書き下ろし長編小説「危険なビーナス」
著:東野圭吾
講談社単行本(ソフトカバー)2016年8月刊
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■ 東野圭吾氏の長編著作(2013年以降)と私のブログ
「夢幻花」(PHP研究所2013年4月、PHP文芸文庫2016年4月)・・・柴田錬三郎賞
「加賀恭一郎シリーズ 祈りの幕が下りる時」(講談社2013年9月、講談社文庫2016年9月)・・・吉川英治文学賞
「虚ろな十字架」(光文社2014年5月、光文社文庫2017年5月)
「ラプラスの魔女」(KADOKAWA2015年5月、角川文庫2018年2月)
「人魚の眠る家」(幻冬舎2015年11月、幻冬舎文庫2018年5月)
「危険なビーナス」(講談社2016年8月)
「恋のゴンドラ」(実業之日本社2016年11月) 未読
「雪煙チェイス」(実業之日本社文庫2016年11月) 未読
「マスカレード・ナイト」(集英社2017年9月) 未読
「ガリレオシリーズ 沈黙のパレード」(文藝春秋社2018年10月) 未読
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□ 東野圭吾氏の主な訴求テーマ
「夢幻花」(2013)・・・生命工学(バイオテクノロジー)・原子力工学の光と影。
「疾風ロンド」(2013)・・・新型感染症・生物兵器。
「虚ろな十字架」(2014)・・・犯罪被害者遺族・死刑制度。
「ラプラスの魔女」(2015)・・・予知能力・脳細胞移植。
「人魚の眠る家」(2015)・・・脳死・臓器提供。
「危険なビーナス」(2016)・・・後天性サヴァン症候群・動物実験。
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■ 本作のあらすじ
主人公の手島伯朗(はくろう)の父・手島一清(かずきよ)は貧乏画家だった。伯朗が幼い頃に脳腫瘍を発症し、伯郎が5歳の冬に亡くなった。一清はそれまで静物画を得意としていた筈なのに、脳腫瘍を発症してから2年程が経った頃から抽象画を描き始めた。
手島家の生活を支えていたのは看護師の母・手島禎子(ていこ)だった。禎子が働いている間、伯郎は近所に住む禎子の妹で専業主婦の兼岩(かねいわ)順子に預けられた。順子の夫・兼岩憲三は大学の数学教授だった。
一清の死後、30代半ばだった禎子は資産家の御曹司で、神経科が専門の病院副院長・矢神康治(やがみ・やすはる)と再婚した。その再婚相手・康治との間にできた義弟が矢神明人(あきと)だった。この9才下の異父弟・明人は、連れ子の伯朗を余所に待望の跡継ぎとして、幼少期から英才教育や帝王学を施したため極めて高い知能を備えた。
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矢神家に入籍されなかった伯朗が公立中学に入学した頃に改めて入籍(養子縁組)の話が出たものの伯朗が拒み、20歳になって間もなく実父側の手島姓で生きることを選んだ。
しかし16年前、伯朗と明人は母・禎子を事故で失ってしまった。禎子は西東京の小泉に在る実家の風呂場で頭を打って変死した。警察の見解は、湯船の中で足を滑らせて後頭部を強打して気を失いそのまま沈んだ事故死の可能性が高いとのこと。玄関も窓も全て内側から施錠されていたと言う。母が亡くなってからますます明人と疎遠になった。
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現在の手島伯朗は池田動物病院で院長代理を務める獣医。その伯朗の元に或る日突然、カーリーヘアの程良く肉感的で魅力的な一人の美女が訪ねて来た。彼女は矢神楓(カエデ)。長年没交渉だった明人の妻と名乗った。
父・康治が末期の膵臓癌で闘病中だったが危篤であると聞いた明人と楓は急遽(きゅうきょ)、米国のシアトルから4日前に帰国したと言い、明人は現在、IT関係の仕事をしているのだそう。
ところが驚いたことに、帰国2日目に明人が失踪したと言うのだ。「ちょっとしたミッションがあるので出かけます。もしかするとしばらく戻らないかもしれない。でも心配しなくていいです。その場合、申し訳ないけど父の見舞いは君一人で行ってください」と無責任な書き置きを残して。携帯電話もメールも応答が無い。
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明人の失踪には矢神家の人間が関わっていると疑う楓は、彼らとの接触を望んでいた。だが義兄となる伯朗のみならず矢神家の人間皆に結婚したと伝えていなかったことから、誰もが信用しないのは明白。楓は伯朗に、「自分が明人の妻だと矢神家の人間にも信じてもらえるように、一緒に付いて来て欲しい」と頼んで来た。
矢神家の人間とは二度と関わることも無かろうと思っていた伯朗だったが、楓は明るく強(したた)かで、伯朗には随分と魅力的な女性だった。
渋々と康治の見舞いに付き合うことから始まり、結局は矢神家に明人の失踪を隠すことによって、彼女に協力する。そして次第に楓に対して心を惹かれて行く。
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2人が矢神家と関わって行くうちに驚くべき事実が次々と明らかになる。
遺産相続を巡るバトル。
康治が隠していた研究の謎。
伯朗の母・禎子の死の真相。
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■ 本作のキーフレーズ(抜粋) <ネタバレご注意>
P157
「あなたは動物実験も手伝ったんですか」「科学の発展のためには、何かを犠牲にしなければならないこともある。それが動物の命という場合もある。どうせ保健所で始末される命なら、人類のために役立てたほうが有意義だ」。
p177~178
そこには大きなケージが置いてあり、中に五匹の猫がいた。五匹とも目を閉じていた。全く動こうとしない。だが生きているということは、かすかな背中の上下動でわかった。生気のない目だった。その瞬間、伯朗は激しい悪寒に襲われた。気づいた時には、嘔吐していた。「頭蓋骨に穴を開けられ、脳を露出させられた猫だった」。「その時に思ったんだ。この人をお父さんって呼ぶことは、たぶんできないだろうなって」。「トラウマってやつなのかな。俺はあの光景が忘れられないんだ」。
p185
「これはフラクタル図形の一種だ。フラクタルというのは幾何学の概念の1つで、自然界にも頻繁に出現する」。「そのように全体の形と細部とが相似にあるものなどをフラクタルという」。
p265~266
「明人、恨むな」---たしかに康治はそういった。伯朗の耳には、そう聞こえた。
p303~308
勇磨がいった。「康治さんが取り組んでいたのは、世にも珍しい後天性サヴァン症候群」。伯朗はいった。「複雑な曲線を精緻に組み合わせた図形です。その後、フラクタル図形だとわかりましたが、あの絵を描いた人の御遺族から聞いたんです。康治氏が後天性サヴァン症候群について研究していたことや、そのきっかけを」。牧雄は「兄貴の元々の研究テーマは後天性サヴァン症候群などではなかった。脳への電気刺激による痛みの緩和、意識の覚醒が主なテーマだった」。「兄貴がやろうとしていたことは、あくまでも治療だった。君の親父さんは脳腫瘍の影響で頻繁に錯乱状態を起こすようになっていたが、脳内のニューロンが誤った情報をやりとりしていることが原因だと考えられた。複数個の電極を付けたヘッドギアを患者に被せ、パルス電波を一定のパターンで流してやるというものだ」。「頭の中に奇妙な図形が浮かんでは消える、と本人が訴えていたのだが、ところが当人がそれを実際の絵に描き始めると、作風が全く違うことは素人目にも明らかだが、それ以上に人間業とは思えない精巧さに度肝を抜かれたという」。あの絵だ、と伯朗は気づいた。父の一清が死の直前まで取り組んでいた不思議な絵。タイトルは『寛恕(かんじょ)の網』だった。「事故あるいは病気によって脳を損傷したせいで、それまではなかった特殊な才能を発揮した例があるはずだと兄貴は考えた。彼らの症例を詳しく調査した。例のフラクタル図形を描いた人物も、そうした一人だ」。
p343~345
憲三は楓を指差した。「『ウラムの螺旋(らせん)』で調べればよい」「ウラム? 康治氏が俺に、『明人、恨むな』といったように聞こえたのですが」。それはたしかに図形に見えた。だがよく見ると、無数の黒い点で構成されているのだった。「1963年、数学者のスタニスワフ・ウラムによって発見された。規則性の強い部分を応用し、新たな素数の発見に使用される場合もある」「『寛恕(かんじょ)の網』というのは、彼らしいユーモアだ。ウラム---日本語の『恨む』の反意語として、『寛恕』を付けたらしい。『網』というのは表現方法をいっいるそうだが」「素数は無限にあるから、『ウラムの螺旋』と同様、『寛恕の網』も元々永遠に完成しないものだった」。
p374
「『天才が幸せをもたらすとはかぎらない。不幸な天才を生むより、幸せな凡人を増やす努力をしたい』。報告書の最後のページに書かれていた。僕はこれは父さんの遺言だと思うことにした」。「手島一清さんは、『寛恕の網』を描いたことを後悔した。人間には踏み込んではならない領域があると気づいたんだよ」。
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□ 本作の用語解説
☆「後天性サヴァン症候群」(英語 savant syndrome)・・・他人との会話(コミュニケーション)が上手くできない、興味や活動が偏(かたよ)るといった特徴を持つ、自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群)などの精神障害(知的障害・発達障害)が有る人のうち、記憶・数学・芸術の狭い特定分野に限って天才的に突出した優れた能力を発揮する人の症状。生まれつきの「先天性」の場合が殆どだが、事故などで頭部に損傷を負いそれが切っ掛けとなってそれまで全く見られなかった才能が開花した場合を「後天性」と言う。
能力の例としては---
並外れた暗算。ランダムな年月日の曜日を言えるカレンダー計算。素数と約数を瞬時に判断。
写真や風景など画像を少し見ただけで細部に亘るまで描き起こすことができる映像記憶。
一度読んだ本の内容を完璧に覚えているなど書籍や電話帳、円周率・化学周期表などの暗唱。
音楽を一度聞いただけで再現するなどの絶対音感。
数カ国語を自由に操る語学の天才。
☆「素数」(英語 prime number)・・・1より大きい整数で1と自分自身でしか割り切れない数。正の約数が2個の自然数。尚、1は1より大きい整数ではないので素数ではない。2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,31,37,41,43,47,53,59,・・・
☆「ウラムの螺旋(らせん)」(英語 Ulam spiral) もしくは「素数の螺旋」(英語 Spiral of prime numbers)・・・自然数を渦巻き状に並べる。
そのうちの素数である部分を黒く塗り潰(つぶ)す。この作業を取り敢えず10,000まで行うと斜め対角線に沿って並ぶ図形ができる。この図形を「ウラムの螺旋」と言う。何やら規則性が浮かび上がり直線が見える。
このような素数が出現する直線の規則性を公式として定めるのは数学史上最大級の難問と言われ、未だに正解を解明できていない。
☆「フラクタル図形」(英語 fractal) ・・・部分と全体とが同じ形になる自己相似(self-similar)になっている図形。自然界で多くみられる一見不規則な変動(カオス、英語chaos)をグラフにプロットすると、自己相似形を示す形状は多い。
フラクタルの例としては---
葉の形・木の形、山の形・海岸線の形・雲の形。血管の分岐構造・腸の内壁。国境線の縮尺地図、株価動向などの社会的現象。
現代科学では微分・積分法によって解が得られる。現存する構造や新たに起こった現象が、たとえ人間知覚の識別能力を超えた混沌(こんとん)・無秩序・不規則に思えるカオスであっても、「複雑系」(complex system)という範疇で科学的に捉え、CGやシミュレーターによる数値解析から、そのフラクタルに辿り着くことができる。