夏目漱石のエッセイを読みました。
■ 夏目漱石の随筆「硝子戸の中(うち)」
小説『こゝろ』(1914年4~8月) と 小説『道草』(1915年6~9月) の間に書かれた最後の随筆。
初出: 『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に連載・・・1915年1月13日~2月23日(39回)。単行本: 岩波書店1915年4月刊行。文庫本: 新潮文庫1952年7月刊。
□ あらすじ
「漱石山房」(1907~16年の死没までの最期の9年間を過ごした牛込区早稲田南町7番地) の硝子戸の中から下界を見渡しても、霜除けをした芭蕉だの赤い実の結った梅もどきの枝だの直立した電信柱だのの他、これといって数え立てる程のものは殆ど視野に入って来ない。
然し私の頭は時々動く。気分も多少は変わる。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。
それから、小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来る。
それがまた私に取っては思い掛けない人で、私の思い掛けない事を云ったり為(し)たりする。私は興味に充(み)ちた眼をもってそれ等の人を迎えたり送ったりした事さえある。
そんなものを少し書き綴ってみようかと思うが、そうした種類の文字が忙しい人の眼に、どれ程つまらなく映るだろうかと懸念したりもしている。
まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思い出したように九花蘭(きゅうからん)の葉を揺(うご)かしに来る。猫がどこかで痛く噛まれた米噛(こめかみ)を日に曝(さら)して暖かそうに眠っている。先刻まで庭で護謨(ゴム)風船を揚げて騒いでいた小供達は皆連れ立って活動写真へ行ってしまった。
家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って静かな春の光に包まれながら恍惚(うっとり)とこの稿を書き終る。そうした後で、私はちょっと肱(ひじ)を曲げてこの縁側に一眠り眠るつもりである。
1914年末、「厭世観」に囚われて自らの〈死〉について考えていた漱石の気分は鬱屈としていた。
年が明けてからも状況が変わることはなく、彼は不安で不透明で不愉快に充ちている〈生〉を厭(いと)い、自らに半信半疑しながら『硝子戸の中』を構想 ・ 起稿した。
それら心的な閉塞感は、これまでに見て来たような多様な語りの過程で次第に拭われて行った。
宿痾(しゅくあ、持病) の胃潰瘍に悩みつつ次々と名作を世に送り出していた漱石が、終日書斎の硝子戸の中に坐し、頭の動くまま気分の変わるまま、静かに人生と社会を語った随想集。著者の哲学と人格が深く織り込まれている。
*
□ 作者の死生観 (私の感想)
硝子戸を隔てた内と外 ⇒ 生と死の暗喩的表現。
死は生より尊い ⇒ 死に直面した今、美しいものや気高いものを一義において人間を評価したい。
雲の上から見下して笑いたくなった ⇒ 作者の自我が開け放たれた瞬間の訪れ。
私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)とこの稿を書き終るのである。そうした後で、私はちょっと肱(ひじ)を曲げて、この縁側に一眠り眠る積(つもり)である。⇒ 私は間もなく静かに永眠するだろう。
◇-------------------------------------------------------------
■ 昨日7/4(月)の夕暮れ
19:03 (日没の2分後)
西南西
西
*
□ 月齢5.0
19:35 (南中の3時間33分後)
西南西 ↓