NHK BSプレミアム「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」
#74「オードリーとローマの休日 ~秘めた野心 貫いた思い~」
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初放送
2017/11/14(火) 21:00~21:59
再放送
2017/11/20(月) 18:00~18:59、
2018/10/16(火) 21:00~21:59、2018/10/22(月) 23:45~24:44。
2代目MC: 沢尻エリカ
ナレーター: 濱田岳
「オードリーとローマの休日」予告映像
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■ 概要
オードリー・ヘップバーン主演の名作「ローマの休日」をテーマにした、ドキュメンタリー「オードリーとローマの休日 ~秘めた野心 貫いた思い~」がNHK BSプレミアム「アナザーストーリーズ」で放送され、日本初公開となる極秘のプライベート映像も放送された。
1952年に撮影された「ローマの休日」。
初主演のオードリー・ヘップバーンが世界的スターになった伝説の現場だ。
今回、その現場を見た少年少女がオードリーの素顔を詳しく証言!!
10歳の少年が見たオードリーの美しさ、プロ根性、秘めた野心。
監督の娘が見た優しさ。
さらにオードリーの息子が極秘のプライベート映像を日本初公開。
自分の人生を自分で切り開く、オードリーの信念の生き方と知られざるエピソード!!
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■ 詳細
□ 出典
「Hatena Biog yachikusakusaki's blog 1」(2017-11-21)」
「Hatena Biog yachikusakusaki's blog 2~4」(2017-12-13)」
世界で最も愛された女優とは誰か?それはきっとあの人でしょう.
オードリー・ヘップバーン。エレガントな佇(たたず)まいと,少女のような愛くるしさ。亡くなって24年たった今も世界中で愛されている。そんな彼女の初めての主演映画となったのが、そう、ローマの休日。
マリリン・モンロー、エリザベス・テイラー。ザッツ・アメリカンな女優が人気を博した時代に公開された「ローマの休日」。主人公は、これが初主演のオードリー・ヘップバーン演じるアン王女。退屈な公務に嫌気が差し、1人でローマの街へと脱出する。そんな彼女を偶然見つけた記者が、身分を偽って密かに取材するうちに、2人は恋に落ちてしまう。
公開されるや否や大ヒット。オードリーは初主演にしてアカデミー賞主演女優賞(第26回)に輝いた。映画を観た観光客が世界中からローマに殺到。日本の街角にはオードリーと同じヘアスタイルの女性が溢(あふ)れた。以来,60年経っても愛される「ローマの休日」。こんな映画、他にはない。
「運命の分岐点」は1952年6月23日。ローマの休日の撮影が始まった日である。今から65年も前だが、この時、オードリーを間近で見ていた人物に貴重な話を聞くことができた。
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□ 視点1. メイクの息子ジャンネット・デ・ロッシ「映画の獣 オードリーの野心」
当時10歳だった少年、ジャンネット・デ・ロッシ。両親がオードリーにメイクを担当していた。メイクは俳優の一番近くにいる存在。少年は、オードリーの成功に賭ける密かな野心を目の当たりにしていた。
オードリー・ヘップバーンの大出世作「ローマの休日」。名作の影に秘められたアナザーストーリー。
イタリアの首都ローマ。「ローマの休日」は1952年の夏、この町で3カ月掛けて撮影された。その現場に、夏休み中、足繁(しげ)く通った少年は今も同じ街に住んでいる。ジャンネット・デ・ロッシ (75歳)。イタリアのみならずハリウッドの大作を多数手掛けるメイクの第一人者だ。「スイートだね。彼女。何てスイートな演技をするんだろう」。
4代続く映画一家のデ・ロッシ家。「ローマの休日」には父がメイク、母がヘアスタイリストとして参加した。当時10歳のジャンネットは撮影現場でオードリーの並々ならぬ覚悟を目の当たりにした。「彼女だって映画の獣さ。映画の世界じゃ獣じゃなければ生きていけない」。
ローマの休日でデビューする前、オードリーは何処で何をしていたのか? 1929年5月4日生まれ。オランダの裕福な家庭に育った。その頃の夢はプロのバレリーナ。しかし11歳の時に、ナチス・ドイツがオランダに侵攻。バレエどころではなくなる。戦後練習を再開するもブランクは大きくプロの道は諦めざるを得なかった。それでも表舞台には立ちたい。彼女はロンドンに渡り下町の劇場で女優の道へと進んだ。
一方その頃、米国ハリウッドで史上空前のプロジェクトが立ち上がる。全編海外ロケを行う初の映画「ローマの休日」。監督は巨匠ウィリアム・ワイラー。ワイラーはイタリアが誇るスタジオ・チネチッタに「最高のスタッフを集めて欲しい」と要請。ジャンネットの両親には、いの一番に声が掛かった。「そりゃそうさ。ワイラー監督は『イタリアで最高のメンツを揃えてくれ』って言ったんだろ? メイクアップでうちの親父を超える人はいないし、ヘアでうちのおふくろを超える人はいないよ」。
主演男優にはハリウッド切っての人気スター、グレゴリー・ペックが決定。だがヒロインのプリンセス役だけはなかなか決まらず、欧米各地でオーディションが行われることになる。それを耳にしたオードリー。密かな野心を滾(たぎ)らせた。新米で未熟だけどオーディションを受けたいと思った。「私に好意を持ってくれる人をもっと見つけたかった」。
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各地でカメラテストが行われフィルムはワイラー監督の元へ送られた。オードリーは如何にして大役を手に入れたのか? テストの様子が数コマだけ残っている。お題はベッドで寝て起きるだけの極シンプルな演技。だがワイラーはスタッフに1つ秘密の注文を付けていた。「『カット』と言った後もカメラを回しっ放しにして欲しい」。アクション! 寝そべるオードリー。カット!の声が掛かる。ここからが見物だった。「まだ回してるんでしょ?」とばかりにカメラ目線でニヤリ。そのまま飛びっ切りの笑顔。胸元は直す恥じらいは忘れず笑顔で去って行く。回しっ放しのカメラに誰もが戸惑う中、自然に演技をしたのはオードリーだけ。映像を見たワイラーは、まだ無名のこの女優に賭けることにした。
ローマにやって来たオードリーが撮影の前に訪れた場所がある。ルイゼッラ・フォンタナ。ここは彼女が2代目を務めるローマの老舗ブティック。「実は、オードリーは『ローマの休日』の撮影前から、何度かうちに来ていたの。素敵なウェディングドレスも作っていて、撮影の後に結婚する筈だったんだけど。ええ、イギリスの大金持ちと結婚する筈だったんだけど、直前で取り止めになったのよ」。オードリーはロンドンの舞台に出ていたところを財閥の御曹司に見初められて婚約。撮影後に結婚する予定だったが破棄したのだった。全ては映画のために・・・。「当時私はまだ10歳だったから詳しいことは分かりませんでしたが、家の人たちがガッカリしていたのを覚えています。『あんなにかわいい花嫁姿が見られないなんて』って。でも誰も怒ったりはしなかったんです。だって、彼女、代金は自分でちゃんと払ってくれましたから」。
並々ならぬ覚悟で撮影に臨んだオードリー。実はその現場、途轍(とてつ)もなく過酷な状況だった。(新聞見だし)猛暑襲来!熱中症の被害者続出中!そう、その年のローマは平均気温36℃の記録的猛暑だった。屋内のシーンでも熱中症が続出。俳優陣も大汗を掻(か)いてはメイクのやり直し。だがオードリーだけは違った。「親父が『汗を掻くから水を飲み過ぎないように』って言ったら、彼女、一滴も飲まないんだ。『すっげえな~!これがプロってやつだな』と思ったよ。
猛暑の撮影現場。オードリーにはもう1つ、乗り越えなければならない壁があった。監督のワイラー。彼の渾名(あだな)は---ナインティーテイクマン(90 take-man)。つまり、同じシーンを90回も撮り直すということ。それは決してオーバーではない。こちらのシーン。後(うしろ)の時計台に注目して欲しい。グレゴリー・ペックが話し掛けるカットは、13時40分。だが次のカットでは15時45分。その次のカットは11時25分。最後は15時50分と、てんでバラバラ。2分程度のシーンにワイラーは何と6日間も掛けたと言う。
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監督の異常な完璧主義の前にロケは延びに延び、カメラマンも交代するという異例の事態。だがオードリーは一切弱音を吐かない。この子は何処まで行けるのか?ワイラーは或る悪戯(いたずら)を仕掛けた。それがこの「真実の口」だった。元々、台本には無かったこのシーン。ワイラーは相手役のグレゴリー・ペックにこう指示した。「オードリーには内緒だ。腕を食われた振りをしろ」思わず抱き付く最高のリアクション。「90テイクマン」のワイラーも、ここは一発OKを出したのだった。
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オードリーの本当の覚悟を示すのは髪型ではないと言う。「眉毛(まゆげ)を見てごらんよ。オーディションの時と映画の時では随分違うでしょ?これが全ての鍵なんだよ」確かにオーディションの時は殆ど太さが変わらない真っ直ぐな眉。映画の時は眉頭(まゆがしら)から眉尻に掛けて少しずつ細くなっている。この違いはオードリーの経(た)っての願いで、ジャンネットの父アルベルトが生み出したものだと言う。「彼女は,現場でプロデューサーに,1つだけ我が儘(わがまま)を言った.『メイクは全てアルベルト・デ・ロッシでお願いします』って。自分に必要なのは,親父のメイクだと一目で見抜いたんだよ」そして彼女はこう言った。「『眼よ。眼は心を表すから。眼のメイクが一番大事なの』って」。こうして生まれた新しい眉はGULL WING(カモメの翼)と名付けられた。このカモメの翼が齎(もたら)したものとは---「眉尻が細くなることで眼の外側(眉尻側の眼と眉の間)に余白ができる。その余白にだけアイシャドーを施す。これが効くんだ。これはあの頃流行(はや)っていた。マリリン・モンローとかド派手なメイクとは大違いだ。シャドーをべったり塗り拓(たく)れば、誰だってエロく見える。別にマリリン・モンローじゃなくてもね。でもオードリーは元々、完璧な顔を持っているから、メイクは眼の外側だけでいい。あの大きな眼を際立たせてやれば後は皆イチコロさ」。当時のスターとは違い、決してグラマーとは言えない体型だったオードリー。だが彼女は体型ではなく「眼力(めぢから)」で勝負すると決めた。「私には女らしさを証明するのにベッドルームは要らない。グラマーが自慢のスターが裸で表現することを、私は服を着たままで表現できる」。
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3カ月に亘る撮影の末、映画は無事完成。完成試写会の後、監督のワイラーはこう言った。「彼女を見ていたら、自然と涙が出て来た。面の皮が厚くなったこの私がだ。私には分かっていた。あっという間に世界中が彼女に恋してしまうって。この映画に関わった我々全てがそうだったように」。後の結果はご存じの通り。オードリーは初主演にしてオスカーを獲得した。彼女は一言「でき過ぎです」と述べた。演技をどれだけ絶賛されても謙遜し続けたオードリー。だが記者に「あなたは世界一美しい眼の持ち主だ」と称賛された時には、こう答えた。「いいえ、世界一美しい眼のメイクです。それもみんなアルベルトのお蔭よ」。オードリーがこの映画で得た最大の武器こそ。「眼」だった。 「ローマの休日」以降、次々ヒット作を連発する中、髪型が変わっても衣装が変わっても、この眼のメイクだけは生涯変えなかった。そして、その現場には常にデ・ロッシ一家の姿があった。「俺たち一家にとっては『ローマの休日』こそ一番大事な映画なんだ。あの時オードリーが指名してくれたことが、ハリウッドや他の世界への大きな扉を開いてくれた。もし神様が完璧な女優を作ろうとしたらさ、美しくて頭もいい、そしたらできるのはオードリー・ヘップバーンさ!」と。
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□ 視点2. 監督の娘ジュディ・ワイラー “90テイクマン”ウィリアム・ワイラーの願い
ジュディ・ワイラー。当時十歳、子役として撮影に参加していた。今では映画祭のプロデューサーとして、忙しく働くジュディ。数多くのスターと会って来たが、10歳で出会ったオードリーは別格の存在だ。ジュディ・ワイラー「だって彼女、こんな子どもの私も気遣ってくれたのよ。みんな仕事の事ばっかりに夢中なのに、彼女だけは私の目を見てキチンとお話ししてくれたの」。
彼女は父の背中を見つめる中で、この作品に父が込めた強いメッセージを感じ取っていた。「ローマの休日」は単なる甘いラブストーリーでは無かったのである。当時、全米で吹き荒れていた共産主義者排斥運動(マッカーシズムMcCarthyism)。ジュディ・ワイラー「父はあの頃、ハリウッドにかなり嫌気が差していました。『赤狩り』の所為(せい)で御上の認める映画ばかりになっていましたから。連中の目が届かない外国に出たい!って何時も言ってましたよ」。ジュディ・ワイラー「映画会社の出資が決まると直ぐに父は『赤狩り』で疑いを掛けられた人を何人も雇ってローマに連れて行ったのよ」。例えば、アカデミー賞助演男優賞にもノミネートされたカメラマン役のエディ・アルバートは、妻の共産主義者疑惑で騒がれた人物。ジュディ・ワイラー「最初、父は『新人』ってことに拘(こだわ)っていただけなの。誰も見たことのない人、とにかく映画会社の連中が口出しして来ない新人がいいって。でもそこに、あのオードリー・ヘップバーンが来たのよ。私だけじゃなく皆が見とれちゃった。現場に新鮮な風が吹いて太陽みたいに皆を照らしたの。まさにパーフェクトなマッチングだったわ」。ジュディ・ワイラー「空襲から逃れた人々が祈りを捧(ささ)げた壁。これを見て父の心は動きました。『赤狩り』から逃げることよりもっと大切なことがあるって気づいたの。だから、このシーンを入れた。伝えたかったのは夫々の立場で戦争の記憶を持つ私たちだけど、手を携えて未来へ進もうということ。『せっかく戦争が終わったのだから』ってね」。
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ワイラーの願いが最も色濃く表れているのは、終盤のこの場面だと言う。記者「国と国との友好の見通しについてどうお考えでしょうか?」。オードリー・ヘップバーン「必ずなし得ると信じます。人と人との友情を信じるように」。
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グレゴリー・ペック「恐れながら、自社を代表して申し上げます。妃殿下のご期待は決して裏切られることはないと」。ジュディ・ワイラー「このシーンは、父の一番大事な願いを伝えています。国のレベルの結び付きだって結局は全て人と人との友情によるものだと。どんな状況でも友情だけは失ってはいけないと。でもなかなかいないわよ、その願いをこんな風に表現できる女優は。本当に美しくて完璧な瞬間だと思います」。
オードリーにはその後も名監督から出演依頼が殺到。彼女は瞬く間に世界一のスターとなる。
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1968年、まさにキャリア絶頂の時、彼女は突如映画界から身を退(ひ)いた。果たして、そこにはどんな決意があったのか?
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□ 視点3. 息子ルカ・ドッティ 「引退」の無い生き方
彼女は実に8年もの間、映画出演を断った。だがそれを「引退」と書いたマスコミに、厳しくこう返した。「私は引退などしない.私には引退もカムバックもない」。それは一体どんな意味なのか? 答はローマの日々にある。「いろんな場所で母のことを話すんですけど、皆さん一番驚くのは母が料理をしていたって所なんですよね。『痩(や)せてるから食べないと思ってました』なんて。そんな訳ないでしょ? 実際は母はよく食べる人だったんですよ。パスタなんて3皿くらい食べていたんですから」。
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39歳でローマの医師アンドレア・ドッティと再婚。前の夫との間の子ども(ショーン・ヘプバーン・ファーラー)も引き取った。彼女は結婚後の抱負を問われてシンプルにこう答えた。「私はローマの主婦になる」。かつて自分をスターにしたローマの街に家を構え、映画出演を全て断り続けたオードリー。結婚の翌年にルカ・ドッティが誕生。
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ますます映画界からは遠ざかった。映画にこそ出なかったオードリーだが、身を隠した訳ではない。今回ルカが見せてくれたホームビデオには、ルカを連れて堂々とローマの街を歩く姿が映っている。パパラッチ達の格好の被写体になったが逃げも隠れもしなかった。ルカ・ドッティ「小さい頃は,僕はパパラッチとケンカばかりしていました。でも母は『逃げるより、撮らせちゃった方が早く済むわよ』なんて、実に慣れたものでした。今となってはパパラッチのお蔭で母との写真がたくさんあって、有り難いと思ってますよ」。
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このまま、ずっと主婦を続けるのか? そう世間が感じ始めた1976年、突如、彼女は映画界に復帰する。ジャンネット・ロッシ「『何で今になって復帰するんだ』って言う人もいたけど、実はベストのタイミングを計っていたんだと思うよ」。自分にしかできない使命のために、王宮に戻ったアン王女のように、今の自分にしかできない役柄を演じるべく、再び映画に出演した彼女。復帰後、立て続けに4本の映画に出演する。
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だが、そこで立ち止まる彼女では無かった。
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□ 視点4. 「オードリーとローマの休日 ~秘めた野心 貫いた思い~」
ルカ・ドッティ「驚きましたよ。まさかあんなこと、し始めるなんて」。59歳の時、映画の現場を離れ、向かったのは世界の紛争地帯。1988年、ユニセフの特別大使となったオードリー。スターが大使を務めることはそれまでもあったが、現場に乗り込んだのは彼女が初めてだった。ルカ・ドッティ「母が大使を務めることで、アフリカの発展途上国への援助額は2倍にも増えたんですよ。2倍です」。ルカ・ドッティ「母はとても明快に言っていました。『私の手に負えないことはある。例えば麻薬とか核戦争の危機とか。そういうことに私が一人でできる事は殆ど無い。でもアフリカの問題は違う。私が動けばお金が集まるし、それで解決できる部分も多いから、やり甲斐があるのよ』」。自分の居場所は自分で決める。「ローマの休日」で世界のスターになって以来、ずっとそう生きて来たオードリー。亡くなる4カ月前も銃撃戦が続くソマリアの紛争地帯に向かった。ルカ・ドッティ「流石(さすが)に引き留めようとしたんだ。『母さん、そんな所に行ったらボロボロになっちゃうよ』って。でも、そうしたらこう答えた。『なに言ってるの。貴方が小さい頃は大分、貴方の所為でボロボロにされたわ。そのお返しだと思って、今は私の好きにさせて』って」。
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1993年1月20日、オードリー・ヘップバーン、この世を去る。63歳での死。
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誰もが余りに早過ぎると嘆いた。だが、息子のルカはそうではないと言う。「人生って単なる年月の積み重ねではないと思うんです。息子の僕にとっても世界中のファンの皆さんにとっても、彼女の生涯は決して物足りないものでは無かったと思います。だって、ハリウッドであれだけの名作に出て、子育ても立派にして、そして世界の国々も巡った。その間、一度も立ち止まることは無かった。僕は十分、母から与えられるだけのものを与えてもらったと思うし、ファンの皆さんにも全てを与えて行ったと思います。母ほど充実した人生を送った人は、きっといないんじゃないでしょうか」。
確かに濃密。確かに彼女でしか有り得ない63年の生涯。その中で最も長い日々を過ごしたのが、息子と暮らしたローマだった。ルカ・ドッティ「一番好きなのはラストシーンですね。だって、『どこの街が好き?』って聞かれて、『ローマが最高』って言うから」。アン王女「ローマ。何と言ってもローマです。私はここでの思い出を生涯忘れることはないでしょう」。
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