■ 8月29日は「焼肉の日」
「や(8)きに(2)く(9)」の語呂合わせから、この頃に夏バテ気味の人たちに焼き肉を食べてスタミナを付けてもらうことを目的として、「事業協同組合 全国焼肉協会」(中央区日本橋茅場町2-5-6 日本橋大江戸ビル4F) が1993年に制定した。
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□ お題「よく焼く派?ちょっと生派?」
ちょっと生派、ミディアムレアが好き。
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□ 日本人の食肉文化史・・・この項では獣肉のみを扱う。
出典はWikipedia・他。
▽ 縄文・弥生時代
日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得た鹿・猪を中心として兎・猿・熊など、60種以上の哺乳動物が食べられていた。
▽ 古墳時代(ヤマト王権時代)
牛・馬は、肉や内臓が食用あるいは薬用に使われ、猪豚は飼育も行われた。
しかし、朝鮮・百済國からの仏教公伝(538年)以降は、獣肉全般が敬遠されるようになって行った。
▽ 飛鳥時代
『日本書紀』(720年に完成)によると675年、天武天皇は仏教の立場から檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じた。また、農耕期間でもある4~9月の間、牛・馬・犬・猿・鶏を食することが禁止された。但し、一般的な食習慣の鹿・猪は禁じられなかった。
▽ 奈良時代
『続日本紀』(797年に完成)によると732年、聖武天皇が家畜の猪40頭を買い取って山に逃がしたこと、獣肉の代わりに鶏肉が供されるようになったことが記述されている。一方、貴族の間で牛乳・乳製品の摂取が盛んになった。奈良時代の肉食禁止令には、家畜を主に食していた渡来系の官吏や貴族を牽制し、家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えがあった。庶民には仏教がまだまだ浸透せず禁令の意味も理解されずに肉食は続けられた。
▽ 平安時代
『延喜式』(927年に完成) では、「穢悪(あいあく/えあく/えお)」のひとつとして死や出産と並んで六畜の肉食が挙げられており、「陰陽道」が盛んになったこともあって、獣肉食の禁忌は強まり代わって鳥・魚肉が食されるようになった。
一方では『和名類聚抄』(938年に完成)では、猪・ウサギ・豚などが相変わらず食されたことも記述されている。鹿醢(しししおびしお)・兎醢(とかい) など獣肉の醤油漬けや、宍醤(ししびしお)という獣肉の塩漬けを発酵させた調味料が摂られるようになった。
『今昔物語集』(1120年以降) には庶民が猪肉を買いに行く場面が登場しており、完全に食肉の習慣が無くなった訳ではなかった。
▽ 鎌倉時代
武士が台頭し、再び獣肉に対する禁忌が薄まった。武士は狩で得た鳥獣 (兎・猪・鹿・熊・狸など) を食べた。
鎌倉時代の当初は公卿は禁忌を続けていたものの、時代が下ると公卿も密かに獣肉を食べるようになった。
乳製品は以後明治時代までほぼ食べられなくなった。なぜなら、昔の和牛は体も小さく乳は子牛に飲ませるのに精一杯だったし、「牛の乳を飲むと牛になる」という迷信も一役買っていたのかもしれない。
神社(神道)の物忌み期間中の獣食は厳しくなり、平安時代には禁止されていなかった鹿・猪肉までもが禁令に含まれた。
仏教の当時は「末法思想」が流行し鎌倉新仏教が勃興しつつあった。法然は肉食をしても念仏を唱えれば救われると説いた。親鸞は肉食妻帯説で知られる。日蓮は末法無戒を唱えた。
一方、禅宗の方は、動物性の材料を一切用いない精進料理も発達し、単なる植物食ではなく猪羹(ちょかん) など獣食に見立てた料理もあった。
▽ 南北朝・室町時代
『異制庭訓往来』(1683年に出版) には、珍味として熊掌・狸沢渡・猿木取などの獣掌(手のひら) や、豕焼皮(脂肪付きの猪の皮)焼きなどが記述されている。
『尺素往来』(1412~1428年に完成) には、武士が猪・鹿・氈鹿(羚羊、カモシカ)・熊・兎・狸。獺(カワウソ)などを食べていたことが記述されている。
『嘉元記』(1350年に完成)には、僧侶も密かに肉食するようになり、特にウサギは鳥と同様の扱いになって、1361年の饗宴記録に兎肉について記述されている。
狸汁が登場する「かちかち山」(室町時代末期の1573年近辺に完成) の時代の料理書『大草家料理書』にはタヌキを蒸し焼きにした後に鍋で煮る「狢汁(むじなじる)」のレシピが記されている。
▽ 戦国・安土桃山時代
戦国時代になると、南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化し新大陸(南北アメリカ大陸)の食材ももたらされている。
ジャン・クラッセの『日本西教史』には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と記述されている。宣教師ルイス・フロイスの『日欧文化比較』には「ヨーロッパ人は牝鶏・鶉・パイ・プラモンジュなどを好み、日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」 「ヨーロッパ人は犬は食べないで牛を食べる。日本人は牛を食べず犬を食べる」と記述されている。宣教師フランシスコ・ザビエルは日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかったが、その後の宣教師は信者にも牛肉を勧めている。
『細川家御家譜』には、キリシタン大名の高山右近が小田原征伐の際、蒲生氏郷や細川忠興に牛肉料理を振る舞ったことが記述されている。戦国末期からは阿波などで商業捕鯨が始まっている。阿波の三好氏の館跡地では、牛・馬・豚・鶏・鯨・犬・猫などの骨が数多く出土しており、食用だけでなく鷹の餌や愛玩用として家畜が飼われ肉が市場に流通していたと考えられている。
但し、京などでは牛馬の肉を食べることは当然の禁忌であり獣肉が一般的に食されていたとは言えず、例えば秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた際の献立にも入れられていない。1587年、秀吉は宣教師ガスパール・コエリョに対して「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」と詰問している。
▽ 江戸時代
江戸時代には建前としては獣肉食の禁忌が守られ、上流階級はこの禁忌を守った。例えば狸汁は戦国時代には狸を使っていたが、江戸時代には蒟蒻(こんにゃく)・牛蒡(ごぼう)・大根・豆腐を調理した精進料理に変わっている。但し、薩摩は琉球料理の影響もあって、現代の薩摩汁や豚骨料理に繋がる豚を含めた獣肉食の習慣があった。『料理物語』(1643年に刊行) には、鹿・狸・猪・兎・川獺・熊・犬を具とした汁料理が紹介されており、『料理食道記』(1669年に刊行) にも獣肉料理が登場する。
一方で獣肉食の禁忌のピークは、「生類憐れみの令」(1685~1709年) などが施行された17世紀後半の元禄時代。この法令自体は徳川綱吉の治世に限られ影響も一時のもので終った。但し、犬を保護した影響は後世まで残り、中国や朝鮮半島で犬肉が一般的な食材になっている一方で、日本では現代に至るまで犬肉は一般的な食材と看做されなくなった。
『和漢三才図会』(1712年に成立) には豚が長崎や江戸で飼育されていることが記述されている。1718年には獣肉料理専門店の「豊田屋」が江戸・両国で開業している。
将軍・徳川吉宗は乳牛の輸入を行った。当時の日本には通常の食品としては忌避されるものを薬として服用する習慣があり、牛乳もそういった位置づけであった。水戸藩主の徳川斉昭は庭に乳牛を飼い健康のため牛乳を飲んでいた。
彦根藩は赤斑牛の味噌漬けを将軍と御三家に献上しているが、彦根藩は幕府に太鼓を献上しており太鼓に使う牛革を確保するため牛の畜産を営み屠殺を許可されていた。
熊沢蕃山は『集義外書』(1709年に刊行) の中で、牛肉を食べてはいけないのは神を穢すからではなく農耕に支障が出るから、鹿が駄目なのはこれを許せば牛に及ぶから---との見解を示した。本居宣長も『古事記伝』(1798年に完成) の中で、古代の日本人が肉食をしていたことに言及し、江戸中期になると蘭方医学も獣肉食に影響した。
「名所江戸百景」に描かれた江戸の比丘尼橋(現・八重洲)付近にあった猪肉店では、小山田与清の『松屋筆記』(1818~1845年の世相) によれば、猪肉を山鯨、鹿肉を紅葉、熊・狼・狸・鼬(いたち)・栗鼠(きねずみ/りす)・猿などの肉が売られたことが記述されている。
佐藤信淵の『経済要録』(1827年に刊行) に「豚は近来、世上に頗る多し。薩州侯の邸中に養ふ、その白毛豚は殊に上品なり」と書かれているように豚の飼育も行われていた。
カレーライスは福沢諭吉が『増訂華英通語』(1860年)に日本で初めて「「加兀」(コルリ/カレー) という料理を紹介したことにより、インド料理を元にしたイギリスから伝わり日本で独自に変化・発展した。
▽ 明治時代
牛肉を食べることが「文明開化」の象徴と考えられ、牛肉を使った鋤焼きが流行し、当時の牛鍋屋は仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(1872年刊行) の舞台ともなっている。
横浜関内の牛鍋屋
明治新政府は発足当初から肉食奨励のキャンペーンを大々的に展開して、1869年に築地に半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し畜肉の販売を開始し、1870年に福沢諭吉が執筆したパンフレット『肉食之説』を刊行している。
1872年には明治天皇が初めて牛肉を食したといい、「廃仏毀釈」により僧侶を破戒させるための太政官布告で「肉食妻帯勝手なるべし」とされた。獣肉食を穢れとする考えは強く、天皇が食した後に御岳行者10名が皇居に乱入し、うち射殺4名/重傷1名/逮捕5名の事件が発生した。1880年の『郵便報知新聞』は牛肉食で耕牛が減少したため食糧生産が大幅に減少したと報じている。
1884年、海軍省医務局長の高木兼寛は、当時大きな問題であった脚気の原因が蛋白質の不足にあると考え、脚気対策として海軍の兵食を西洋式に改めることを上申した。しかし、兵員の多くがパンと肉を嫌って食べなかったため、海軍では1885年から麦飯も支給されることとなった。日露戦争(1904~05年)当時は白米飯から麦飯に切り替わり、戦場食糧として牛肉の大和煮缶詰や乾燥牛肉が考案され軍隊で牛肉の味を覚えた庶民が増えた。日本内地では戦争のため牛肉が不足し豚肉が脚光を浴びることになった。
陸軍公式レシピ集『軍隊料理法』(1910年制定) には、肉をメインとする洋食レシピとしてカツレツ・ビーフステーキ・ハッシビーフ、ロールキャベツ・カレーライス・スチウ、オムレツ・牛肉サンドウイッチなどが掲載されている。政府は外交上あるいは外国人との交際上の理由から洋食を奨励した。例えば海軍は「上野精養軒」で食事をすることを奨励した。1877年までには宮中の正式料理は西洋料理となった。
この頃には東京の牛肉屋は558軒にまでなっており、明治中期になると家庭でも西洋料理が作られるようになった。『婦女雑誌』(1903年) には米津風月堂主人による「牛肉の蒲鉾」などの料理が掲載され、ジャーナリストの村井弦斎は報知新聞に料理小説『食道樂』(1903年) を連載し西洋料理の紹介もして大ベストセラーになった。
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以上は、重々しい話題だったので、今度はいつもの語源の話に移ろう。
■ 「肉」の語源
□ 中国語
肉 ròu ロー
块 kuài クァイ・・・肉塊
片 piàn ピィェン・・・肉片
丝 sī シー・・・糸状
□ 日本語
肉 ・・・" 肉と筋" の象形文字
肉 音読み niku ニク / jiku ジク
肉 / 宍 (猪・鹿などの肉の俗字) 訓読み shishi しし