"芸術の秋"酣(たけなわ)。
前売り券は買ってあるので、鑑賞前のスタディをしている。
前回のゴッホ関連展のリブログ
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東京都美術館 特別展
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(Van Gogh & Japan)
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「ゴッホ展」特設WEBサイト
■ 概要
会期: 2017年10月24日(火)~2018年1月8日(月・祝)
会場: 東京都美術館 (台東区上野公園8-36)
休日: 月曜日、12月31日(日)、1月1日(月・祝)
※ただし、1月8日(月・祝)は開室
時間: 9:30~17:30(入室は閉室の30分前まで)
金曜日、11月1日(水)、11月2日(木)、11月4日(土)は~20:00
主催: 東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)、NHK、NHKプロモーション
後援: 外務省、オランダ王国大使館、協賛: 損保ジャパン日本興亜、協力: KLMオランダ航空、日本航空
共同企画: ファン・ゴッホ美術館
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□ 巡回
「札幌」
会期: 2017年8月26日(土)~10月15日(日) <終了>
会場: 北海道立近代美術館(札幌市中央区北1条西17丁目)
「京都」
会期: 2018年1月20日(土)~3月4日(日)
会場: 京都国立近代美術館(京都市左京区岡崎円勝寺町)
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■ 見どころ
本展では、ファン・ゴッホの油彩画やデッサン約40点、同時代の画家の作品や浮世絵など約50点に加え、
関連資料を通して、ファン・ゴッホと日本の相互関係を探り、その新たな魅力を紹介する。
1. 日本初!ファン・ゴッホ美術館との本格的国際共同プロジェクト
本展覧会は、過去に日本において開催された「ゴッホ展」の中でも初となるオランダのファン・ゴッホ美術館との国際共同プロジェクトで、
日本展終了後、ファン・ゴッホ美術館でも開催される。
「ゴッホと日本」をコンセプトに日本で企画を立ち上げたのは6年前。
その後、ファン・ゴッホ美術館との協議を重ね、2013年から共同企画として、双方の監修者・学芸員が作品選定を行い、一緒に出品交渉を行って来た。
偉大な画家ファン・ゴッホを生んだオランダと、そのファン・ゴッホに大きな影響を与えた日本。
この両国で本展が開催されるのは非常に意義のあることと言えるだろう。
2. 日本美術がファン・ゴッホに与えた影響を様々な角度から検証
ファン・ゴッホは、日本から如何なる影響を受け、如何なるイメージを抱いていたのか。
国内外のコレクションから厳選したファン・ゴッホ作品約40点と、同時代の画家の作品や浮世絵など50点余によって、その実像を多角的に検証する。
3. 日本初公開!ガシェ家に残された3冊の「芳名録」
最初期における日本人のファン・ゴッホ巡礼を、ガシェ家の芳名録に基づいた約80点の豊富な資料によって辿る。
日本を夢想したファン・ゴッホ。ファン・ゴッホに憧憬した日本人。交差する夢の軌跡。
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■ フィンセント・ファン・ゴッホ((Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日~1890年7月29日)の軌跡
1853年、オランダ南部のベルギー国境に近い北ブラバント州ズンデルトで、牧師の長男として生まれた。日本では黒船来航の年に当たる。
開国した日本からは大量の美術品が外国に出て行くことになる。
鎖国中も日本と交易のあったオランダで生まれ育ったファン・ゴッホにとって、日本美術はまったく縁遠いものでもなかったはず。
実際、ファン・ゴッホの伯父ヤンは、海軍軍人としてすでに1860年代に日本に滞在していた。
ヤン伯父の家に下宿していたこともあるファン・ゴッホが日本の美術品を見たり日本について話を聞いたりしていた可能性はある。
しかし、オランダ時代のファン・ゴッホの手紙には日本についての記述は全くといっていいほど見当たらない。
彼が日本と日本美術に強い関心を持つようになったのは、1886年にパリに出て来てからのことだった。
1886年、パリに移り、この地でさまざま刺激を受けながら、自らの絵画表現を模索して行く。
1880年代のパリは、ジャポニスム(日本趣味)の最盛期だった。
ファン・ゴッホがパリに出て来た1886年には『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号が出され、ファン・ゴッホはこの表紙に使われていた英泉の花魁図を拡大模写して《花魁》に描き込んだ。
この日本特集号の中の日本紹介文は林忠正が書いたもので、日本の美しい風景の記述はファン・ゴッホにも、彼の同時代人にも、美しい日本のイメージを強く印象づけたことだろう。
恐らくこの頃から、ファン・ゴッホは日本と日本人を理想化し始めていたと思われる。
そこで大きな役割を果たしたものが、日本の浮世絵だった。
ファン・ゴッホは画商ビングの店で大量の浮世絵を見て、その鮮やかな色彩や作品としての質の高さに魅せられる。
当時まだ安価だった浮世絵を集め、展覧会を開き、模写をし、肖像画の背景にも描き込んだ。
ファン・ゴッホはパリで印象派の影響を受け、オランダ時代の暗い色彩を捨てて明るい印象派風の作品を描くようになっていた。
が、浮世絵と接することでさらに革新的な独自の絵画を生み出すようになる。
後のファン・ゴッホ特有の画風、平坦で鮮やかな色面を使った画風は、浮世絵の研究を通じて生まれて来たもの。
ファン・ゴッホは浮世絵版画を収集し、それを模写した油彩画を描き、構図や色彩を学び取って行く。
さらにファン・ゴッホは、浮世絵をはじめとする美術作品や日本を紹介した文章を咀嚼(そしゃく)しながら、独自の日本イメージを醸成して行く。
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そして彼は、浮世絵の中の鮮やかな色彩世界を求めて、「フランスにおける日本」に当たる南仏へと旅立つことになる。
1888年、芸術家たちの共同体を作ろうと南仏のアルルへ赴いた。
大いなる期待を胸に訪れたこの地を、彼はしばしば日本と重ね合わせている。
パリ時代からアルル時代前半にかけて、浮世絵や日本に関する文献を集めるなど、日本に高い関心を寄せていた。
ファン・ゴッホにとって日本は、創意の源であり、夢にまで見た理想郷だったのだ。
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1890年、ファン・ゴッホはパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズで亡くなる。
そしてその後、今度は日本人がこの画家を賞賛し、理想化するようになった。
ファン・ゴッホが最晩年に交友を持ったオーヴェールの医師ガシェの一族のもとには、3冊の芳名録が残されていた。そこには、1920年代に日本の芸術家や知識人が、憧れの画家の終焉の地オーヴェール=シュル=オワーズを訪れ、その足跡を辿った日本の画家や文学者たち240名あまりの署名が記されている。
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■■ 構成
この展覧会では、ファン・ゴッホと日本との相互の関係に2部構成でスポットを当てる。
ファン・ゴッホと日本の略年表
■ 第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム
ファン・ゴッホは、日本から如何なる影響を受け、如何なるイメージを抱いていたのか。
国内外のコレクションから厳選したファン・ゴッホ作品約40点と、同時代の画家の作品や浮世絵など50点余によって、その実像を多角的に検証する。
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■ 第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼
初期における日本人のファン・ゴッホ巡礼を、ガシェ家の芳名録に基づいた約90点の豊富な資料によって辿る。
日本を夢想したファン・ゴッホ。ファン・ゴッホの死後、その亡骸はオーヴェールの墓地に葬られた。
兄の後を追うように半年後の1891(明治24)年1月にユトレヒトで没したテオの亡骸も1914(大正3)年にその隣に移葬され、以後、兄弟は仲良く永遠の眠りについている。
ファン・ゴッホに憧憬した日本人。
ファン・ゴッホの死から間もない時期に、その作品や生涯を熱心に紹介したのが、小説家の武者小路実篤、画家の斎藤與里や岸田劉生、美術史家の児島喜久雄ら「白樺派」及びその周辺の文学者や美術家たちだった。
熱狂の渦は徐々に広がり、大正から昭和初期にかけて、少なからぬ日本人がファン・ゴッホの生の軌跡を求めてオーヴェールへと赴くことになる。
その最初の足跡は、ファン・ゴッホの死から四半世紀近く経った1914(大正3)年に刻まれることになる(山本鼎、森田恒友)。
ファン・ゴッホの最期を看取り、彼が眠るオーヴェールの地で20点ほどの作品を大切に所蔵していた医師ポール=フェルディナン・ガシェは、すでに1909(明治42)年に没していた。
しかし、生前ほとんど売れなかったファン・ゴッホ作品の多くは没後もガシェの元に残され、同名の息子がそれらを大切に守り伝えていた。
《ガシェ医師の肖像》や《オーヴェールの教会》など代表作を含む20点あまりの貴重なコレクションは、後に8点が国家の所蔵となり、現在はオルセー美術館の至宝となっている。
ただ、当時はパリで見ることのできたファン・ゴッホ作品はわずかであり、彼の作品と足跡に触れることを求めた日本人たちは、オーヴェールをファン・ゴッホ巡礼の地と定めることになる。
ガシェ家には、ファン・ゴッホに強い憧れを抱いていた日本の学者や芸術家たちがガシェ家を訪れ、芳名録3冊に名前を残した。
それらは現在パリの国立ギメ東洋美術館に所蔵されているが、本展の第2部では、これらの芳名録を日本で初めて公開し、1920年代を中心に近代日本の知識人たちによるオーヴェール巡礼の実相を紹介する。
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本展では、日本初公開となるフランスの国立ギメ東洋美術館所蔵の芳名録を軸に、里見勝蔵、佐伯祐三、斎藤茂吉、式場隆三郎ら当時の日本人の視点からも、“時代”と“国境”を越えたファン・ゴッホと日本を巡る夢の変遷を辿る。
□ 芳名録Ⅰ:初編 1922年/17.3 ×14.0 cm/26名署名
1922(大正11)年の訪問者を証言する1冊目の芳名録に最初の記念すべき署名が記されたのは3月9日、それは画家・黒田重太郎によるものだった。
7月には白樺派の児島喜久雄が、9月には画家の中澤弘光や間部時雄ら、美術関係者の訪問が記されている。
中澤と間部は、ともに現地でスケッチも描き、詳しい訪問記を残している。
しかし、日本の画壇への影響という点で重要な役割を果たしたのが、彼らに続いた里見勝蔵だった。
里見は、日本の近代絵画史において色彩表現の可能性を追究した画家のひとり。
20世紀初頭のフランスで展開したフォーヴィスム(野獣派)を代表する画家で、当時オーヴェール在住のモーリス・ド・ヴラマンクに画家・佐伯祐三を引き合わせたことでも知られている。本場フランスのフォーヴの画家たちも大きな影響を受けたファン・ゴッホ作品と直に出会えたことは、色彩表現の革新を推し進めた日本のフォーヴ運動にとっても、重要な意味を持つ出来事だった。
ファン・ゴッホの実作を目の当たりにし、生前のファン・ゴッホを知るガシェの息子ポールから聞く話は、それまで雑誌『白樺』等を通じて得ていた画家像をより具体化させる契機となった。
本展では、中澤がオーヴェールで描いたスケッチや旅日誌、里見と間部の現地での交流関係を示す写真や手紙などの貴重な資料によって、初期のオーヴェール巡礼の様子を紹介する。
□ 芳名録Ⅱ 1922ー28年/23.0 ×23.0 cm/141名署名
最初の日本人訪問が記された1922(大正11)年以降、20年代にオーヴェール巡礼を行う日本人は次第に増加して行く。
2冊目の芳名録では、日本におけるフォーヴ運動をリードした一九三〇年協会から独立美術協会へと至る過程で、その中心的な役割を果たした前記の里見勝蔵のほか、佐伯祐三、前田寛治、小島善太郎ら洋画家の署名がまず目を引く。
その一方で、巡礼を行った者たちには、土田麦僊、小野竹喬ら国画創作協会の中心メンバーとなった日本画家たちもいた。
近代ヨーロッパ絵画の表現を積極的に摂取し、清新な日本画の創造を目指した彼らにとって、セザンヌやファン・ゴッホ、ゴーガンに代表されるポスト印象派の芸術は大きなインスピレーション源となっていた。
油彩画であれ、日本画であれ、その表現手法は異なっても、強烈な色彩表現を見せるファン・ゴッホの作品は、若い日本人画家たちにとっては、近代的な自我に目覚めた芸術家としての規範ともなった。
本展では、佐伯の《オーヴェールの教会》や前田の《ゴッホの墓》など、巡礼から生まれた日本近代絵画の名作のほか、写真や手紙などの豊富な資料、さらには日本画家・橋本関雪がガシェ家訪問を記録撮影した極めて貴重な動画も紹介する。
□ 芳名録Ⅲ:出頭没頭 1929-39年/19.0 ×27.0 cm/94名署名
1929(昭和4)年から10年間に渡る訪問を証言する3冊目の芳名録では、30年代から戦後にかけて日本におけるファン・ゴッホ受容に最も重要な役割を果たした人物の名が登場している。
それは、精神科医にしてファン・ゴッホ研究に生涯を捧げた式場隆三郎。
ファン・ゴッホの精神疾患に関する論文で学位を取得した式場は、数多くの研究書、書簡集の翻訳、複製画による展覧会、版画家・奥山儀八郎の協力による複製版画制作などの活動を通じ、ファン・ゴッホの芸術と生涯を世に広めるのに多大な影響を及ぼした。
同じく精神科医で、ファン・ゴッホを敬愛した歌人・斎藤茂吉の薫陶も受けた式場は、精神科医としての関心の範疇を大きく超えて、研究や紹介にとどまらず、日本におけるファン・ゴッホ神話の形成に重要な役割を果たして行く。
本展では、式場からガシェに贈られた書籍類や手紙、写真などによりガシェ家との交流関係を紹介し、日本におけるファン・ゴッホ受容の一端を紹介する。
クレラー=ミュラー・コレクションへの巡礼
作品だけでなく、次第に伝説化、神話化されてゆくファン・ゴッホの生涯そのものも、新しい芸術の創造を目指し、苦悶する近代日本の芸術家たちの精神的な拠り所となった。
そして、それは美術の世界に止まるものではなかった。
もともとファン・ゴッホに熱狂した白樺派の人々は文学者が中心であり、作品以上にその悲劇的な生涯への関心が強かったことが、日本でのファン・ゴッホ受容に見られる特質となっています。ガシェ家の芳名録では、歌人・斎藤茂吉の署名(1924年11月2日)がその象徴的な存在といえる。
精神科医でもあった茂吉は、医学研究のためヨーロッパに留学しますが、西洋美術、とりわけファン・ゴッホへの関心を深めて行く。
オーヴェールで茂吉はファン・ゴッホをテーマに歌も詠んでいるが、これは、全集未収録の知られていなかった作品。
オーヴェール巡礼に先立つ9月には、当時まとまったコレクションを形成していたオランダのクレラー=ミュラー家のファン・ゴッホ作品を見るため、茂吉はハーグにも足を運んでいる。実業家アントン・クレラーの妻ヘレーネが収集したそのコレクションは、今日、オッテルローのクレラー=ミュラー美術館で公開されているが、1920年代、ハーグにあった会社の本部でファン・ゴッホ以外の作品も含めて公開の機会があった。
1929(昭和4)年に公開された際の芳名録にも、画家の荻須高徳や佐分眞ら日本人の名前が散見され、オーヴェールに加え、もうひとつのファン・ゴッホ巡礼地となっていたことが分かる。
本展では、このクレラー=ミュラー家の芳名録や当時の展示風景写真、展示目録など貴重な資料を紹介する。
交差する夢の軌跡。
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■ 「ゴッホ展」作品リスト
☆日本初公開作品
1 《画家としての自画像》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1887/88年 油彩・カンヴァス ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
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2 《花魁(溪斎英泉による)》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1887年 油彩・綿布 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
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花魁(おいらん)、ガマ、蛙、鶴が別々の版画からとられている。
4-1 《雲龍打掛の花魁》 溪斎英泉 1820~1830年代 木版、紙(縦大判錦絵、縦2枚続) 千葉市美術館蔵
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5-1 《芸者と富士》(部分) 龍明□谷 1870年代 木版、紙(縦大倍判ちりめん絵) 個人蔵
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6 《新板虫尽》 二代歌川芳丸 1883年 木版、紙(縦大判錦絵)ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
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8 《三冊の小説》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1887年 油彩・板 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
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9 《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1887年 油彩・カンヴァス ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
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☆ 21 《雪景色》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・カンヴァス 個人蔵
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「雪の中で雪のように光った空を背景に白い山頂を見せた風景は、まるでもう日本人の画家たちが描いた冬景色のようだった」
26 《アイリスの咲くアルル風景》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
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「黄色や紫の花が満開の野に 囲まれた小さな町。ほんとうに日本の夢のようだよ」
27 《糸杉の見える花咲く果樹園》フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・カンヴァス クレラー=ミュラー美術館蔵
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28 《花咲くアーモンドの木》フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・カンヴァス ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
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29 《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・カンヴァス ポーラ美術館蔵
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49 《種まく人》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
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58 《寝室》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・カンヴァス ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
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「日本人はとても簡素な部屋で生活した。そしてその国には何と偉大な画家たちが生きていたことか」 「陰影は消し去った。浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」
☆ 59 《タラスコンの乗合馬車》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・カンヴァス ヘンリー&ローズ・パールマン財団蔵 (プリンストン大学美術館 長期貸与)
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「タルタラン(ドーデの小説)に出てくる年老いたタラスコンの乗合馬車の嘆きをおぼえているだろうか」
62 《男の肖像》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・カンヴァス クレラー=ミュラー美術館蔵
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☆ 75 《夾竹桃(きょうちくとう)と本のある静物》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・カンヴァス メトロポリタン美術館蔵(ジョン・L.・ローブ夫妻寄贈)
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「夾竹桃、ああ、それは愛を語る…」
78 《オリーヴ園》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1889年 油彩・カンヴァス クレラー=ミュラー美術館蔵
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80 《渓谷(レ・ペイルレ)》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1889年 油彩・カンヴァス クレラー=ミュラー美術館蔵
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「黄色や紫の花が満開の野に 囲まれた小さな町。ほんとうに日本の夢のようだよ」
90 《蝶とけし》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1889年 油彩・カンヴァス ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
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☆ 105 《ポプラ林の中の二人》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年 油彩・カンヴァス シンシナティ美術館蔵(メアリー・E.・ジョンストン遺贈)
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108-2 《ガッシェ医師の肖像》 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年 エッチング・紙 ブリヂストン美術館蔵
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138 《ゴッホの墓》 前田寛治 1923年 油彩・カンヴァス 個人蔵
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144 《オーヴェールの教会》 佐伯祐三 1924年 油彩・カンヴァス 鳥取県立博物館蔵
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