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「10月3日は登山の日」、私が写した富士山ギャラリー、NHK「ブラタモリ」富士山登山スペシャル。

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「10月3日は登山の日」


「日本アルパイン・ガイド協会」(神奈川県逗子市久木7-7-19A) の重野太肚二(しげの・たつじ)が1992年に発案。「公益社団法人 日本山岳会」が1905年10月に発足したことと、「と(10)ざん(3)」と読む語呂合わせから制定した。山に登ることで雄大な自然に触れ、自然の素晴らしさを知り、その恩恵に感謝する日。


「公益社団法人 日本山岳会」(英「The Japanese Alpine Club」、千代田区四番町5-4)は、1905年10月14日に設立された日本最初の山岳クラブ。山登りを中心に沢登りや岩登り、山岳写真、地質や地理、高山植物観察、山岳図書研究など山に関する様々なことを趣味とする個人の集まり。会員たちはボランティアで、講演や講習、出版などによる啓蒙活動、自然保護などの社会貢献活動にも熱心に取り組む。個人加入の山岳団体としては国内最大(会員数は5千名余)。日本各地に支部(全国33カ所)があることも特色。


*


□ お題「富士山見たことある?」

 

 

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私が富士山を初めて見たのは、1961年、北陸の中学校の関東修学旅行で箱根を訪れた時であり、感激した。

再び見たのは、社会人として上京した1971年以降。東名高速や東海道新幹線の南回りで帰省する際は楽しみだった。

1980年代以降には、九州~北海道への遠距離出張で飛行機を利用するようになり、上空から見下ろすことのできる幸せに浸った。

それが1990年代に入ると、海外出張も増えて国際便で帰国して来た際に富士の姿が見えて来ると、日本人の心が戻るように感じた。

そういう私は富士に登山したことがない。富士は登るよりも見るのが好きだ。


*


▽ 私が撮影した富士山のギャラリー


・荒川スーパー堤防(千住新橋~西新井橋~扇大橋~江北橋~鹿浜橋)

20170212(北区清掃工場方面)


20181021(豊島エコミューザタウン方面)


20191023(東池袋アウルタワー方面)




・目黒天空庭園(三軒茶屋キャロットタワー方面)20190126



・文京シビックセンター展望ラウンジ(西新宿超高層ビル群方面)20191227



*


▽ 富士山登山の関連記事から---

「ブラタモリ」#19#20#21「富士山」あらすじ(2015-10-10)

 

 

火口を見ると富士山の美しさが分かると言う。噴火で押し上げられた古い地層の「古富士」。

山頂から順に、新富士(2200年前3776m)-古富士(十万年前3000m)-小御岳(こみたけ、十数万年前2000m)-先小御岳(せんこみたけ、数十万年前)。日本一の高さを生んだ4層構造。


もう一つの奇跡。縄文時代まで新冨士と古富士の2つの峰がそびえていたが、新冨士がどんどん成長し古富士を抉(えぐ)って行った結果、2900年前に古富士が東=御殿場側に大崩落、新富士は噴火を続け傷跡を直しながら、2200年前に美しい独立峰となるも、古富士の痕跡を押し上げた。

 

 

 

「貞観大噴火」(約1150年前の864~866年)が起き、青木ヶ原が生まれて行った。

 

 

タモリさんが昔から来てみたかったという、噴火して生まれた巨大な「宝永火口」。

 


 

最も新しい火口が3つ、第1火口1100m、第2火口、第3火口。尚、山頂火口は700m。
江戸時代中期の1707年12月16日に起きた「宝永大噴火」。推定マグニチュード8.6~9クラスと推定される「宝永富士宮地震」が起こった。
この地震の震源は定期的に巨大地震を起している南海トラフであり、日本最大級のものであった。
遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したとの見方もあった。
地震の被害は東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達した。
「宝永大噴火」は1707年12月16日~31日。約100km離れた江戸でも2~3cm火山灰が降った。
噴火の翌年1708年(宝永5年)6月の豪雨で大規模な土石流が発生して、酒匂川の大口堤が決壊し足柄平野を火山灰交じりの濁流で埋め尽くした。
これらの田畑の復旧にも火山灰の回収・廃棄作業が必要であった。さらに、足柄平野での土砂氾濫は約100年繰り返された。
皮肉にも「宝永大噴火」の被害は世間の富士山への関心を高めた。
1708年(宝永5年)にはもう御厨地方の須走村に富士参詣客が殺到し、その後も傾向が続いた。
家屋や倉庫は倒壊または焼失し、食料の蓄えがなくなった。田畑は『焼け砂』(スコリアや火山灰など)に覆われ耕作不可能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥った。
約80年後の1783年(天明3年)には低い生産性に加えて「天明の大飢饉」が加わり、「御厨一揆」が起こった。

 

宝永火口

 

 


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