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「新型コロナ出口戦略」。「我が終活」。5月12日は「看護の日」

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■ 新型コロナウイルス感染症(COVID-19) に対する

「出口戦略」(「Exit Strategy」)

ベトナム戦争時(1955年11月~1975年4月) から米国国防総省内で使用された軍事用語。

敗勢 (戦況が劣勢、Sign of Defeat) 時において、人命や物資の損害をいかに最小限に抑えて軍を撤退させるかの作戦。

後に米国お得意の経営学に活用し、企業経営・土地所有における不振な投資状況からの撤退、劣勢な市場からの撤退
---を検討する上で、経済的損失を最小限に抑えるため、投下資本を最大限に回収するための作戦。


今回の新型コロナウイルス感染症は、ワクチン開発までの道は困難を極め1年以上の期間を要するだろう。

このコロナウイルスは同じ中国広東省発のSARS(重症急性呼吸器症候群・・・2002~2003年で感染者数8,422人/死者数916人)やサウジアラビア発のMERS(中東呼吸器症候群・・・2013~2020年で感染者数2,538人/死者数871人)とは比べものにならない程に癖が悪い。
現在もなお感染拡大(パンデミック)し続けており、2019年11月22日~2020年5月11日現在で感染者数4,006,257人/死者数278,892人に上る。

陰性となっても再び陽性に戻って再感染することがある。この二波~三波は再活性化なのか変異した別型なのか不明のまま。



□ 韓国・台湾など軍国主義国家の場合


「IT技術戦術」をフル活用し国民の自由とプライバシーを国が掌握する (スマホのGPSやクレジットカード・電子マネーの利用歴データ、監視カメラデータにより徹底的に追跡する)。
国民個人の行動を徹底規制したり、陰性感染者までも長期隔離したりして、ハードランディング(硬着陸)の終息を目指す「短期決戦戦略」。
 


コロナ出口戦略の指針ー緊急事態宣言解除基準の考え方、経済と命を両立させる方法 (ベトナム在住の投資家サトウヒロシ氏 2020/05/04)
新型コロナの出口戦略「命も経済も守る出口戦略」や「V字回復プロジェクト」を提言 (日本政治教育センター代表理事・メルカリ社長室政策企画参事 高橋亮平氏 2020/05/11)

 

 

しかしながら、ハードランディングできたとしても生活様式を変革しないままでは、行動規制を解除した途端に行動倫理が乱れてクラスター(集団感染)やオーバーシュート(爆発的患者急増)を再び起こす危険を孕(はら)んでいる。


□ 日本の場合


本来 5S (整理・整頓・清掃・清潔・躾) の美徳を備え、行動倫理に優れた国民性を支えとして、平和憲法主義の国体を維持し国民の発露に任せてプライバシーを侵さず。
新型コロナウイルス特別措置法に基づく緊急事態宣言を発令。個人行動と営業活動との自粛に依拠しながら、モグラ叩き的な検査を行っている。
これは「持久戦」(別名「ゲリラ戦」) の考え方で、感染者が減らない限り長期間の制限を継続し、感染者が減ったら自粛を緩めたり解除したりの緩和政策を繰り返して、ワクチン登場まで耐え忍ぶことを求めている。軟着陸(ソフトランディング)を図る戦略。
持久戦の弊害として、個人の忍耐が疲弊したり、経済活動が萎縮(いしゅく)して大規模な連鎖倒産が発生したりする。手厚い弱者救済政治が求められる。

 
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■ 我が夫婦の「終活」


世の中全体が外出自粛をしていたGW期間中、夫(私)の方は抑制しつつも時々 "疎"を求めて散歩(サイクリング&ウォーキング)していた。その際、日増しに飲食宅配代行サービス「Uber Eats(ウーバーイーツ)」※ 配達員の目に余る走行がある。
妻の方は整骨院通いを週1回に抑制していた。
その間、「遺言書」に向けて僅(わず)かながらの財産ではあるが目録を作ってみた。

ウーバーイーツの利用増 一方で死亡事故も(日テレNEWS242020/05/08)

 

 

*


昨夜の月(月齢18、正中02:45)
南南東の上空
20200512--02:05


夕方の西空(日没18:37)
20200512--18:11



*


■ 5月12日は「看護の日」


1891年、新島八重をはじめ上流階級の女性は篤志看護婦になり、1894年には日本赤十字京都支部が救護員を広島予備病院に派遣された。
1894~95年の日清戦争において、日赤看護婦が当時のマスコミによって初めて従軍看護婦として宣伝された。
1931~45年の満州事変・日中戦争・太平洋戦争において、出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけでも延べ約35千名、うち1,120名が戦没した。
私の母も従軍看護婦となり終戦後は助産婦をしていたが、1976年に癌で早世した。

1990年、厚生省(現・厚生労働省)は近代看護を築いたフローレンス・ナイチンゲール(1820年5月12日~1910年8月13日、90歳没)の誕生日に因んで5月12日を「看護の日」に制定した。  


□ お題「今までに、入院したことある?」

 

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私の病院入院歴は、小学低学年時(1955~56年) に2回、高校2年時(1964年) に1回である。

成人以降では、入院に至らなかったものの大きな怪我と病気に遭遇したのは、2回ある。

① 新社会人となったばかりの1971年ゴールデンウィーク(GW)。大学浪人を始めた弟に会うため、横浜の会社独身寮から船橋の予備校寮へとスバルで往復した時の復路で、スピードを出し過ぎて "オカマ" を掘ってしまい眉間(みけん)を7針縫う大怪我をしてしまった。追突した瞬間は "死んだかーーー!!" と思った程だ。
 
② 厄年の1991年に患った胃潰瘍は、大量の飲み薬によって3カ月間で治癒(ちゆ)することができた。

 


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