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東京ステーションギャラリー「動き出す!絵画 ペール北山の夢」展<スタディ>

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ようやく明日10/25(火)、鑑賞する予定で、

いつものように事前スタディ。

 


「動き出す!絵画 ペール北山の夢 

 ~モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち~」展

 

 

 

 

会期:9月17日(土)~11月6日(日)

会期中一部展示替えあり。休館日は月曜。

 

会場: 東京ステーションギャラリー(千代田区丸の内1-9-1)

 

主催: 東京ステーションギャラリー(公益財団法人東日本鉄道文化財団)、読売新聞社、美術館連絡協議会

協賛: ライオン、大日本印刷、損保ジャパン日本興亜

協力: 和歌山県立近代美術館

 

 

明治末から大正初期、日本ではヨーロッパ美術への関心が高まった。
その興味は、過去50年程に起こったセザンヌ、モネ、ルノワールなどの「印象派」、ゴッホやゴーギャンといった「ポスト印象派」、「未来派」、ピカソといった「キュビスム」などの20世紀アヴァンギャルドまでの動向にまで及んだ。
若き洋画家の中には留学する者もいたが、多くは雑誌の購読や、複製写真や版画による展覧会の鑑賞、洋書の貸し借りなどを通じて情報を得た。
彼らは同時代の西洋美術の情報をもとに、自らの絵画表現を新たな視野で自由に試み、世に問うた。
まさに洋画界が動き、それまで日本になかった新しい作品が次々と誕生した。

 

 

青年画家たちは、発表の場、情報の入手、生活費などの問題を抱えていたが、それを裏方として支え、近代美術の発展に寄与したのが北山清太郎(1888年3月3日 - 1945年2月13日)。
北山は日本におけるアニメーション草創期の重要な3人のうちの1人に挙げられるが、
当初は洋画界にその身をおき、岸田劉生や木村荘八ら、洋画家たちの活動を支援した。


そして、美術雑誌『現代の洋画』を編集・刊行し、同時代の作家の活動や西洋美術の紹介にも積極的に努めた。
また、絵具の販売や写生会の実施、作品の募集による懸賞事業等も行い、洋画の裾野を広げた。
彼の活動に感謝した画家たちは、パリでゴッホら多くの若い画家たちを支えた画材商のペール(親父)・タンギーに準(なぞら)えて "ペール北山" と呼ぶようになった。


本展では、大正期の日本における西洋美術への熱狂と、それに影響を受けながら展開した前衛的な近代日本美術の動向を、北山清太郎という人物を手がかりに紐解く。

 


当時若き洋画家たちが見たいと切望したであろう西洋美術、それに影響を受けて展開した油彩、彫刻など約130点と資料類が展示される。


北山が発行した『現代の洋画』等に掲載された作品、そして北山が関わったヒユウザン会や草土社が行った展覧会の出品作や作家の大正期の代表作、草創期の日本アニメ映像など、
盛り沢山で贅沢な内容。

 

 

□ 第1章 動き出す夢 

~ペール北山と欧州洋画熱

 


明治末頃から、文芸誌『白樺』や書籍を中心に盛んに紹介され始めた西洋の美術。
ここでは、美術雑誌『現代の洋画』、その後継美術雑誌『現代の美術』や美術叢書で取り上げられた作家を中心に、明治末から大正期にかけて紹介された西洋の美術作品を紹介。
新たな洋画を志した若者たちが見たいと切望した絵画がここに集結する。

 


カミーユ・ピサロ 《ポントワーズのレザールの丘》1882年 鹿児島市立美術館蔵

 

ポール・セザンヌ《縞模様の服を着たセザンヌ夫人》 1883-85年 横浜美術館蔵

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《雪原で薪を集める人びと》1884年 吉野石膏株式会社蔵(山形美術館寄託)

 

ポール・ゴーギャン《ポン=タヴェン付近の風景》1888年 ブリヂストン美術館蔵

 

ポール・セザンヌ《宴の準備》 1890年頃 国立国際美術館蔵

 

エドガー・ドガ《踊り子たち、ピンクと緑》1894年 吉野石膏株式会社蔵(山形美術館寄託)

 

カミーユ・ピサロ 《ルーアンのエピスリー通り、朝、雨模様》1898年 公益財団法人吉野石膏美術振興財団蔵(山形美術館寄託)

 

ピエール=オーギュスト・ルノワール《読書する女》1900年頃 公益財団法人東京富士美術館蔵

 

ピエール=オーギュスト・ルノワール《泉による女》 1914年 大原美術館蔵

 

 

 

□ 第2章 動き出す時代 

~新帰朝者たちの活躍と大正の萌芽

 

 

西洋美術の情報を得ようとする流れの中、フランスを中心としたヨーロッパに留学した画家たちが、相次いで帰国する。
留学者たちは現地で目にし、身につけた表現を自らの作品に投影し、かつ西洋美術の紹介者ともなった。
多彩な西洋美術の表現に影響を受けた若い画家たちが、日本的なアカデミズムとは相容れず、新しい美術を生み出そうとする流れ。


 

藤島武二《幸ある朝》 1908年 泉屋博古館蔵

 

山脇信徳 《雨の夕》 1908年 高知市蔵

 

柳敬介《千香像》 1910年 碌山美術館蔵

 

 

橋本邦助《白い雲》 1910年 山種美術館蔵

 

中村彝《麦藁帽子の自画像》 1911年 株式会社中村屋蔵

 


□ 第3章 動き出す絵画 

~ペール北山とフュウザン会、生活社

 

 

1912(明治45)年10月、反アカデミズム的な洋画家たちによりヒユウザン会(のちのフュウザン会)が結成され、第1回展が開催された。
展覧会は2回で終了したものの、いわゆる「後期印象派」風の明るい色彩で荒々しい筆触の前衛的な画風が並び、注目を集めた。
北山はこの画期的な会の事務局を務め、目録や雑誌を発行した。
解散後、高村、岸田らによって生活社が結成された。

 

 

斎藤豊作《秋の色》 1912年 泉屋博古館分館蔵

 

岸田劉生《日比谷の木立》1912年頃 下関市立美術館蔵

 

岸田劉生《 切通しの写生(道路と土手と塀)》 1915年  東京国立近代美術館蔵

 

木村荘八《畑 (雑司ケ谷)》 1913年 横須賀美術館蔵

 

斎藤与里《木陰》 1912年 加須市蔵

 

高村光太郎《上高地風景》1913年 

 

高村光太郎《佐藤春夫像》1914年

 

萬鉄五郎《女の顔(ボアの女)》 1912年 岩手県立美術館蔵

 

萬鉄五郎 《雲のある自画像》1912-1913年    岩手県立美術館蔵

 

萬鉄五郎《日傘の裸婦》 1913年 神奈川県立近代美術館蔵

 

石井柏亭《伊東の岩》1913年

 

田中恭吉《池袋にて》1914年、和歌山県立近代美術館蔵

 

小林徳三郎《アトリエの集い(ストーブ)》制作年不詳、ふくやま美術館蔵

 

 


□ 第4章 動き出した先に 

~巽画会から草土社へ

 

 

北山は、1914年7月に『現代の洋画』を終刊、翌月から『現代の美術』を刊行した。
9月に日本画家中心の巽画会に設けられた洋画部の幹事として洋画部の主宰となり、機関誌の編集も手掛け、岸田や木村は審査員を務めた。
翌年10月に現代の美術社主催による展覧会が開催され、これが草土社へと発展的に継承されたが、北山が会に関わったのは翌年4月の2回展まで。
ここでは、草土社の画家たち、岸田や木村、椿などの作品。

 

 

美術雑誌『現代の洋画』第2号 1912年 和歌山県立近代美術館蔵

 

岸田劉生《黒き帽子の自画像》 1914年 個人蔵

 

木村荘八《壺を持つ女》1915年 愛知県美術館蔵

 

 

 

□ エピローグ 動き出す絵 

~北山清太郎と日本アニメーションの誕生

 

 

北山は美術界を離れ、映画の世界へと踏み出した。1916年8月には、日活に嘱託として入社。その目的は絵を動かすこと、つまりはアニメーションを制作することだった。
『美術雑誌』9月号の発刊後、北山は美術界から完全に退き、それまで日本人が制作したことがなかったアニメーションの制作に没頭。1917年、ようやく最初の作品が完成し、日本人第一号とはならなかったものの、同じ年に最初に国産アニメーションを発表した日本人の一人となった。北山の作品や大正初期の国産アニメーションを紹介。

1917年1月に日活向島撮影所へ入る。北山は日活にて日本初の漫画映画(アニメーション映画)づくりに取り組み、当時、東京市麹町区麹町平河町(現在の東京都千代田区平河町)の自宅で作画し、日活向島撮影所で撮影する、という体制をとった。第1作は『猿と蟹』で、1917年(大正6年)5月20日に劇場公開された。
1921年(大正10年)、日活を退社し、北山映画製作所を設立する。

 

 

自宅にてアニメ原画制作中の北山清太郎 1919年頃

 

岸田劉生 《童女図(麗子立像)》1923年 神奈川県立近代美術館蔵

 

 

 


 


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