■ 5月26日は「東名高速道路開通記念日」
1969年5月26日、大井松田IC (神奈川県足柄上郡大井町) ~ 御殿場IC (静岡県御殿場市) が開通し、東京から小牧まで346kmに及ぶ東名高速道路が全線開通した。
4年前の1965年に開通した名神高速道路と小牧IC (愛知県小牧市) で接続し、東京と西宮の536kmが結ばれ日本の大動脈となった。
*
■ お題「ドライブするならどこに行きたい?」
▼本日限定!ブログスタンプ
大学4年(1970年)の初夏に運転免許を取得し、直ぐにスバルを買ってもらってから、私のドライブ旅行歴が始まった。
だが、近年はマイカーを手放して埼玉から浅草に引っ越し(2007年)、レンタカーの運転もやらなくなり(2009年)、妻が先行して運転免許を自主返納し(2016年)、遂に私も自主返納を済ませ(2019年)、私の運転歴は39年で免許歴は49年で終了した。
もし今でも免許と車を保有していたとするなら、先ず金沢への帰省、そして京都・奈良、できれば兵庫・岡山までの旅行かな。
□ 思い出深いドライブ旅行 (★印は特に) を挙げてみよう。
▽ 初めての長距離・・・1966年
★
大学浪人時代に中学校時代の親友(関西の私立K大生) が父上の日野コンテッサを駆ってドライブ旅行(K大野球部の友人宅を泊まって行く) をするからと誘われた。
金沢⇒琵琶湖⇒大阪府吹田市⇒姫路城⇒岡山県宇野港⇒(フェリー)⇒香川県高松港⇒栗林公園⇒坂出市⇒愛媛県松山港⇒(フェリー)⇒山口県徳山港⇒秋吉台⇒島根県宍道湖⇒兵庫県丹波篠山⇒金沢。
▽ スバルR2SS(優れもの)の時代・・・1970~73年
1970年の夏・・・免許を取って直ぐに名神・東名の初体験、金沢⇒米原⇒東京⇒京都⇒金沢。
★
1971年の春・・・社会人初のGWに、横浜⇒東京⇒千葉。横浜への帰途(京葉道路)で大事故。
1971~73年の各夏・・・独身期の夏休み帰省(積雪の冬は帰らなかった)ルートは、横浜⇒京都⇒琵琶湖西⇒敦賀⇒金沢⇒米原⇒横浜。
▽ マツダ・ニューファミリアBD(ハッチバック)の時代・・・1980~90年
1980~88年の各夏・・・埼玉移転後の家族の夏休み帰省ルートは2つ。
南回りルート(東名⇔名神⇔北陸の700km)・・・埼玉⇔東京⇔米原⇔福井⇔金沢。
北回りルート(関越⇔北陸の600km)・・・埼玉⇔長岡⇔富山⇔金沢。
主には渋滞が少ない北回りルートを選んだが、子どもたちが数えると埼玉から金沢までのトンネルは25カ所もあり運転手にとっては渋滞と異なる疲労感があった。
★
一方、箱根から伊豆・狩野川へと会社保養所をハシゴした86年夏のこと。子供たちが早く海に入りたいとせがむので、一時休憩した海岸が沼津市東郷。富士山が見え遠浅の砂浜でしかも貝(ハマグリ・アサリ)がぞくぞく採れた。穴場!!と思っていたら終いに天皇家御用邸の裏に当たるスポットだった。保養所で味噌汁にして頂いた。
▽ トヨタ・カムリV20の時代・・・1990~2000年
1990~2000年の各夏・・・この頃の前半には関越と北陸が所々片肺(対向)ながら直結し、後半には東京外環が順次開通したので、夏休み帰省ルートは北回りルート(東北⇔外環⇔関越⇔上信越⇔北陸の500km)に固定され、疲労感は和らいだ・・・埼玉⇔美女木⇔藤岡⇔更埴⇔上越⇔金沢。カムリは比較的車長が長いので走りそうに見えるが登坂力に劣るため、しばしば登坂車線のお世話になった。
★
90年11月、我々家族5人は、田舎の祖父母に久しぶりに会える楽しみを胸に関越高速道を走り始めた。これまでは、東名道~名神道~北陸道と南回りに走り継ぐ帰省ルート(約700kmの走行距離)を採っていたが、遂に関越道と北陸道とが所々片肺(対向)ながら直結したのを機に、初めての北回りへとルート転換(530kmに短縮し、かつ混まない)を試みた。下の娘は小学校に入学したばかりで、毎晩、枕元に置いて「おやすみなさい。」をする縫い包み2匹がお供だ。埼玉の自宅を出て1時間後ほどにいよいよ計画通り花園インターから北回りの高速入りだ。赤城高原サービスエリアが近づくと、子供たちが尿意を催したので第1回目の休憩にしようということになった。小用を済ませお土産を覗いて、さあ出発だという矢先、突然、娘が「忘れた!!」と叫んだ。トイレにママが作ってくれた布袋に入った縫い包み達を、置き忘れてしまったのだ。ママとお姉ちゃんと一緒にトイレに戻ったが、そして、他のトイレも皆んな隈なく何度も探しても、私が掃除の小母さんと事務所に尋ねても届けは全く無し。この間15分間位の事件だった。私が浅草で買って来たニャンコの「ミーちゃん」。大阪城公園で開催されたニューメディア・フェア視察の出張の折り、土産で買ったワン公の「ポテちゃん」。2匹の名付け親は勿論、下の娘だった。心無いヒトが世の中にはいるものだ。彼女は、長岡を回って日本海が見える頃まで車窓に顔をくっつけたまま泣き続けていた。
99年の夏・・・マイカーで初めて神戸までドライブ旅行したが、晩年?のカムリは六甲を下りたところで発煙故障。
▽ トヨタ・マークⅡグランデの時代・・・2000~2007年
★
2001年の夏・・・夫婦二人だけの定年(1回目)旅行の一環として、浅草⇒小名浜⇒いわき⇒松島⇒石巻⇒仙台⇒浅草。思い出多き北茨城・東福島・南宮城の旅行となった。ご当地はそれから10年後に悲惨な「東日本大震災」に襲われてしまった。
2002~2006年の各夏・・・カムリの時代と同じく、夏休み帰省ルートは北回りルート・・・埼玉⇔美女木⇔藤岡⇔更埴⇔上越⇔金沢。
2002年の夏・・・帰省中に金沢駅から程近い大野港の宝生寿司を食べに出掛け、妻の制止を聞かずに内灘海岸へ波打ち際までダッシュで乗り入れた後の帰途に徐々に砂浜に沈んで行った(マークⅡの重量は1トン)が、波打ち際で遊んでいたサーファーさんに4駆(4WD)で牽引してもらったのは本当にラッキーだった。
2006年の夏・・・偶には--と、中央⇒長野⇒飛騨⇒富山南砺の近道ルートを選んだところ、神岡のスーパーカミオカンデの周辺で迷子になった。
◇---------------------------------------------------------
昨日5/26(木)の午前中は、「清澄庭園」「清澄公園」を散策した。3/30(水)以来の約2カ月振りの訪問。
国際通り⇔江戸通り⇔清洲橋通り。
□ 隅田川==清洲橋(中央区日本橋中洲6 ~ 江東区清澄1-1/1-8)
1923年9月「関東大震災」の震災復興事業として「永代橋」と共に計画された。「永代橋」は「帝都東京の門」と呼ばれ、「清洲橋」は「震災復興の華」と呼ばれた優美なデザイン。当時の「世界最美の橋」と呼ばれたドイツ・ケルン市「ヒンデンブルク橋」の大吊橋をモデルにした。元々は「中州の渡し」の場所に設置され、公募により深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた。2007年に都道府県の道路橋として初めて「勝鬨橋」・「永代橋」と共に国の重要文化財(建造物)に指定された。
▽「隅田川テラス」(日本橋中洲6先)へと下りた。
花壇のポピー
東京スカイツリー(墨田区押上1-1-2)の遠景
対岸に「芭蕉記念館分館」(江東区常盤1-1-3)、小名木川==万年橋(常盤1-18 ~ 清澄1-8)
花壇のアマリリス
**
■「都立庭園・都指定名勝 清澄庭園」 (江東区清澄3-3-9)
□ 沿革
江戸元禄期に豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷 ⇒ 享保期に下総國関宿藩主・久世氏の下屋敷。
明治維新期に三菱財閥創業者・岩崎弥太郎が庭園造成に着手し、1880年に「深川親睦園」を竣工 ⇒ 1891年に回遊式築山林泉庭園として完成 ⇒ 1889年にジョサイア・コンドル設計による「深川邸洋館」(1923年の関東大震災により焼失) ⇒ 1924年、3代目・岩崎久弥が庭園東半分の敷地を東京市に寄贈 ⇒ 1929年に「大正記念館」を移築、「深川図書館」新館を建設 ⇒ 1932年に「清澄庭園」として開園(一般公開)。総面積: 開園時は3.5ha⇒現在は3.7ha。
東京都は1973年に残る西半分の敷地を購入、1977年に「清澄公園」として追加開園。
□ 見所
中央に広く島(中の島・鶴島・松島・山燈籠)が浮かぶ大泉水、周囲に築山(富士山・つつじ山)が在る。
園内随所に岩崎家が全国から集めた名石が配置され、かつ磯渡りによって池の端を回遊できるよう造園されている。
奇岩名石・・・佐渡赤玉石、伊豆磯石(多い)・伊豆川奈石・伊豆式根島石、生駒石・紀州青石、備中御影石・讃岐御影石・伊予青石など・・・が配置された石庭。
□ 園内マップ
*
この庭園内のアジサイは遅咲きのようだ。
なつめ水鉢(攝津御影石)
長瀞(ながとろ)峡~石橋・山灯籠(讃岐御影石)
ザクロ(一重咲き)
▽ 大泉水越しの全景いろいろ
大磯渡り/磯渡り(紀州青石の飛び石)
船着石(仙台石)
芦辺の浜、中の島(秩父青石)
富士築山
九重塔付近から対岸の眺め
松島・鶴島
左手に中村中学校・高校(清澄2-3-15)、中央に大正記念館の遠景
枯滝/石組(真鶴石、紀州青石、伊豆磯石)
▽ 内庭
自由広場/桜園
花菖蒲田の早咲きハナショウブ
「古池やかはづ飛び込む水の音---芭蕉の句碑」 (新小松石)
深川「芭蕉庵」近くの隅田川河岸に1934年に俳人・九代目其角堂晋永湖(えいかくどうしんえいこ) によって建立されたが、護岸工事と「芭蕉庵跡」改修工事の際にその敷地が狭いので当時の東京市長にお願いして清澄庭園(江東区清澄3-3-9)の内庭に移設しそのままとなってしまったという。
清澄庭園記の碑付近から「涼亭」(武州三波青石、紀州青石、相州加治屋石)
イロハモミジ・ノムラモミジ
磯渡り・傘亭付近
大きな伊豆磯石
セイヨウアジサイ
**
■「都立清澄公園」(江東区清澄2-2)
紀伊國屋⇒下総関宿藩主・久世氏の下屋敷⇒ 岩崎財閥の「深川親睦園」のうち洋館(関東大震災で焼失)跡地。回遊式築山林泉庭園の「都指定名勝・都立清澄庭園」(開園1932年) に隣接した開放式市民公園 (開園1977年、総面積: 開園時は3.5ha⇒現在は4.4ha)。江戸火の見櫓(やぐら)風の時計塔は、小鳥の巣箱を兼ねている。
ザクロ(八重咲き)
ヤマアジサイ
ガクアジサイ
シモツケ
終期のウツギ
キンシバイ
**
□ 帰途の清澄1付近
セイヨウアジサイ/ハイドランジア