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10月1日は「コーヒーの日」、コーヒーのルーツ。カルメン・マキのTOKYO FMアンコール。

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■ 10月1日は「コーヒーの日」

日本では秋冬期にコーヒーの需要が高くなることから、1983年に「一般社団法人全日本コーヒー協会」(中央区日本橋箱崎町6-2) によって10月1日を「コーヒーの日」と制定した。
この日は「国際コーヒーの日」(英「International Coffee Day」)でもある。

1962年、国際連合(UN)で定められた「国際コーヒー協定」(英「International Coffee Agreement」)に基づき、コーヒーの生産や輸出について国際的な協定を取り決め、生産国と輸入国との経済力の格差による不公平を是正し、価格や供給の安定を図る目的で、1963年12月27日、「国際コーヒー機関」(英「International Coffee Organization」、略称「ICO」、本部はロンドン)が設立された。

国際コーヒー協定が定めるコーヒー新年度は、ブラジルのコーヒー豆収穫・出荷時期に合わせて10月からスタートする。



*



□ コーヒーのルーツ


原産地は、エチオピア高原というのが有力説。

10~11世紀頃、アラビア半島に伝えられ薬用(覚醒作用)。
14~15世紀、トルコ/イラク/エジプトなどのイスラム教寺院に伝えられ飲用(焙煎手法)。
16世紀、イエメンからヨーロッパに伝えられ、17世紀になるとフランスではカフェが、イギリスではコーヒーハウスが人気となった。
17世紀、ヨーロッパから北南米に伝えられ、その後は米国が世界最大の消費国になり、ブラジルが世界最大の生産国となって行く。 


「コーヒー」という名称は、アラビア語qahwa(カフワ)から由来したもの。元々ワインを意味していたが、ワインに似た覚醒作用のあるコーヒーに充てられたというのが有力説。エチオピアのコーヒー産地 Kaffa(カッファ) から由来した説もある。


そして、トルコ語 kahve(カフウェ) から、イタリア語 caffè/フランス語 café/オランダ語 koffie/ドイツ語 Kaffee/英語 coffee へと伝播して行った (順不同)。

日本への伝播は、18世紀末にオランダ人によって行われ、オランダ語 koffie (コーフィー) に由来して漢字「珈琲」という当て字が、津山藩医・蘭学者の宇田川榕菴(ようあん、1798年~1846年) によって考案された。


*


□ お題「おすすめのコーヒー教えて!」
 

 

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リタイア生活では、ドリップで入れて、with sugar / without milk で飲むのが気に入った飲み方。

それにしてもドリップの形は、よくもまあ! 千差万別。

これまで利用したのは、ドトール、小川珈琲、キー、UCC、ネスカフェ、AGFブレンディ/マキシム、モンカフェ、アライド、片岡物産。



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カルメン・マキさんが長年の歌手生活の来し方行末を2015/11/01(日),11/08(日)に語った-----

■ TOKYO FM音楽番組「トランスワールドミュージックウェイズ」のアンコール放送が、先月9/12(日),9/19(日)の2週に亘って流された。


1969年、17歳でデビューしたカルメン・マキ(70)。デビュー曲「時には母のない子のように」は寺山修司(1935/12/10~1983/05/04、満47才没、※)の作詞。彼女はこの曲で一世を風靡し紅白歌合戦も出場した。


(※)寺山修司

1935年に青森県に生まれ、少年時代から俳句を書き、早稲田大学在学中は短歌の歌人として活動。大学中退後、劇作家、ラジオドラマ作家、映画の脚本家として活動。67年、演劇実験室「天井棧敷」を設立。71年、初長編『書を捨てよ町へ出よう』でサンレモ映画祭グランプリ受賞。74年、『田園に死す』でカンヌ映画祭初出品を果たす。82年、『さらば箱舟』を監督。翌83年、47歳の若さで急逝した。


カルメン・マキはその後ロック歌手に転向。出産・育児などで活動を休止した時期もあった。
2014年にはデビュー45周年を記念して「Good Times,Bad Times~History of Carmen Maki」と題したアルバムを発表した。
2019年にデビュー50周年を迎えた。
今やジャンルにとらわれないヴォーカリストとして活動し、レジェンドというより現在進行形のアーティストとして、ブレることのない活動で聴く人を勇気づけている。

この番組は、原点である「時には母のない子のように」から現在まで、2週に亘って彼女の半生を振り返る。


*


初放送: 寺山修司の生誕80年に当たる2015/11/01(日),11/08(日)。

再放送: 2021/09/12(日),09/19(日)。


アンカー: 田中美登里・・・東京芸術大学音楽学部楽理科卒。1979年アナウンサーとしてエフエム東京に入社。90年から制作部ディレクター。


□ 前篇 09/12(日) 朝04:30~05:00


04:30「時には母のない子のように」カルメン・マキ

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04:40「戦争は知らない」カルメン・マキ 

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04:47「UNDERSTAND」CARMEN MAKI BLUES CREATION 

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04:53「六月の詩」CARMEN MAKI & OZ 

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□ 後篇 09/19(日) 朝04:30~05:00 

 

 

04:30「時には母のない子のように」 カルメン・マキ×板橋文夫×太田惠資 

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04:34「閉ざされた町」 カルメン・マキ & OZ 

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04:44「いつまでも」カルメン・マキ 

GYAO!
カルメン・マキ「いつまでも」 (Live at ザムザ阿佐ヶ谷, 2015)

 

 


04:50「デラシネ」カルメン・マキ、桜井芳樹(G) 

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04:56「それはスポットライトではない」カルメン・マキ 

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以下、番組で流されたPLAY LIST楽曲は★印。


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■ カルメン・マキの略歴

出典: Wikipedia、週刊朝日など。


日本国籍を取得するまでの旧本名:Maki Annette Lovelace。

1951年5月18日、アイルランド人とユダヤ人の血を引く米国人の父と日本人の母との間に、神奈川県鎌倉市で生まれる。生まれて間もなく父が帰国。母は肺結核を患っていたためマキとともに日本に残った。母方の祖父母が住む東京都大田区で育つ。

1968年、香蘭女学校高校 [現・香蘭女学校高等科。荏原区平塚7-1046(現・旗の台6-22-21)] を2年次で中退。

香蘭女学校高校の出身有名人: 黒柳徹子、片桐はいり、大塚寧々、池谷麻依(アナウンサー)。] を2年次で中退。イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期、

イラストレーターか役者かになろうかと考えていた時期1971年、詩人・寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』に偶々(たまたま)友人に連れられて行った。その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。同じ年の8月に新宿厚生年金会館での『書を捨てよ町へ出よう』が初舞台。この時、CBSソニー関係者の目に止まり、歌手契約。芸名の「カルメン・マキ」は舞台の練習中に偶々思いついたもの。当時は作曲家の武満徹、詩人の谷川俊太郎、写真家の篠山紀信、画家(イラストレーター)の横尾忠則ら錚々たるメンバーに囲まれた。
そしてたちまち「天井桟敷」のマドンナ的存在となった。この時、CBSソニー関係者の目に止まり、歌手契約。芸名の「カルメン・マキ」は舞台の練習中にたまたま思いついたもの。

★「時には母のない子のように」作詞: 寺山修司、作曲: 田中未知、編曲:山屋清、CBSソニー1969年2月でデビュー。

17歳とは思えない妖艶な雰囲気、歌唱力、哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。累計でミリオンセラーの大ヒット。この曲で第20回NHK紅白歌合戦に出場した。ステージにはジーンズ姿で登場し、司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。当時の作曲は武満徹やクニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が手がけた。これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。「山羊にひかれて」、「私が死んでも」など。

★ アルバム「カルメン・マキ真夜中詩集ーろうそくの消えるまでー」に収録された「戦争は知らない」作詞: 寺山修司、作曲: 加藤博、CBSソニー1969年8月。

大阪のGSグループ、リンド&リンダースの加藤ヒロシが曲を書き、ラテン歌手・坂本スミ子が歌ったのが最初。あまり売れなかったが、やがて関西フォークブーム。ザ・フォーク・クルセダーズがコンサートで歌い始め、当時隠れた名曲として知られていた。そのシングル「さすらいのヨッパライ」のB面にライブ録音ヴァージョンが収録された。
寺山修司の詩集「人生処方詩集」にある「故郷の母のことを思い出したら」が原詩。天井桟敷のマドンナ的存在だったカルメン・マキがレコード・デビューに際して手直しされ、このタイトルが付けられた。曲を付けたのは、当時の寺山の秘書だった田中未知。レコード会社としてスタートしたばかりのCBSソニー、初期の大ヒットとなった。
1970年、写真集『篠山紀信集 NUDE』(篠山紀信)でヌードを披露。

彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向。そもそもの切っ掛けは、「時には母のない子のように」のレコード大賞受賞でCBSソニー社長から「ご褒美」としてレコードプレイヤーとLP盤数枚をプレゼントされた時のこと。そのLP盤の中にジャニス・ジョプリンがあった。それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。
「デビューがソニーだったので会社に通っていると嫌でも洋楽LPがあるので、サンプル盤をたくさんもらうんですね。ソニーにはピンクのワイシャツに水玉のネクタイとかしている有名なディレクターがいて、洋楽の知識が豊富。『マキ、これがいい』とくれたものの中にジャニス、ジミ・ヘンドリックス、フリートウッド・マック、マイクブルームフィールドがあり、うちに帰って聞いて影響されました」
直後近田春夫(のちにハルヲフォンを結成)、立川直樹らと「カルメン・マキ&タイムマシーン」と言うバンドを結成するが、すぐに解散。その後さまざまなバンドがバッキングについたが、最終的には当時の実力派バンドであったギタリスト竹田和夫率いるブルース・クリエイション(第2期)に落ち着く。

★ コラボレーション・アルバム「CARMEN MAKI BLUES CREATION」A面に収録された「Understand」作詞・作曲:竹田和夫、日本コロムビア/DENON1971年7月。

和製ロックの黎明期を彩る名盤。黒人霊歌を基にしたフォークなどを歌うシンガーから、女性ロッカーへとイメージ・チェンジをした。
1972年には当時18歳であったギタリストの春日博文らとともに「カルメン・マキ&OZ」を結成。メンバーは、春日博文(ギター)、鳴瀬喜博(ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之(ドラムス、のちに竜童組)。結成当初は順風満帆とは言えず、所属事務所からはキャバレー回りを強要され、時には客から「こんな曲では踊れない」とビンを投げつけられることもあった。しかし、こうした地道な活動が実を結び、1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビュー。

★ 1stアルバム「カルメン・マキ&OZ」に収録された「六月の詩」作詞: 加治木剛、作曲:春日博文、ポリドール1975年1月。

カルメン・マキのパワフルで情感溢れる歌唱に重厚でドラマティックなサウンドを聴かせてくれる傑作アルバム。10万枚以上を売る当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。
このアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作「私は風」は、のちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名である。なお、この録音前後にマキと春日以外のメンバーが総入れ替えとなっている。ドラムは西哲也、古田宣司の1stアルバム参加を経て、内藤正美が1975年末まで在籍。ベースは千代谷晃を経て、1stアルバム録音の後から、後期OZの音に決定的影響を与えた川上茂幸に替わった。
1975年5月、ジェフ・ベック・グループ、グランド・ファンク・レイルロードの来日公演のオープニング・アクトを務める。

★ 米国ロサンゼルスで2ndアルバム「閉ざされた町」を4カ月掛けて制作、キティレコード1976年10月。Drを担当したのは久藤賀一。

「閉ざされた町」や「火の鳥」といった大作路線を継承しながらも風格を漂わせたものに仕上がっている。
翌1977年の10月18日新宿厚生年金会館でのステージを最後に「カルメン・マキ&OZ」は解散。その年の12月には3rdアルバム「III」を発表。前2作とは打って変わってポップな楽曲が並んだ。 また解散の翌年8月にはシングル盤として「私は風」、そして10月の解散ステージと同年5月の日比谷野外音楽堂のライブ音源を収録した「ライヴ」がリリースされている。「III」、「ライヴ」録音時のメンバーはマキ、春日、川上、武田治 (Dr)、川崎雅文(川崎真弘)(Kb) であった。
1978年、ギタリストCharが、芸能界から追放処分を受け、四面楚歌状態にあったとき、救いの手を差し伸べたのが彼女である。当時、精神的な沈鬱状態で、ギターを弾く状態になかった彼を、自身のツアーにサイドマンとして誘って、ギターを弾く機会と場を与えた。「救われた。マキちゃんのおかげで再スタートさせてもらった」と後年Charは、デビュー20周年記念のリットーミュージックのインタビューで語った。この再スタートを足掛かりにCharは、ジョニー,ルイス&チャー(後のピンククラウド)を結成した。
1979年に数回の渡米を経て、ドラマーで当時ロッド・スチュアート・バンドの一員でもあったカーマイン・アピス(元ヴァニラ・ファッジ→カクタス→BB&A)の知己を得、同年彼のプロデュースの下でソロ「NIGHT STALKER」を発表。
翌1980年には「カルメン・マキ&LAFF」を結成。同年「カルメン・マキ&LAFF」をリリース。「60s:時には・・・、70s:OZ、そして時代は今・・・LAFF」とレコードの帯にあるようにレコード会社からも期待が掛っていたが結局思うようなヒットが出ず、1981年にヘヴィメタルバンド「カルメン・マキ&5X」へと発展解消。1982年にファースト「HUMAN TARGET」、ライブ盤「LIVE X」、1983年にはセカンド「CARMEN MAKI'S 5X」をリリースし、解散。また、この期間には村上龍原作の映画『限りなく透明に近いブルー』の音楽に参加。「青白い夕焼け("リュウ"のテーマ)」を歌っている。
1980年9月と11月に2度の薬物禍があった。これら事件のため、一時的にカルメン・マキ&LAFFは活動停止を余儀なくされてしまった。1983年には、週刊プレイボーイ誌上でヌードを披露した。その後1986年にはOZの初代ベーシストであった鳴瀬喜博や松本孝弘(のちにB'zを結成)などがいたセッションバンド、「うるさくてゴメンねBAND」に参加。ライブ活動を中心とする。1987年にはライブ盤「うるさくてゴメンねLIVE」を発表。その後出産、育児に専念するために一時的に音楽活動の休止を宣言した。

1993年に日本国籍を取得。旧本名 Maki Annette Lovelace、新本名 カルメン・マキ。音楽活動を再開。同年、寺山修司没後十年の企画として「時には母のない子のように」(新録音)を発表し、久保田麻琴プロデュースによる子守唄のアルバム「MOON SONGS」を発表。そして翌1994年には「MOSES」を結成。

★ アルバム「VOICES OF MOSES」に収録された「いつまでも」ビデオアーツミュージック1995年6月。

1996年にはOZ時代の盟友、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。また、この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動。この頃に現在もライブ、アルバム制作で組んでいるギタリスト、鬼怒無月と出会っている。1997年12月29日、「カルメン・マキ&OZ」の一夜限りの再結成を行う(於:京都大学西部講堂)。1998年には後藤次利、笹路正徳、春日博文、辻仁成などをプロデューサーに迎えて『SPLIT』を発表。2000年にはライブツアー「CARMEN MAKI 世紀末を歌う」を行い、翌年にはライブ盤「CARMEN MAKI LIVE 世紀末を歌う」リリース。2003年には鬼怒無月らとともに「CARMEN MAKI & SALAMANDRE」を結成。また同年に同名のアルバムをリリースし、ライブ活動も活発化させて行く。2004年には全曲アコースティックのアルバム『ANOTHER WAY』を発表。2008年には、初の朗読(ポエトリー・リーディング)CD「白い月」リリース。中原中也、萩原朔太郎らの詩を水城雄(ピアノ)の即興演奏にのせて読み、歌に留まらない表現に新境地を開いた。現在も全国各地をライブハウスを中心に精力的に回っている。

★ アルバム「FROM THE BOTTOM」に収録された「それはスポットライトではない」ジパングレーベル2012年4月。

2014年11月25日にはLIQUIDROOMにて「カルメン・マキ45周年記念VOL.1 〜ONE NIGHT STAND〜 《ROCK SIDE》」が行われた。出演はカルメン・マキの他、春日博文 (g)、川上茂幸 (b)、武田治 (ds)、厚見玲衣 (kbd)、ジョージ吾妻 (g)、盛山キンタ (b)、大内貴雅 (ds)、Dr.kyOn (kbd)、澤田浩史 (b)、古田たかし (ds)、木暮武彦 (g)、金子マリ (vo)、Char (g) であった。2015年2月6日・7日の2日に亘って、ザムザ阿佐ヶ谷にて「カルメン・マキ45周年記念VOL.2《アングラSIDE》2days」が行われた。出演はカルメン・マキの他、春日博文 (g)、Dr.kyOn (kbd)、太田恵資 (Vl)、桜井芳樹 (g)、佐藤正治 (ds)、清水一登 (pf)、西嶋徹 (b) であった。

★ シングル「デラシネ」(根無し草)galabox2017年3月。

2018年10月、「カルメン・マキ&OZ」名義のライブを約21年ぶり(単独公演では41年ぶり)に開催。そしてファンから多くの要望を受け、翌2019年11月より開催するデビュー45周年記念再結成ツアーを発表。
2021年、“カルメン・マキ”の音楽人生50周年を記念して行われた「デラシネ・ライヴ・シリーズ」を収録した映像作品『50th Anniversary Live~デラシネって半世紀~』が11月24日(水)にBlu-rayでリリースされることが決定した。本作品は多彩なジャンルのミュージシャンと2019年に行った「デラシネ・ライヴ」の5公演から厳選したライヴ映像を収録している。歌と語りがメインとなる即興ユニットの演奏から、寺山修司作品の朗読をはさんだ渾身のステージ、更にはカルメン・マキ&OZでは活動を共にする盟友“春日博文”との共演、インプロヴィゼーション・トリオ・バンド“Altered States”とのステージ、セネガル出身のアフリカンパーカッション奏者“ラティール・シー”との共演など、ジャンルにとらわれない幅広いミュージシャンとのセッション・ライブがBlu-rayに凝縮されている。


 


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