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9月11日は「公衆電話の日」、公衆電話や電子メールの記憶。根津~千駄木~駒込を散策。

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■ 9月11日は「公衆電話の日」

1900年9月11日、日本初の自動公衆電話が東京の新橋駅と上野駅の駅構内に設置された。当時は「自動電話」と呼ばれていて交換手を呼び出してからお金を入れて相手に繋いでもらうものだった。
1925年10月1日、ダイヤル式で交換手を必要としない電話が登場し「公衆電話」と呼ばれるようになった。

 

<追記>
1952年、たばこ屋や駅売店(キオスク)などの店先などに置かれ、普通の「黒電話」を使用。
1953年、「赤電話」に取替え開始。

1955年、10円硬貨専用の料金前納式「赤電話」の設置開始。

1961年、ダイヤル市外発信の可能な「大型赤電話」の設置開始。

1971年、鍵操作で110番・119番への緊急通報、電話番号案内への発信、電報の受付などの可能な「新型赤電話」の設置開始。
 

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□「公衆電話」の記憶

私が「公衆電話」を本格的に利用するようになったのは、サラリーマンとなった1971年から。
最も馴染みだった「青(=黄緑)電話」(ダイヤル市外通話可能な10円硬貨前納式)が全国の津々浦々に設置されて行ったのが、その3年前(1968年)の大学生時代から。
1973年からはお釣りが決して出ない100円硬貨前納式も登場するようになった。時には飲み屋に設置された「ピンク電話」(正式名「特殊簡易公衆電話」)を借りることもあった。


経済バブルの兆しが見え始めた1982年以降、テレホンカード(略してテレカ)式デジタル公衆電話の設置が始まった。
アッと言う間に民間企業は販売促進グッズ(CM用ノベルティ)を製作してバラ撒(ま)いた。テレカ蒐集の趣味もブレイク。私は今でも何枚も保有したまま。
そんな時勢を背景として、社会人だけではなく女子高生をはじめとして少年少女までが、只で手に入れたテレカを使って公衆電話を独占する現象が起こった。駅構内や公園や街頭の公衆電話とそのボックスが、急用で使おうと思っても空かない。
この現象は、1985年3月末に公衆電話設置台数がピーク(934,903施設)になっていたにも拘わらず、1988~92年以降のポケベル ⇒ 携帯電話(PDS,PHS)の普及する1993~95年まで続いた。
 

しかし、1995年以降の公衆電話は、ICカード化(1999年~)も既に遅しと凋落の一途を辿り、とうとう2006年までには利用激減によって撤去が加速されてしまった。
公衆電話設置台数は2005年3月末で442,302施設(ピーク時の47.3%)、2013年3月末で210,448施設(ピーク時の22.5%)、2019年3月末で155,214施設(ピーク時の12.3%)となった。


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□ お題 「電話派?メール派?」
 

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私が「電子メール」を初めて経験したのは、1993年。未だPCも携帯電話も主流にはなっておらず、大型コンピューターの端末としてのメール機能だった。
電子メールの利用が本格化したのは、1997~99年。ラップトップPCはIPv4、携帯電話はドコモmova。


私は2009年にリタイアしてからは、意識的に携帯電話もガラケーのままでスマホには移行していないし、電子メールは専ら自宅のノートPCで交信している。
要するに移動体通信(モバイル)は "もしもし はいはい"のみ。従って友人や肉親の評判は良くない。



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昨日9/11(金)の午後は、根津~千駄木~駒込をサイクリング&ウォーキングした。6,100歩と十分。

浅草通り ⇔ 不忍通りをひたすら北上 (池之端/根津/団子坂下/千駄木/道灌山下/動坂) ⇔ 本郷通り を往復した。


「根津神社」(別名「根津権現」、文京区根津1-28-9)

5代将軍・徳川綱吉は世継が養嗣子・家宣と決定したことを祝い、千駄木の根津権現をその屋敷地へと遷座・大造営した。1706年に完成。権現造り(本殿・幣殿・拝殿の一体構造)の傑作とされ、国の重要文化財に指定されている。
9月21日の例大祭は、浅草神社「三社祭」、神田明神「神田祭」、日枝神社「山王祭」、富岡八幡宮「深川祭」などとともに江戸の代表的な神社の祭。

表参道の大イチョウ


 

 


 

楼門




唐門、奥は社殿(本殿/幣殿/拝殿)





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千駄木周辺マップ





□ 「区立須藤公園」(文京区千駄木3-4)

江戸時代の加賀藩支藩・大聖寺藩の下屋敷⇒明治時代に長州藩出身の政治家・品川弥二郎の邸宅⇒実業家・須藤吉左衛門の邸宅⇒昭和時代の戦前(1933年)に東京市に寄付⇒戦後(1950年)に文京区に移管。

弁財天社


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■ 「都立六義園」(文京区本駒込6-16-3)


赤穂浪士討ち入り(1702=元禄15年の12/14)直前に完成した、川越藩主・柳沢(⇒松平)吉保の庭園。加賀藩下屋敷⇒川越藩下屋敷・庭園⇒三菱・岩崎家別荘・庭園⇒東京市庭園へと変遷。「小石川後楽園」とともに江戸二大庭園。紀州「和歌ノ浦」の景勝を模した中の島を有する大泉水名園。都区内有数のモミジ名所。

園内マップ





大泉水越しに、奥の吹上峯/浜/茶屋~手前の蓬莱島、奥の藤代峠~手前の妹山・背山を眺める

 



 


藤代峠から、大泉水、田鶴橋~妹山・背山を見下ろす
 



ヤマハゼの木と実



大泉水、奥の妹山・背山、手前の玉藻磯~出汐湊


 

 

 


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