余りの残暑続きの毎日なのでエアコンに頼って身体が鈍(なま)りがち。
■ そこで昨日8/11(水)は今季初の早朝散歩(6時台)に出掛けることにした。
□「浄土真宗養蓮寺」(台東区東上野6-15-2)・・・開祖恵伯が三河國から江戸に出府し、1645~48年に神田駿河台から下谷池之端に移転していた「神田山新知恩寺」(通称「浅草幡随院」)の門前付近で創建し、浅草北清島町の「坂東報恩寺」地内へ移転。
ニチニチソウ(別名ビンカ)
□「区立清島幼稚園」(東上野6-16-8)
ピンクノウゼンカズラ
スベリヒユ(別名ポーチュラカ)
アサガオ/団十郎
メランポジウム(別名ミリオンゴールド)
□「浄土真宗龍飛山法善寺」(東上野6-17-3)
・・・1633年に江戸神田で創建し、1772年の「明和の大火」(別名「目黒行人坂の大火」)に罹災し、浅草松清町の「浅草本願寺」地内へ移転、1806年の「文化の大火」により当地(浅草北清島町)へ再び移転。「浅草本願寺」[現「本山東本願寺」(台東区西浅草1-5-5)]の末寺。
フヨウ(別名スイフヨウ/クサフヨウ)
□ 台東区松が谷3付近
マツバボタン(別名ツメキリソウ/ヒデリソウ)
ハナタバコ(別名ニコチアナ)
□「秋葉神社」(松が谷3-10-7)
・・・明治維新の東京府内には火災が頻発していたため、明治天皇の勅命により1870年、神田花岡町(現・JR秋葉原駅構内)に、宮城内紅葉山に奉斎されていた鎮火三神(火の神・火産霊大神/水の神・水波能売神/土の神・埴山毘売神)を勧請した。「神田明神(神田神社)」の兼務社として「鎮火神社」(通称「秋葉様」)と称し、社域を「秋葉っ原」と呼んだ。1930年に「秋葉神社」と改称したため、上野駅から延伸された国鉄東北本線の新駅は「秋葉原駅」と命名。1945年に東京大空襲により焼失、47年に復興、71年に現社殿が造営された。
キョウチクトウ(別名ハンネンコウ)
キンカン
イネ
ベロペロネ(別名コエビソウ)
ジャノヒゲ(別名リュウノヒゲ)の白い花
□「区立台東生涯学習センター/中央図書館」(台東区西浅草3-25-16)・・・旧「金竜小学校/金竜幼稚園」跡地に建設。
終期のアサガオ
□「区立金竜小学校/金竜幼稚園」(台東区千束1-9-9)
「東京2020五輪 フェンシング男子フルーレ」に卒業生の松山恭助選手の活躍(キャプテンとして団体戦4位)
▽ ビオトープ「金竜の里」
タカサゴユリ
ツユクサ
キウイ
デュランダ(別名タイワンレンギョウ)
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□ 昼・自宅からの空
20210811--12:17
南の空
南西の空
西の空
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■ 8月11日は「マッシュルームの日」
日本で初めてマッシュルームの栽培に成功し、"キノコ栽培の父" (菌床栽培法と純粋培養種菌の榾木接種法の創始者) と呼ばれる森本彦三郎氏の誕生日1886年8月11日に因んで、マッシュルームの専門商社「(株)ワキュウトレーディング」(東京都豊島区駒込3-3-20 駒込トリオビル8F) が制定した。
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□ マッシュルームのプロフィール
分類: ハラタケ科 Agaricaceae / ハラタケ属 Agaricus / ツクリタケ種 bisporus
学名: Agaricus bisporus
和名: ツクリタケ、通称: セイヨウマツタケ
英名: white mushroom / common mushroom
原産地はヨーロッパの草原地帯。ヨーロッパの古代ギリシア・ローマ時代から、馬の厩肥(きゅうひ:家畜の糞尿と藁や落葉等を混合し、牛馬に踏ませることで腐熟させた有機質肥料)などに自然発生していたものを利用していた。1650年頃にフランスなどで人工栽培が行われるようになった。以上のようにヨーロッパから導入されたキノコ。
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□ お題「好きなキノコの種類は?」
▼本日限定!ブログスタンプ
キノコはマツタケは勿論のことシイタケ・アミタケ、ナメコ、シメジ・エノキなど、大好物。
マッシュルームはシチューなどで食べる程度。
尚、マイタケの匂いは苦手。
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□ 我が家のキノコ狩りの思い出
私の父はキノコ狩り (石川県ではコケ取りと呼んだ) が大好きで、秋の休日には友人と福井県の山まで遠征するのが常だった。シーズン毎に数回はキノコ狩りに行っていた。我が家では、樽に塩水漬けにし、冬から春にかけて黒ずんだコケを小出しにしながら、味噌汁の具として味わったものだった。
生涯に一度だけ小学6年生の頃(1959年秋)、亡き父母と三人(子どもは長男の私だけ)で、石川と福井の県境、JR北陸本線/細呂木駅 (現在の福井県あわら市) から歩いた里山を訪ねたことがあった。その一つの山の中腹まで登って行くと、我が家の好物・シバタケ (正式名アミタケ)で一杯の山だった。初めての母も私も夢中で獲った。母はコケで一杯になった重い籠を背負いながら、あっちへ行ったりこっちへ来たり。その姿が何と無邪気に感じ今も尚、脳裏に焼き付いたままである。
我々が結婚し神奈川県横浜市のアパート暮らしを始めた頃(1975年秋)、清里(現在の山梨県北杜市)へ一泊旅行をした。八ケ岳の麓・美ケ森までハイキングし始めた。歩きながらマツタケが取れるということは他のキノコもきっとあるに違いないと思いつつ、他のハイカーが入る様子も無いコースを外れた林の中へ踏み入ってみた。少しずつ分け入るとあるわあるわ、沢山。夢中になって二人で取り続けた。その晩は飛び込みで民宿に入った。そこの若いご主人にお願いしキノコを毒キノコと食べられるキノコに選別して頂いた。帰宅後は父がそうしていたように、塩水に浸して数カ月の食卓の味噌汁として楽しませたものだった。
埼玉県の一戸建てに移転してから8年経過した頃(1985年秋)、妻と未だヨチヨチ歩きの次女の3人で、栃木県方面へキノコ狩りのドライブに出掛けた折り、田沼町(現在の栃木県佐野市)という集落の奥・唐沢山のゴルフ場に通じる道でキノコ(アミタケ)がいっぱい採れた。妻は恐いからと車の中で待っていた間、幼い娘はどんどん小高い薮の中へと進む。萩の花やチョウチョがあちらこちら。この子は勇気があるなあと感心したものだった。妻の元へと二人で戻る里の道端にはコスモスがたくさん咲いていた。この思い出以来、私はコスモスがますます好きになった。