■ 5月27日は「百人一首の日」
□ 「百人一首」の始まり
▽ 権中納言・藤原定家(1162年~1241年9月26日) は、藤原北家・藤原俊成の二男。通称・京極殿。2つの勅撰集「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の選者。
藤原定家の「明月記」に、1235年5月27日(新暦6月14日)、親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて揮毫(きごう、毛筆書写)した和歌百首が、京都嵯峨の小倉山(嵯峨中院)山荘の障子に貼られたとの記述があり、
「小倉百人一首」が完成したものとみられる。
戦国末期~安土桃山期にかけて、西洋から現在のトランプやタロットの原型のようなカード(カルタ)が入って来た。これに触発され国内でも元和年間(1615~1624)頃に各種の歌留多が作られた。そのうち「小倉百人一首」が歌留多として広く用いられ、通常、百人一首といえば「小倉百人一首」を指すまでになった。
▽ 競技かるた
(社)全日本かるた協会の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。毎年1月の上旬に滋賀県大津市にある近江神宮で名人戦・クイーン戦が開催される。名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。NHKBSで毎年生中継される。また、7月下旬には全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会が行われている。そのほか、全国各地でいろいろな大会が開催されている。
▽ 坊主めくり
使用する札は読み札のみで取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けて行くことでゲームが進む。歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして、明治以降に考案されたものと考えられている。
男札を引いた場合は、そのまま自分の手札とする。坊主札を引いた場合には、引いた人の手元の札を全て山札の横に置く。女札(姫札)を引いた場合には、引いた人がそれまでに山札の横に置かれていた札を全てもらう。天皇札(台座に縞模様がある札)を引いた際には、数枚引ける。天皇を引いた際には、山札とその横の札を除き、すべての札が引いた人の手札となる。段札を引いた際、もう一枚めくることができる。蝉丸が出た場合は全員の札を供託に置く。
裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。
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□ お題「百人一首で遊んだことある?」
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▽ 私の小・中・高生時代、1954~65年(昭和29~40年)の大晦日~正月三が日における"家族(6人)挙っての遊び"と言えば、「NHK紅白歌合戦」を観ることに始まって、
①「小倉百人一首」「源平旗合戦」、②「花札」「トランプ」「(雑誌の付録の)カルタ」、③「双六」「福笑い」など数多くあった。
そして遊びではないが「書初め」「年賀状」があった。
中でも「百人一首」は、和歌の勉強もできるとあって年齢が上がる毎に熱心になった(百首ほとんどを覚えた)もの。
もう半世紀以上を経た昭和30年代の日本家庭には、今日のようにゲームソフトは存在しなかったけれど、正月の"家族挙っての遊び"は大いに盛り上がったものだった。
▽「百人一首」の効用
私個人の経験値から言って、少年時代に日本を代表する「和歌」に触れたことが、その後の国語(古文)、短歌・俳句、強いては日本史に対する興味を強くしてくれた。
にも拘わらず、自分が家庭を持った1970~80年代になって"家族(5人)挙っての遊び"に、「トランプ」「カルタ」「双六」、そして新しいものとして「人生ゲーム」「野球盤ゲーム」などはあったが、「百人一首」は消えていた。但し、「書初め」の伝統は守った。
近年、コミック作家によって、「書道」「和歌」などの日本伝統文化が再びクローズアップされているのは、本当に同慶の至りである。
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■ 1689年5月27日(新暦7月13日)、松尾芭蕉が立石寺(通称・山寺) にて「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだ。『おくのほそ道』の中でも秀吟の詩として知られている。
立石寺HP せみ塚
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NHK-E番組『100分de名著』2013年10月号によれば-----
山寺の山上に立ち、眼下に畝(うね)る緑の大地を見渡した。
辺りの美しい景色は唯ひっそりと静まり返っている。
頭上には梅雨明けの大空が果てしなく続いている。
蝉(ニイニイゼミ)の鳴き頻(しき)る現実の世界の彼方に広がる、
広大な天地に満ちる「閑(しずけ)さ」を感じた。それは恰(あたか)も宇宙の世界を現わしているのだ。
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松尾芭蕉 [1644年伊賀國阿拝郡(現・三重県伊賀市)~1694年11月28日大坂・南久太郎町六丁目(現・大阪市中央区南久太郎町) ]
神田上水改修工事に携わって以来住んで来た「関口芭蕉庵」(文京区関口2-11-3)を手放し、それまでの江戸・日本橋小田原町 (現・中央区日本橋室町一丁目/日本橋本町一丁目) の宗匠(プロの俳諧師)生活を離れて、1680年(37才時)、門人・杉山杉風(さんぷう、鯉御用問屋・鯉屋の杉山賢水) から新たに提供された深川の草庵 [生け簀(鯉のいけす)番屋を改築、※(1)] へと移り住んだ。
1685年(42才時)春、この草庵で開かれた句会で「古池や蛙飛びこむ水の音」が詠まれ、後に芭蕉が蕉風俳諧を確立した句とも言われている [※(2)]。
1689年(46才時)3月27日、門弟・河合曾良を伴い清澄庭園(江東区清澄3-3-9)南東側の小名木川/海辺橋畔に在った「採荼庵(さいとあん)」で門人たちと別れを惜しんだ後、隅田川を遡上して千住大橋で降り立ち「矢立初めの地」から長い『おくのほそ道』の旅に出た。
採荼庵跡 小名木川海辺橋20200318撮影
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1694年5月(51才時)、内縁の寿貞尼(生年不詳~1694年6月2日)の連れ子(芭蕉の実子か不明)・次郎兵衛を伴って深川の草庵を発ち伊賀上野へ向かった。
[※(1)]
この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、芭蕉没後、伊勢國津・藤堂藩の武家屋敷内に取り込まれて保存された。
幕末から明治にかけて消失し、その場所も長く不明になっていた。
ところが、1917年9月30日の通称「東京湾台風」による高潮(通称「大津波」) の直後、小名木川に架かる万年橋の北に在る稲荷神社付近(墨田区常盤一丁目)から「芭蕉遺愛の石の蛙(伝)」が出土したことから、ここを「芭蕉翁古池の跡」(通称「深川芭蕉庵跡」)と推定し、祠に石蛙を祭り「芭蕉稲荷神社」(江東区常盤1-3) とした。
1981年4月、江東区役所では当所が狭隘(きょうあい)であるので、この所縁の常盤町の隣接地に「芭蕉記念館」(通称「本館」、江東区常盤1-6-3) を開館し、そして1995年4月、隅田川と小名木川の合流地点に「芭蕉記念館分館・史跡展望庭園」(常盤1-1-3) を開館し、庭園内に隅田川を望む芭蕉翁銅像を建立した。
芭蕉記念館分館・史跡展望庭園/芭蕉翁銅像20200318撮影
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[※(2)]
「古池や---句碑」は、深川「芭蕉庵」近くの隅田川河岸に1934年に俳人・九代目其角堂晋永湖(えいかくどうしんえいこ) によって建立されたが、護岸工事と「芭蕉庵跡」改修工事の際にその敷地が狭いので当時の東京市長にお願いして清澄庭園(江東区清澄3-3-9)の内庭に移設しそのままとなってしまったという。
古池や句碑 清澄庭園20180620撮影
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