6/2(木)
南の地平線近くに火星が赤く輝いている。
未明より、天気晴朗なれど薫風強し。
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NHK「ラジオ深夜便」 6/1(水) アンカー: 川野一宇アナ。
28時[6/2(木)午前4時]台の「明日へのことば」は、書家・船本芳雲氏の「故郷への思いを書にしたためる」だった。
ところで書道と言えば、小中学生の私は、書き方・習字や図画が好きな反面、工作や理科実験を敬遠した、不器用な"文系男子"だった。書道には今も関心が強いのだが、年賀状の住所や本文を繰り返し書くのを敬遠して妻任せ、添え書き(コメント)だけの"ズルイ男"に成り下がっている。
■ 船本芳雲
1942年、樺太・野田郡野田町大字野田字濱町生まれ。本名・船本洋治。
神奈川県鎌倉市寺分(深沢地区)在住。
所属会派: 「毎日書道会」理事・「毎日書道展」審査会員。
役職:
「全日本書道連盟」監事、「日本詩文書作家協会」理事長、「高野山書道協会」常任理事。「書燈社」顧問、「文珠会」主宰。
「神奈川県美術展」委員・書部門審査員、「神奈川書家クラブ」世話人。
中国・山東省「莱州市書法家協会」名誉主席。など。
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1942年、樺太に生まれ、1945年の終戦間近に、一家5人は樺太を脱出し、やがて奥能登の石川県珠洲(すず)郡宝立町に落ち着く。
1961年、県立飯田高校(珠洲市野々江町)を卒業後、旧・国鉄に入社し、鎌倉に住む。
先輩から社内の書道サークルに誘われたことが切っ掛けで書を始めた。
1966年(24歳)、購読する書道雑誌「書燈社」編集者の文人書家・青木香流さんの教室(横浜)に入り、その出会いと師事が人生を変えることになった。
1975年(33歳)、「毎日書道展」毎日賞を受賞!!
1981年(39歳)、「毎日書道展」会員賞、「神奈川県美術展」美術奨励賞を相次ぎ受賞。
1982年(40歳)、師から「そろそろ書に専念したら」の言葉で、国鉄を退職し師が経営する「書燈社」に転職。以来、書の道を邁進して来た。
1992年、「書燈社」理事長(⇒2009年、退任し顧問)。
1995年、「毎日書道展」運営委員・審査員(以後、歴任)、1996年、「毎日書道展」会員賞選考委員(以後、歴任)。
2004年、「毎日書道会」監事、2006年、「毎日書道会」理事・審査会員。
2007年、「日本詩文書作家協会」理事長(⇒後に、会長)。「神奈川美術展」審査員。
2013年、「毎日書道展」文部科学大臣賞を受賞!!
2015年、「沁みいる故郷 船本芳雲書展」(横浜・そごう美術館)で「毎日芸術賞」美術3部門(書道)を受賞!!
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□ 船本芳雲氏の言葉---奥能登の海に原点
書は本来、<文字のかたち>と<ことばの意味>を同時に伝える芸術である。歴史的に見ても、王羲之の「蘭亭序」、空海の「風信帖」等、みな双方の役割を担っている。現代の書が、ともすれば社会性を喪失しているのは、造形性に片寄り、ことばの発信力が弱体化しているからである。
船本芳雲は、数奇の遍歴をもつ書人である。一家は終戦間近に銃声の響く中、小舟で樺太を脱出する。幸運にも北海道の網元に救出され、やがて奥能登に落ち着く。
その"珠洲の海"こそ、船本の感性の原点となった。
作家の心の原風景である故郷・石川県珠洲市の風景や心象を綴った自作の詩を、多彩な書で表現し続ける数少ない作家。
国鉄に就職して上京するが、そこで横浜の文人書家・青木香流と出会う。そして数奇の生涯が、現代の詩書へと昇華する契機となった。
見付拓(みつけたく)のペンネームで「八方䑺(はっぽうばせ)」の詩集と、書作品を発表する。
著作に「伝えたいことば 漢字かな交じり書への招待」(天来書院2014/4/20)。
「私はこれからの書は、現代文の書が中心になると思っている。古典の楷書・行書・草書の臨書を重視しながら、俳句・短歌・現代詩・文章の一部等、文芸作品を楽しく書作しよう」。
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「かもめひとり そこがふるさと そこがふるさと 砂が走る」
「青空の裾の 白鳥の羽のような わずかばかりの煙 それは旅をしている 天使たち」
現代文を素材に漢字とかなを交えた「近代詩文書」が中心。それは書に対する「何が書かれているのか分からず難解」という、イメージへの危機感からだ。
「社会から遊離してしまった芸術に未来はない。文字だからこそ何が書かれ、それをどう表現しているのか、伝わることも大切」。
最近では仲間とともに、小学3年生で始まる書道教育を「1年生から」と活動する。
「キーボードと違って筆は、強く押し付ければ太く、引けば細い字になる。書は人間の感性の根幹につながりそれを育てる力がある」。
書道教室は、鎌倉市腰越・大船・横浜駅東口にある。