1800年の今日、伊能忠敬が蝦夷地(今の北海道)の測量に出発したんだって。
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■ 4月19日は「地図の日」
1800年4月19日、伊能忠敬が蝦夷地(今の北海道)の測量に出発したことに因んだ。
それは我が国初の正確な領土地図を作成するばかりでなく、
子午線1°の長さを求め、地球の大きさを測る目的があった。
つまり伊能忠敬にとっては、「最初の一歩の日」であったのだ。
■ 伊能忠敬の略歴
1745年1月11日、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は小関三治郎。
1762年12月8日、下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市佐原)の酒造家・伊能三郎右衛門家に婿養子に入り、ミチと婚姻。伊能忠敬となる。
1794年(49歳)に隠居、家督を譲って一念発起。
翌1795年、江戸に出て幕府天文方・高橋至時に暦・天文を学ぶ。
1800年4月19日、蝦夷地の測量に出発する。忠敬は当時55歳で、息子・秀蔵を含む内弟子3人、下男2人を連れての測量となった。
「富岡八幡宮」(深川不動尊、江東区富岡1-20-3)に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り髙橋至時宅で酒を頂いた。
千住で見送りを受け奥州街道を北上しながら測量を始めた。
全国海岸を17年掛けて実測した。測量は71歳になった忠敬も参加し、1816年10月23日まで行われた。
測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業に取り掛かった。
尚、1817年には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れた。
地図の作成作業は、当初は文化14年の終わりには終わらせる予定だったが、忠敬が地図投影法の理論を詳しく知らなかったため、各地域の地図を1枚に合わせる時にうまく繋がらず、その修正に手間取った。
改めて忠敬は新しい投影法について研究しながら、資料を作り続けた。
だが1817年秋頃から喘息が酷くなり病床に就くようになり、翌年になると急に体が衰えるようになった。
そして遂に1818年4月13日、弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えた。
しかし地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた。
1821年、「大日本沿海輿地全図」と名付けられた地図はようやく完成し幕府に上程された。そして9月4日、忠敬の喪が発せられた。
忠敬は、江戸・深川黒江町 (現在の東京都江東区門前仲町1-18)に住居を構えていたため、測量の旅に出かける際は安全祈願に必ず、「富岡八幡宮」に参拝していたことから、近年(2001年)になって銅像が建立されている。
尚、墓所は、浅草に近い「源空寺」(台東区東上野6-19-2)に在り、高橋至時・高橋景保・谷文晁・幡随院長兵衛らとともに眠る。
■ 伊能忠敬に関するブログ
今日は「測量の日」(2016-06-03)
「富岡八幡宮」~「深川不動尊」を訪れる(2012-07-04)
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