■ 6月7日は「母親大会記念日」
1955年6月7日、東京・豊島公会堂 [豊島区東池袋1-19-1、現在は建て替えられて東京建物ブリリアホール(正式名・豊島区立芸術文化劇場)となっている] で約2千人が参加して「第1回母親大会」が開催された。
その前年の1954年3月、米国がビキニ環礁(当時の信託統治領)で繰り返していた水爆実験(広島型原爆の約千倍の核出力15メガトン)を行っため、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ千隻以上の漁船が死の灰を浴びて被曝し無線長・久保山愛吉さんが死亡したことを切っ掛けに、日本婦人団体連合会(会長・平塚らいてう) は国際民主婦人連盟に原水爆禁止運動(ビキニ・デー)を提案し、「第1回世界母親大会」がスイス・ローザンヌで開かれることになった。
□ お題 「母親との思い出、教えて!」
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北陸ではキノコ狩りのことを"コケ獲り"と言い、父が籠一杯のコケを持って帰って来ると、早速、家族全員で土や松葉を取り払う作業を手伝った。しめじ・はつたけ・なめこ・いぐち、そして偶にまつたけ。でも圧倒的に多いのは北陸で"しばたけ"と呼ぶ"あみたけ"。
父が好んで向かったキノコ山は地元・石川県内ではなく、加賀温泉の先、県境の牛ノ谷峠を越え芦原温泉の一つ手前の駅「細呂木」だった。
そんな父は、私が小学校高学年生になった(1958~59年)頃、母と私を連れ三人でキノコ狩りに行ける時が訪れた。
静かな細呂木駅に降り立つと、そこには低くて松が植林されてそんなに経っていない小山がいくつか在った。その一つの山の中腹まで登って行くと、あるわあるわ、しばたけで一杯の山だった。私も母も夢中で獲った。
日が翳(かげ)り始めた頃にはもう、それぞれの大きな籠が一杯になっていた。
母はきのこ一杯の重い籠を背負いながら、あっちへ行ったりこっちへ来たりで、その姿が何と無邪気だったこと。
私の母は、従軍助産婦~田舎の個人助産婦~金沢の産婦人科医院/病院の助産婦をしていた。
金沢の国立助産婦学校に学び、中国大陸の上海・北京・平壌・京城へ、横浜・本牧から日本赤十字社として派遣された思い出を、よくアルバムを説明しながら語ってくれた。
田舎では産婆さんは恩人扱いであり、かつ生来の社交的・世話好きな性格も手伝って、母は地元の広域エリアで名士的な顔の広さを持っていた。
私が中学~高校へと進級した頃には結婚の仲人役を熱心に引き受けるようになっており、酒やタバコの量も増えるようになって行った。
そんな母は、4人を産んだ後にはあちこち体調が悪かったにも拘わらず、主婦業と助産婦業と仲人業の三役を続けていたため、内臓疾患の兆候が著しくなり遂には胃癌が全身に転移してしまい、痛い痛いと呻(うめ)きながら56歳で早世した。
私が結婚した翌年であり、長男(内孫)が生まれる僅か2カ月半前のことだった。