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「ラジオ深夜便 ~明日へのことば」芹澤廣明、アルベール・カミュ

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NHK「ラジオ深夜便」4時台

「明日へのことば」

 

この番組は時々聴きますが、7/29(日)、7/31(水)と続いて印象的な企画だったので、つい紹介したくなりました。

 


■ 7/31(水) 

作曲家・芹澤廣明(せりざわ・ひろあき)氏
「古希、アメリカで歌手デビュー」


芹澤氏は、1948年1月3日に横浜市港北区で生まれたので、全く私と同い年である。


1982年、「少女A」で作詞・売野雅勇、作曲・芹澤廣明、編曲・萩田光雄、歌・中森明菜、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)により、ブレイクした。


 

1983~1986年、チェッカーズの作曲家 兼 プロデューサーとしてヒット連発した。
 

1983年、「ギザギザハートの子守唄」作詞・康珍化、作曲・編曲・芹澤廣明、キャニオンレコード。
 

1984年、「涙のリクエスト」作詞・康珍化、作曲・編曲・芹澤廣明、キャニオンレコード。
 

1984年、「ジュリアに傷心」作詞・康珍化、作曲・編曲・芹澤廣明、キャニオンレコード。


1986年、「Song for U.S.A.」作詞・康珍化、作曲・編曲・芹澤廣明、キャニオンレコード。

 

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1985年、フジテレビ系列のアニメ番組「タッチ」第1期オープニングテーマ曲、および主題歌・・・作詞・康珍化、作曲・編曲・芹澤廣明、歌・岩崎良美、キャニオン・レコードが岩崎自身最大のヒット曲となった。

 

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漫画「タッチ」・・・原作・あだち充、小学館「週刊少年サンデー」1981~1986年連載。
テレビアニメ「タッチ」・・・総監督・杉井ギサブロー、監督・ときたひろこ、音楽・芹澤廣明、アニメ制作グループ・タック、フジテレビ1985~1987年放映。


上杉達也・和也兄弟・浅倉南らが通っている東京都「明青学園高等部」の校舎モデルは群馬県立前橋商業高校の旧校舎、制服デザインモデルは滋賀県立甲西高校など。


尚、当時の「夏の甲子園」優勝校は1984年の優勝・取手二(茨城)--準優勝・PL学園(大阪)、1985年の優勝・PL学園(大阪)--準優勝・宇部商(山口)、1986年の優勝・天理(奈良)--準優勝・松山商(愛媛)だった。


以後、「狙いうち」「サウスポー」などと共に、30年以上経った現在でも日本の高校野球の応援歌として定番楽曲である。

1998年、沢井なつ美 & Quick-Timesをプロデュースした。

現在、コンスタントにアレンジャー、作曲家、音楽プロデューサーとして活躍している。


そして昨2018年、「Light It Up!」作詞L・ラッセル・ブラウン、作曲・編曲・芹澤廣明、サンセット・スペシャル・マーケッツで全米歌手デビューを果たしている。

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■ 7/29(月) 

文学者の頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)氏
「絶望名言 アルベール・カミュ」



頭木氏は、1964年山口県生まれで、筑波大学在学中に難病・潰瘍性大腸炎に罹り13年間の闘病経験から、絶望をテーマとする実存文学者: カフカ、カミュ、ドストエフスキー、太宰治について世に紹介して来たので、私にとっては青年時代の精神の軌跡に通じるものがある。


□ 絶望名言Ⅰ

小説「異邦人」(1942年、窪田啓作・翻訳、集英社ギャラリー「世界の文学9」1990年刊)

新潮社の解説を引用。


「異邦人」・・・母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求した。
 

アルベール・カミュ・・・1913年アルジェリア生れ。フランス人入植者の父が幼時に第一次世界大戦で戦死、貧困で母は文盲、不自由な子供時代を送る。高等中学リセの恩師の影響で文学に目覚める。国立アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第二次世界大戦時は反戦記事を書き活躍。またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。1942年「異邦人」が絶賛され、「ペスト」「カリギュラ」などで地位を固めるが、1951年「反抗的人間」を巡りサルトルと論争し、次第に孤立。以後、不治の病・結核に罹り、悪夢に悩まされ続ける中、「転落」等を発表。1957年ノーベル文学賞受賞。1960年1月パリ近郊において交通事故で死亡。

 

エッセイ「カミュの手帖」(1935-1942年、大久保敏彦・翻訳、新潮社単行本1992年刊)より、
「絶望とは、闘うべき理由を知らずに、しかも、まさに闘わねばならないということだ」


「闘う」こと自体は絶望ではないわけだ。もちろん、その闘いの内容によっても、感想は全く変わってくるが、テロリズムの様な行為を「絶望的行為ではない」と表現することは出来ない。しかし、テロリストが心底から確信を持ってその行為を行い、命を賭して闘うことが本望だというのであれば、彼らの心の中には、絶望はないということになる。しかし、微塵でもその闘いに疑問を覚えるなら、そこにあるのは絶望である。


□ 絶望名言Ⅱ

エッセイ「シーシュポスの神話」(1942年、清水徹・翻訳、新潮文庫1982年刊)より、
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」


 ※「神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えた・・・。ホメーロスの伝えるところを信じれば、シーシュポスは人間たちのうちでもっとも聡明で、もっとも慎重な人間であった」。

不条理な労働ではあるが、継続して頂上を目指せることは幸せだ。ナチスによる拷問も、毎日毎日、杭を打ったり抜いたりの同じ労働を延々と繰り返させる。誰も死を免れないという人間の生存の不条理を受け容れたところから、希望が生まれて来る。人生に意義が無ければ、逆に自由によく生きられる。

映画「リトルフォレスト」・・・自給自足の自炊生活。キチンと生きるのは素敵なことだ。しかし、作るのも食べるのも自分。だんだん空しくなって来て雑になる。

「不条理」という言葉は、アンドレ・マルローが使いアルベール・カミュが広めた。災害や病気や戦争など相次いで理不尽な事件・事故が起こる、人が簡単に死んでしまう。この世の中とはいったいどういうものなのか? 法則を見つけたい、理解しようとするがうまく理解できない。「不条理」の中で、無気力・投げやり・どうでもいいという生き方に陥ってしまう。

Wikipediaの解説を引用。
カミュの言う「不条理」とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる「不合理性」のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。そして人間性を脅かすものに対する「反抗」の態度が人々の間で連帯を生むとされる。カミュの文学的営為は、病気・死・災禍、殺人・テロ・戦争、全体主義など、人間を襲う「不条理」な暴力との闘いだった。それに対して、彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探し求めた。


□ 絶望名言Ⅲ

エッセイ(処女作)「裏と表」(1937年、佐藤朔/高畠正明・翻訳「カミュ全集1アストゥリアスの反乱・裏と表・結婚」新潮社単行本1972年(古書)より、
「生きることへの絶望なくして、生きることへの愛はない」


「シーシュポスの神話」※の欄を参照。

カミュの生まれた町は地中海に近く、太陽と海は美しい。自然は永遠。人間は永遠でない。参加できない人間に絶望する。


□ 絶望名言Ⅳ

小説「ペスト」(1947年、宮崎嶺雄・翻訳、新潮文庫1969年刊)より、
「絶望に慣れることは、絶望そのものよりもさらに悪い」


民衆を襲うペストの脅威。人は結局何もコントロールできない。無慈悲な運命。人生の不条理は避けられず世界は不条理に満ちている。災厄は突然潮が退いたように終息する。人々は元の生活に戻って行く。受け容れて慣れて生きる。だが流行は過ぎた筈なのに、語り手のタルーは病気で死んでしまう。そして、医師のリウーは療養中の妻が死んだことを知らされる。

映画「ショーシャンクの空に」・・・刑務所に慣れてしまうと、釈放されると不安に苛まれ自殺する。絶望に慣れるな! 自分の不幸な状況を許さず反抗しろ! 子どもたちを攻めて苛む世界に対し、仕方がないと言うな! 誰にでも分かっているように見えるが、本当はよく分かっていない。政治・暴力・戦争は何時でもいけないことだと主張すること。青臭いと言われても、言い続けて許さないこと。


*


■ <参考> 私のカミュに関するブログ


□「学生生活におけるエスプリ」(2006-12-20)の抜粋

バイト。そして哲学との出逢い。
私は1967年(昭和42年)に、大学に入ってから、映画研究会に所属し、哲学という学問があることを知り、大学って奥が深いところだなあと、のめり込んで行った。先輩諸氏がカントだ、ヘーゲルだ、マルクスだと薀蓄(うんちく)を傾けておられたので、自ずと染まりつつ、しかし瞬く間に自意識は昂揚した。その頃の大学は、日米安全保障条約の改正を1970年に控え、日増しに、分派(セクト)間で戦闘的な様相を呈して来ていた。「主体性とは」、「歴史的存在とは」 と議論を交わしていた。私は、法文学部に合格し、それらのことに大いに関心があった。しかし、それ以前にアルバイトをしたくてしょうがなかった。バイトで稼いだお金を、パチンコ・麻雀、酒・タバコに、浪費し続けた生活が続いた。一方、ベトナム戦争に反対する学生運動、市民参加の「ベトナムに平和を市民連合(べ平連)」活動、安保条約の70年見直しに対する反体制運動、が日増しに戦闘化していた。我々、セクトに属さない学生たちは、"ノンポリ・ラジカル"と揶揄(やゆ)された。文化系サークル、その中で私が属する映画研究会も、既成の自民党体制と日本共産党(代々木)に反対する、いわゆる三派全学連のサポーター的存在となって行った。代々木vs反代々木の二極化から、風雲急を告げて、多極化への一途を辿ることになる。日夜、暇さえあれば議論を闘わす日常生活である。 「生きがい」、「人間のあるべき姿」、「自己否定・変革」、「歴史的存在としての参加(アンガージュ)・投企(プロジェ)」、「造反有理」、をテーマとした理論武装と構築、そして実践・・・。仲間だろうが、先輩だろうが、教授だろうが、論破することに生きがいを持つソサイアティが続いた。私は既に、家庭がそれ程貧困でなくなっており、大学まで進学させてもらえる、いわゆる小市民(プチブル)と言える境遇となっていた。そうした社会情勢の中で、「人間の実存」、「現象学」に非常な興味を持ち、大学2年の夏休みに、大学の図書館に通い詰めて、西洋哲学史を勉強し、日本の戦後主体性論に陶酔した。その中で印象に残った人:アルベール・カミュ・・・自分は何故、このような境遇なのか、太陽=「不条理」に反抗して、いかに自分の人生を、そして幸せを見出すか。生き続ける限り、問い続けなければならない。当時、香林坊に「異邦人」というサロンと「ピット」というスナックがあり、そこに入り浸った時期があった。高橋和巳・・・「孤立無援の思想」「連帯を求めて孤立を恐れず」「自己否定し意識改革せよ」などのフレーズは当時の我々を惹きつけた。

 

□ ミケランジェロ・アントニオーニの「太陽はひとりぼっち」(2007-07-25)
 


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