■ 3月21日は「ランドセルの日」
3+2+1=6で、小学校の修業年数が6年であることからランドセル繋がりとなった。
これはランドセルをミニサイズに加工する夢工房「スキップ」(台東区浅草6-21-12 ⇒埼玉県比企郡鳩山町楓ケ丘1-1-10へと移転)を経営する増田利正さんが提唱したもの。
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□ ランドセルの歴史
江戸時代の幕末期に、幕府が洋式軍隊制度(陸軍)を導入する際、兵隊の携行物を収納するための装備品としてオランダから背嚢(はいのう)「ransel」(ランセル)が導入され、それが訛(なま)って「ランドセル」になった。
通学鞄(カバン)としての利用は、1885年に官立の模範小学校として開校した学習院初等科に、1887年、当時皇太子であった嘉仁親王(後の大正天皇)が入学の際、首相の伊藤博文が祝い品として帝国陸軍の将校背嚢に倣(なら)って製作させた特注品献上に始まった。それが切っ掛けで世間にも徐々に浸透し、今のような形になったとされる。
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□ お題「ランドセル、何色だった?」
通称「団塊世代」(別称「ベビーブーマー」、1947~49年生まれ世代) の我々夫婦がピカピカの1年生になった1954年以降は、即ち高度経済成長期(1954~73年)であった。
当時は高価な牛革製だったので、薄給の父には奮発だったに違いない。しかし天然皮革は我々の扱い方が粗雑で手入れもしなかったので、形がペチャンコになったり表面が黒ずんで来たりしたものだった。
ところが東京オリンピックの年の1964年に開発された人工(合成)皮革の「クラリーノ」は、軽くて丈夫で表面に施した着色が鮮やかで、手入れが簡単。しかも廉価という画期的な発明品。アッと言う間にランドセルばかりでなくハンドバッグ・靴・財布など広範囲な応用分野を以って普及して行った。
尚、我が子供たち(通称「団塊ジュニア」、1963年以降)は、長男が黒い革、長女・次女が赤いクラリーノだった。
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■ 昭和時代戦後期にヒットした社会流行語
評論家の大宅壮一(1900/09/13~1970/11/22、満70才没)が、東京新聞(1957年1月27日夕刊コラム)とその系列週刊紙(土曜版1957年2月2日号)において、コラム欄で「ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」と批判した。
それを受けて朝日放送の広報誌・放送朝日が、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。この中で松本清張が「かくて将来、日本人一億が『総白痴』となりかねない」と表現した。
▽ 大宅壮一氏の略歴
1922年、第三高等学校(現・京都大学)を卒業し、東京帝国大学(現・東京大学)文学部社会学科に入学したが、在学中より新潮社の月刊雑誌・新潮に社会問題講座シリーズの評論を発表してパリパリの左翼ジャーナリストとしてデビューし、大学は中退。
1933年、ゴシップやスキャンダル雑誌・人物評論を自ら編集・刊行。自宅を非合法下の日本共産党の秘密集会に提供。オルグ実行者として特高に逮捕され、不起訴処分を受けて釈放。1937年の南京攻略戦では現地を取材しており、南京事件については規模に議論があるとした上で日本軍による虐殺の存在自体には事実であるとする証言をしている。
1941年、太平洋戦争中に海軍宣伝班としてジャワ作戦に配属。
1955年、政治イデオロギー的な表現 (XX主義) を嫌って1955年「無思想人宣言」を発表。
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1957年、ノンフィクションクラブを結成。低俗で人間の想像力や思考力を低下させるテレビメディアを痛烈に批判し、「一億総白痴化」という流行語を出現させるに至った。一匹狼のノンフィクションライター達を集め若手ジャーナリストを育成開始。
1967年、大宅壮一東京マスコミ塾(略称・大宅マスコミ塾)を開塾。
1970年、大宅壮一ノンフィクション賞を発足。
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□「団塊の世代」
作家の堺屋太一(本名・池口小太郎、1935/07/13~2019/02/08、満83才没) が、1969年の通産省鉱山石炭局鉱政課長補佐資金班長の時期に書き、1976年に月刊誌・現代で発表した同名小説の中で用いた。
▽ 堺屋太一氏の略歴
1960年、東京大学経済学部経済学科卒業、通商産業省(現・経済産業省)に入省・通商局通商調査課。
1963年、企業局工業用水課
1964年、企業局企業第一課国際博覧会調査室
1966年、企業局日本万国博覧会準備室管理官補佐
1969年、鉱山石炭局鉱政課長補佐資金班長
1971年、大臣官房企画室企画主任
1972年、沖縄総合事務局通商産業部企画調整課長
1974年、工業技術院業務部研究開発官付研究開発専門職⇒研究開発官
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1976年、小説「団塊の世代」を発表し、以降の流行語となって行く。
1978年、退官、作家・評論家活動に入る。
1982年、財団法人大阪21世紀協会常任理事
1985年、財団法人アジアクラブ理事長、政府税制調査会委員
1995年、阪神・淡路震災復興委員会委員
1996年、国会等移転審議会委員
1998~2000年、小渕恵三内閣~第二次森喜朗内閣の経済企画庁長官(後の内閣府特命・経済財政担当大臣)
2000年、内閣特別顧問
2004年、NHK放送文化賞を受賞。
2010年、大阪維新の会ブレーン⇒2012年、維新政治塾(中央区島の内)名誉塾長
2012年、旭日大綬章を受章。
2013年、内閣官房参与成長戦略担当、安倍内閣ブレーン
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□「一村一品運動」
大分県知事・平松守彦(1924/03/12~2016/08/21、満92才没) が、1979年に県民に向けて提唱し、翌1980年から開始された地域活性化プロジェクトで、全国に通用する大分産特産品(2001年時点で336品目)を創出した。
この運動は、日本全国の各自治体に多くの波及効果をもたらすとともに、国際協力機構(JICA)青年海外協力隊(JOCV)などを通じてアジアを中心とした途上国協力政策として展開された。
▽ 平松守彦氏の略歴
1949年、東京大学法学部卒業、商工省(⇒通商産業省⇒経済産業省)に入省。
1957年、企業局産業施設課長補佐工業立地班長
1959年、重工業局電子工業課長(戸谷深造)を補佐し総括班長、電子工業振興臨時措置法による国策レンタル会社・日本電子計算機株式会社(JECC)を設立。
1964年、企業局産業公害課長
1965年、鉱山局石油計画課長
1967年、貿易振興局輸出保険課長
1969年、重工業局電子政策課長 兼 情報処理振興課長、情報処理振興法による特殊法人情報処理振興事業協会(IPA)を設立。
1973年、基礎産業局総務課長
1974年、国土庁(現・国土交通省)長官官房審議官
1975年、退官、大分県副知事
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1979年、大分県知事(~2003年)、「一村一品運動」を提唱。
1995年、アジアのノーベル賞と呼ばれるラモン・マグサイサイ賞(フィリピン)を受賞。
2000年、立命館アジア太平洋大学を開学(別府市)。
2004年、旭日大綬章を受章。
2009年、「官僚たちの夏 5話」に登場(御影大樹役) し当時の活躍が描かれる。