昨日11/6(水)未明3時台の「NHKラジオ深夜便 作家で綴る流行歌:吉田矢健治(作曲)作品集」で、
故・江利チエミさんの1967年「ひとり泣く夜のワルツ」が流れました。
心の傷を癒そうと一人酒を浴びる姿が浮かんで来る、実に悲しい歌でした。
その7年後の1974年「酒場にて」も併せて、歌詞を抜粋してみました。
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★ 江利チエミ (1937年1月11日~1982年2月13日、満45歳没)本名:久保智恵美(くぼ・ちえみ)。
1937年1月11日、東京市下谷区(現・東京都台東区下谷)にお父さん(元クラリネット奏者⇒軍事徴用工場で指先を痛めピアノ奏者⇒バンドマスター・久保益雄さん)とお母さん(東京少女歌劇出身の浅草軽演劇女優・谷崎歳子さん)との3男1女の末娘として生まれる。
1951年6月、お母さんはチエミのデビューを待たず他界している。
1952年1月(録音時は満13歳/発売時は満14歳)、「テネシーワルツ/カモナマイハウス(家へおいでよ)」(訳詞:音羽たかしこと担当ディレクターの和田壽三、編曲:村山芳男) でキングレコード・メジャーデビューを果たす。「テネシーワルツ」は23万枚、続く「ツゥー・ヤング」(1952年5月発売)も15万枚の大ヒットとなった。
カブァーした「Tennessee Waltz」は、1946年に作詞Pee Wee King, 作曲Redd Stewart,the Golden West Cowboys1948年1月出版、Cowboy Copas1948年3月に出版。1950年にPatti Pageがカヴァーしてマルチミリオンセラーとなった。
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これらの大ヒットが大規模の劇場や公会堂を使ったジャズ・コンサートブームや、ジャズを放送で取り上げる民間放送の開局ラッシュと重なり、ジャズが全国へ広がるうえでの牽引役となった。
1953年12月、年末恒例の「NHK紅白歌合戦」へは、「ガイ・イズ・ア・ガイ」(1953年2月発売)で初出場を果たした。
<中略>
昭和20年代後半(1955~59年、私の小学生時代に一致) には、十代歌手の江利チエミ、雪村いづみ、美空ひばりの三人娘(orジャンケン娘)が大ブームを巻き起こした。
1956年、東映映画「恐怖の空中殺人」(監督:小林恒夫、主演:片岡千恵蔵) にゲスト出演。
1959年2月16日(高倉健28歳の誕生日、江利チエミ22歳)、「恐怖の空中殺人」での共演が縁となって交際に発展し、高倉健[本名:小田剛一(たけいち、後にごういち)] と電撃ゴールイン。
1960年、家庭に入り二人の約束に反し、本格的に芸能界復帰。
1961年、梅田コマで歌手として初の座長公演「チエミのスター誕生」。
1961~63年、TBS連続ドラマ「咲子さんちょっと」に主演し大ヒット。
1962年、新宿コマ初の座長公演「スター誕生」。芸術祭奨励賞を受賞。
1962年、結婚3年経過後に妊娠し高倉健との子供を授かる。しかしながら重度の妊娠高血圧症候群を発症し、中絶を余儀なくされた。そして以降は子宝には恵まれなかった。
1963年、日本におけるブロードウェイ・ミュージカル初演の東京宝塚劇場「マイ・フェア・レディ」主演。テアトロン賞(東京演劇記者会賞)/毎日演劇賞/ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞。
1965~67年、TBS連続ドラマ「サザエさん」に主演し、大ヒットした。
TBSの冠番組「チエミ大いに歌う」(1965年)、「チエミとともに」(1967年)。
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1967年7月、「ひとり泣く夜のワルツ」(B面「愛する人へ」) を発売。
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「ひとり泣く夜のワルツ」作詞:矢野亮、作曲:吉田矢健治、キングレコード
花が咲いても 淋しくて
花が散ったら なお悲し
誰が私を こうさせた
夜が 夜が泣かせるの
好きと何度も 書いた文字
いつか涙で 溶けてゆく
どうせ貴方にゃ とどかない
夜が 夜が泣かせるの
<以下略>
*
1968年、ポリープによる声帯の手術。
<以下、異父姉による横領事件はWikipediaを引用させて頂きました。>
様々な事情から母(チエミの実母・谷崎歳子)と幼くして生き別れになり、名古屋で家庭を持って暮らしていた異父姉のY子 (吉田よし子? ) は、或る日 "スター歌手、江利チエミ" が自分の妹(異父妹)である事実を知った。Y子は「離婚して経済的に困窮している」と騙(かた)って家政婦・付き人としてチエミの家に入り込み、身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かり経理を任されるまでになった。嫉妬心に駆られていたY子は、ここからチエミを陥れるべく犯罪的な行動をとり始めた。Y子は高倉健とチエミのそれぞれについて誹謗中傷を吹聴、二人を別居・離婚へと追い込むことになった。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、高利貸しから多額の借金、不動産までも抵当に入れた。事件発覚後も容疑を否定し、女性週刊誌や婦人誌などで反論するとともに、チエミへの誹謗中傷や家庭内の暴露を展開、挙句は失踪・自殺未遂騒動まで引き起こした。不遇な境遇の自分と "大スターの妹" との差に嫉妬した計画的な犯行だった。
1970年1月、世田谷区瀬田(旧・玉川瀬田町)にあった邸宅を火災で焼失。
1971年2月、「スワニー/テネシー・ワルツ」を発売。B面で1952年以来再びカヴァーした「テネシーワルツ」がまたまた大ヒット。
この年、高倉健に異父姉のことで、これ以上迷惑をかけてはならないと、チエミ側から離婚申し入れた。
1972年、日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇。
*
1974年9月、「酒場にて」(B面「陽気なスージー」)を発売。
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「酒場にて」作詞:山上路夫、作曲:鈴木邦彦、キングレコード
好きでお酒を 飲んじゃいないわ
家にひとり帰る時が こわい私よ
あのドアを開けてみたって
あなたはいない
暗い闇が私を 待ってるだけよ
また長い夜をどうして すごしましょう
愛の香りも 消えたあの部屋
どうぞお店が 終る時まで
ここにおいてひとりだけで 飲んでいるから
死ぬことも出来ず今でも
あなたを想い
今日もひとり酒場で 泣いてる私
また長い夜をどうして すごしましょう
愛の香りも 消えたあの部屋
<以下略>
*
異父姉による横領事件によってチエミは自己破産をせず "責任は自分でとる" と決意し、断腸の思いで異父姉を告訴。2億とも言われた動産の被害/不動産担保を地方営業などをこなしながら、数年かけ「酒場にて」の大ヒットなどによって遂に一人完済した。
1978年、新宿コマ最後の座長公演「サザエさん」。京都南座(松竹系)で音楽劇「二十四の瞳」主演。
1982年
2月13日、自宅マンション「高輪ヒルズ」(港区高輪2-12-56)の寝室ベッド上でうつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見された。既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。満45歳没。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息(誤嚥)によるものだった。数日前から風邪を引き体調が悪かったところにウィスキーの牛乳割りを呷り、加えて暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入ったことが一因と言われている。
2月8日、ホテルニュージャパン火災、2月9日、日航機羽田沖墜落事故---二つの大惨事が連日に亘り発生し、当時の報道・マスコミは特別報道態勢を敷いて各局は混乱に陥っていたため、チエミ急逝ニュースは予想以上に小さな扱いとなり、数日後に改めて追悼番組や特集などが組まれた。
2月16日、葬式当日。 何たる偶然なのか、2月16日は高倉健の誕生日で二人の結婚記念日でもあったのだ。高倉健は本名・小田剛一で供花を贈り、会場の前で車を停めて手を合わせていたという。その後も江利チエミの命日には毎年、墓参りは欠かさず花を手向け本名を記した線香を贈っていた。
3月3日、仕事関係者らによる音楽葬が行われた。
お墓は、浄土宗福来山法徳寺(世田谷区瀬田1-7-7)。
<中略>
1999年6月、東映映画「鉄道員(ぽっぽや)」(原作:浅田次郎、監督:降旗康男、音楽:国吉良一、出演:高倉健/大竹しのぶ)で、乙松こと高倉健さんが吹く口笛曲は「テネシーワルツ」。
身内の悪意によって引き裂かれた結婚~チエミさんと離婚~必ず時が来たら再婚しようと誓った~チエミさんの不慮の死~以後独身を貫いた健さん。北海道・幌舞駅(撮影はJR根室本線の幾寅駅)に悲しく響く汽笛、健さんの吹く口笛。物哀しいなあ!!
この記事を書き終わって、
久しぶりにウィスキーのロックを傾けながら、記事のYouTubeを聴く。。。