばがえる」歌:デューク・エイセス/筑波山麓合唱団、作詞:永六輔、作曲・編曲:いずみたく、伴奏:東芝レコーディング・オーケストラ、東芝音楽工業1970年4月。 

 

1971年 

 

1972年

 

 「太陽がくれた季節」歌:青い三角定規(第14回日本レコード大賞新人賞)、作詞:山川啓介、作曲:いずみたく、編曲:松岡直也、日本コロムビア1972年2月。日本テレビ連続ドラマ「飛び出せ!青春」主題歌。

 YouTube

 

1973年

「いい湯だな ~ドリフのビバノン音頭」歌:ザ・ドリフターズ、作詞:永六輔、作曲・編曲:いずみたく、伴奏:東芝レコーディング・オーケストラ、東芝音楽工業1973年6月。TBS系バラエティ「8時だョ!全員集合」のエンディング曲。

1974年

「ふれあい」歌:中村雅俊、作詞:山川啓介、作曲:いずみたく、編曲:大柿隆、日本コロムビア1974年7月。日本テレビ系連続ドラマ「われら青春!」挿入歌。


*


□ いずみたく 略歴

いずみたくメモリアル25年

 

1930年1月20日~1992年5月11日(62歳没)。

1930年1月20日東京府東京市下谷区谷中生まれ (隣接する荒川区日暮里生まれの記述も有り)。本名:今泉隆雄。

1944年、大日本帝国陸軍の全寮制・仙台陸軍幼年学校に入学。在学中の1945年、敗戦を迎える。
1946年、東京府立第五中学校(五中24回A組。現・東京都立小石川高校)を卒業後、鎌倉アカデミア演劇科に入学(一期生)。
1950年、舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志に師事し作曲活動を始める。劇団小熊座で俳優として全国公演に携わる。
1955年、「葡萄の歌」で朝日放送ホームソングコンクール・グランプリを受賞。三木鶏郎が率いる冗談工房~トリローグループに所属し、野坂昭如・永六輔らと出会う。
1955~57年、"うたごえ運動"にも参加。
1960年、CM・映画・ラジオ・テレビの音楽を多数作曲し始めるとともに、永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。
1962年、個人音楽事務所「(有)いずみたくミュージックオフィス」を設立。
1963年、芸能プロダクション「(株)オールスタッフプロダクション」を設立。いしだあゆみ・ピンキーとキラーズ・佐良直美らが所属。
1965~69年、永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”をデュークエイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを制作。「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲。1966年第8回日本レコード大賞企画賞を受賞。
1969年、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」が第11回日本レコード大賞を受賞。「にほんのうた」シリーズで第11回日本レコード大賞特別賞も受賞。
1972年、テイチク・レコード傘下に「BLACKレーベル」を開設。
1973年、「いずみたくシンガーズ」を結成、テレビ番組出演や全国各地にて公演を行った。
1975年、「イズミ・ミュージックアカデミー」を設立。
1976年、六本木の自社ビル地下に「アトリエフォンテーヌ」を開館。
1977年、「いずみたくフォーリーズ」(現ミュージカルカンパニー「イッツフォーリーズ」)を旗揚げ。

歌謡曲(演歌・シャンソン・ブルース・ポップス)から、フォーク・CM・アニメ・ミュージカル・童謡・校歌・交響曲と幅広いジャンルの曲を作曲。多作で知られ総作数は15千曲に上る。

「歌はドラマである」のモットーに基づき、「見上げてごらん夜の星を」「洪水の前」「おれたちは天使じゃない」「歌麿」「船長」「死神」「聖スブやん」など多数のミュージカルを手がけた。制作と共に俳優の育成にも情熱を注ぎ、日本のミュージカル界で活躍する多くの俳優を育てた。

晩年はアニメ化作品「それいけ!アンパンマン」の音楽を担当。「すすめ!アンパンマン号」(ミュージカル「アンパンマンと勇気の花」挿入歌)が遺作となった。作詞を担当したやなせによるといずみの病状が悪化したものの病床で妻に口述筆記させて完成させた。編曲を担当した弟子の近藤浩章によると、いずみが亡くなったのは編曲作業が終了し録音に入る直後だった。

1986年、第二院クラブから参議院比例区に出馬するも落選(次点)。日本共産党を支持していたが、同党がタレント議員に否定的だったため、友人である青島幸男に強く請われて出馬したもの。
1988年、ミュージカル「歌麿」にて念願のアメリカ公演を実現。
1989年、青島幸男が辞職したため繰り上げ当選。
議員としての活動では、「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」として、文教関係予算の増額のために尽力した。

1992年5月11日、肝不全のため任期半ばで死去(62歳没)。雑司ケ谷霊園(1-5-34)に眠る。





■ 本日のネタ「お裁縫得意?苦手?」

 


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私が小学生の高度経済成長がスタートした(1955年)頃、農村部の庭先には耕運機やオート三輪車を備える農家も有ったものの、家庭の中(宅内)に有る機械製品と言えば、柱時計、ラジオ、そしてミシン位だった。その中でもミシンは、一際、神々しい存在であった。
既成の背広や学生服、着物や婦人服が普及するまでは、大概の衣服やオシメなどはハンドメイドで作ることができたし、ミシンさえあれば高速で完成することができた。
私は色気付いた中学2年生時に、ミシンの使い方を母に習って、自分の学生服を細く改造していた。それは稚拙なので、直ぐにそれと分かってしまう代物だった。或る日、理科の先生から指摘されたことはあった。 





昨日5/11(月)は午前から気温が上昇し、午後には28.1℃と「真夏日」に迫った。

20200511--15:23
東~東南の空の筋雲


20200511--15:30
気象衛星画像

 

 

 


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