■ 6月2日は「おむつの日」
「オ(0)ム(6)ツ(2)」と読む語呂合わせから、「エリエール」ブランドの「紙おむつ GOO.N(グ~ン)」を製造・販売する「大王製紙(株)」(東京本社:千代田区富士見2-10-2、四国本社:愛媛県四国中央市三島紙屋町2-60) が制定した。赤ちゃんの幸せで健やかな成長について考えてもらうことが目的。
尚、6月11日は「布おむつの日」・・・昔から「布おむつ」のことを「襁褓(むつき)」と呼んでいたことに因んで6(むっつ)月」で、しかも「11(いい)日」と読む語呂合わせから、布おむつのレンタルシステムで知られる「関西ダイアパーリース協同組合」(神戸市中央区磯上通4-1-32 ロイヤル磯上502) が制定した。赤ちゃんの肌にもお年寄りの肌にも優しく、地球環境にも優しい布おむつの良さを広く知ってもらうことが目的。
□「おむつ」の語源
襁褓(きょうほう、むつき)
①産着(うぶぎ)のこと。「褓」体を包(くる)む布 + 「襁」それを縛る紐(しばるひも)の合成語。
②御湿(おしめ)のこと、湿布(しめし)の略。御襁(おむつ)とも言う。
赤ちゃん(乳幼児)、高齢者・障害者・入院患者など排尿や排便に難がある者、失禁・過敏性腸症候群・夜尿症などの患者、宇宙飛行士、犬・猫などのペットに使う。
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□「布おむつ」の歴史
平安時代、紫式部・著「源氏物語 一帖『桐壷』」(初出1008年)に、光の君(光源氏)が誕生し繦緥(むつき)に包まれていたという記述がある。
江戸時代、「布おむつ」が使われ始めた。
1910年代、綿の古着やさらし綿で作られた輪形・長方形の「布おむつ」が利用された。
1958年頃、「布おむつ」のレンタル事業が開始された。
1978年頃、老人介護施設や病院で大人用「布おむつ」が普及して行った。
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□「紙おむつ」の歴史
1940年代半ば、スウェーデンで紙おむつが誕生し、ヨーロッパ中に広がり、やがて北米へと渡って行った。
日本では---
太平洋戦争直後に、米軍進駐軍家庭のために「紙おむつ」が発売された。
1962年、乳幼児用ライナーが発売された。
1963年、不織布や防水紙が採用された今日の「紙おむつ」の構造と機能を持った本格的紙おむつが発売された。
1977年、米国から乳幼児用使い捨ての「紙おむつ」が輸入・発売された。
1984年、「紙おむつ」の性能を飛躍的に向上させる、高分子吸水材が採用された画期的な新製品が登場した。
1980年代半ば以降、ユニ・チャームはアジアでの「紙おむつ」の生産・販売を推進し、--- 84台湾87タイ95中国97インドネシア08インド、消費量が急増して行った。
1990年代、新しくパンツ型が登場した。
2000年頃、介護保険制度の発足や介護施設の人手不足などから大人用「紙おむつ」の利用が進んだ。
2013年の中国「一人っ子政策緩和」の頃から、メリーズを主とした日本製「紙おむつ」人気が高まり、中国での転売目的も含めた "爆買い" が発生した。
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□ お題「今でも覚えている一番幼い頃の思い出は?」
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【私の幼い頃の思い出】
私が幼かった頃 (1953年=5才~1958年=10才) は、勿論、おむつは全て布製。
しかもベビーブーム時代だったので、物干し竿には数多くの布おむつが並んで翻(ひるがえ)っていた。
私のおむつ離れも母乳離れも遅く、小学校入学直前にズレ込んでいたようだ。
専業農家が圧倒する(我が家は国鉄職員家庭)、生まれ育った集落には保育所も幼稚園も無かったので、
小学校の運動場や集落のあちらこちらに、年がら年中、腹を空かせた我々餓鬼(ガキ)の "烏合(うごう)の衆" で溢れ返っていた、
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昨日6/2(木)の気温は上昇していた(最低17.6⇒最高28.1℃)が風は涼しかった(最大風速:南南東7.6m/s)。
自宅ベランダから
夜明けの南の空
20220602--04:34 (日の出の9分後)
20220602--05:48
午前中、「日比谷公園」を訪れたところユリがチラホラ開花していた。
清洲橋通り⇔江戸通り⇔永代通り⇔日比谷通りを往復サイクリング。
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■「区立日比谷公園」 (千代田区日比谷公園1)
□ 歴史
安土桃山時代以前には、日比谷入江と呼ばれる海域。神田山の開削で得られた土砂などを使って埋め立てられた。
江戸時代は、江戸城日比谷御門の直ぐ外に位置し、大藩の上屋敷が置かれた・・・萩藩毛利家/佐賀藩鍋島家/三草藩丹羽家/吹上藩有馬家/福知山藩朽木家/盛岡藩南部家/唐津藩小笠原家/狭山藩北条家。
明治維新になると、大名屋敷が廃されて更地となり日比谷ヶ原と呼ばれた。1871年には陸軍操練所が設置され、1885年には日比谷練兵場と改称された。
1893年に東京市が軍から払下げを受け、跡地は正式に日比谷公園と命名され、1902年4月に着工、翌年6に仮開園を迎えた。洋風喫茶店松本楼、和風喫茶店三橋亭(後のパークセンター)、結婚式場高柳亭(現・日比谷パレス)、洋風レストラン麒麟亭(現・レストランなんぶ)、植木屋などが出店した。
1905年、野外音楽堂(現在の野外小音楽堂)が、1923年に野外大音楽堂が完成した。
開園後には、日露戦争祝賀会、西園寺公望/山本五十六など政府・軍要人の国葬、大隈重信の国民葬の開催場所として活用された一方で、
大正デモクラシーの中、東京市電賃上げ反対運動/普通選挙運動/シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点ともなった。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に対する日比谷焼打事件など暴動に発展する事件も多々起こった。
1923年の関東大震災では、小音楽堂が倒壊、松本楼が焼失した。運動場には被災民が仮設住宅144軒に身を寄せ、被災者遺体の仮埋葬も行われた。
太平洋戦争下の1942年には、軍用地となって真鍮製の外柵は金属供出に出され、松本楼は海軍省将校宿舎として利用された。食糧難のため花壇ではジャガイモが栽培された。
戦後は、日比谷第一生命ビルの近くで軍用地でもあった日比谷公園は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の接収を受け「Doolittle Field(ドーリットル・フィールド)」と名づけられ、松本楼は米軍宿舎として利用された。
1950年に東京都知事・安井誠一郎の要請により帝国ホテル内の植木屋芳梅園が日比谷公園に出店し、日比谷花壇となった。
1954年に大音楽堂、1957年に日比谷図書館が再建された。
1961年に大噴水が完成した。
1971年に沖縄返還運動により松本楼が全焼し、1973年に再建された。
1983年には大・小音楽堂が建替えられた。
2011年に東京都から千代田区へ移管された日比谷図書館が「日比谷図書文化館」として開館した。
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□ 園内マップ
下の写真
背景の左手は---
国会前通りに沿って、手前に「日比谷公会堂」(日比谷公園1-3)、対面に「富国生命ビル」(千代田区内幸町2-2-2)、「日比谷シティ」(内幸町2-2-3)、「日本ブレスセンター」(内幸町2-2-1)、「日比谷中日ビル」(内幸町2-1-4)、「イイノホール&カンファレンスセンター」(内幸町2-1-1)。
背景の右手は---
祝田通りに沿って、背景は「環境省/厚生労働省」(千代田区霞が関1-2-2)、「弁護士会館」(霞が関1-1-3)、「東京簡易/家庭裁判所、公正取引委員会」(霞が関1-1-2)、「法務省」(霞が関1-1-1)。
手前は---
内堀通りの車の流れ。
皇居日比谷濠。
□ 有楽門(日比谷交差点側)から入った。
□ 第一花壇
背景は「環境省/厚生労働省」「弁護士会館」「東京簡易/家庭裁判所、公正取引委員会」「法務省」。
アカンサス(別名ハアザミ)
ヤブカンゾウ(別名ワスレナグサ/カンゾウナ)
□ ツツジ山周辺
タイサンボク(別名ハクレンボク)
ガクアジサイ
カシワバアシサイ
アメリカノリノキ(別名アナベル)
□ 草地広場
早咲き品種3種
ユリ(L0ハイブリッド マニフィーク)
ユリ(L0ハイブリッド マニフィーク)、 アカンサス(別名ハアザミ)
ユリ(LAハイブリッド クーリエ)
□ 第二花壇
カンナ、スカシユリ(別名イワトユリ)?
□ 雲形池
コシアキトンボ
ザクロ
女子高生が記念撮影
□ 幸門(内幸町交差点側)から出た。
街路樹のフェイジョア