■ 4月4日は「あんパンの日」
1875年4月4日、明治天皇が茨城・水戸邸の下屋敷を訪れる際に、木村屋の「あんぱん」が提供されたことに由来して木村屋總本店が制定した。
□ お題「あんパンは、こしあん派?つぶあん派?」
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餡(あん)を使った「餅」「饅頭」「あんパン」などの和菓子類は、どちらかと言えば「つぶあん派」。でも「あんころ」「赤福」などは伝統的に「こしあん」。
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★印は、我が家が利用している店
□ 菓子パン
▽「あんパン」
「木村屋」[現「木村屋總本店」(中央区銀座4-5-7 銀座本店)創業者であり茨城県出身の元士族・木村安兵衛が、明治天皇の侍従・山岡鉄舟から「これまでは京都の和菓子をお出しすることが多かったが純日本製のパンをお出ししたらどうか」と持ち掛けられた。そこで1875年4月4日、木村安兵衛は工夫を凝らし日本を代表する花の1つである八重桜の花びらの塩漬けをパンの中央部に押し込んだ「桜あんぱん」を考案し献上したところ、明治天皇は非常にお気に召し、以後、木村屋は皇室の御用達のパン屋となった。
「木村屋總本店」(中央区銀座4-5-7)
桜あんぱん
★「あんですMATOBA」(台東区浅草3-3-2)
▽「ジャムパン」
日露戦争勃発の近くにジャム入りビスケットを関連会社から陸軍に納めていた「木村屋」(現「木村屋總本店」)の三代目主人・木村儀四郎が、これに用いていたジャムをパンにも活用したいと考え、1900年より製造・販売された。当時、ドイツへ留学した陸軍軍人の土産である菓子を参考にしたという。丸型のあんぱんと区別を付けるために木の葉型に作られ、他社もそれに追随したことから、後年でも木の葉型に近い楕円形が一般的となっている。昭和10年代頃(1935~45年)までのジャムパンには、アンズジャムが用いられるのが一般的だった。イチゴジャムが用いられるようになったのは日本でイチゴの栽培が始まった大正時代辺りからであり、イチゴジャムが一般的になるのは昭和20年代後半(1950年頃)からである。
「木村屋總本店」(中央区銀座4-5-7 銀座本店)
アンズジャムパン
▽「クリームパン」
シュークリームの美味しさに感銘を受けた「中村屋」(新宿区新宿3-26-13) の創業者・相馬愛蔵がこれをパンに応用することを考え、1904年、クリームパンの製造・販売を始めた。発売されたクリームパンは体力向上が叫ばれていた時代に栄養価の高い食べ物として受け入れられ、次第に全国へ広まって行った。クリームパンにグローブ型が多いのは、詰め物をしたパンを焼く際に中に空洞ができてしまうことを防ぐためにグローブ型の切れ込みを入れたとする説と、切れ込みから中身がわかるようにするためとする説がある。
「新宿中村屋」(新宿区新宿3-26-13)
▽「メロンパン」
満州ハルビンのホテルニューハルビンから大倉喜八郎が帝国ホテルに引き抜いたアルメニア人のパン職人イワン・サゴヤンが、フランスパンとドイツパン両方の製法に精通していたため、1910年、フランスの焼き菓子ガレットを元に技法や食感を組み合わせてメロンパンは生まれた。パン生地の上に甘いビスケット生地(クッキー生地)を乗せて焼いたパン。ビスケット生地は他のパンに見られない程に分厚く広範囲を覆っている。紡錘型と円型とそれ以外の型のタイプに分かれ、近畿・四国・中国地方では円形のメロンパンをサンライズと呼称する習慣がある。
「カメリヤ」(名古屋市中川区万場4-521)
★「金谷ホテルベーカリー 上野松坂屋店」(台東区上野3-29-5 松坂屋上野店本館B1F)
▽「コロネ」「コルネ」
1939年刊行の『製パン教程』には、あんパン、クリームパン、ジャムパンなどの写真と並んで、チョコレートスネールと呼ばれるパン(巻貝型・渦巻型)が掲載されており、紛れもなくチョココロネのこと。1949年刊行の『最新各種製パンの秘訣』には、チョコレートコロネの説明が掲載されている。パン生地を円錐形の金属製芯に巻き貝状に巻き付けて焼き上げた後、内部にクリームを詰めたもの。クリームをパン生地に詰めてから焼くクリームパンやチョコレートパンなどと異なり、クリームを焼かないため瑞々しいクリームを味わえる。一般にクリーム類をパンに練り込んだり、パン生地に乗せたりする欧米の調理法に対して、パンの中に空洞を作りそこにクリームを詰め込むのは日本的な仕様であり、饅頭に通じるものがある。
山崎製パン(千代田区岩本町3-10-1)
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□ 餅菓子
▽「赤福餅」
江戸時代初期には皇大神宮(伊勢神宮内宮)前の五十鈴川の畔(ほとり)で既に「赤福」の屋号を持つ餅屋を営んでいた。1707年に執筆された市中軒の浮世草子『美景蒔絵松』に、伊勢古市の女が「(恋仲になった男が)赤福とやら青福とやら云ふあたゝかな餅屋に聟に入りを見向きもしなくなってしまい、その裏切りがくやしうて泣いております」と嘆いたという話があり、これが「赤福」(三重県伊勢市宇治中之切町2) の屋号の初出であり、現在は1707年を赤福創業の年としている。
「赤福」(三重県伊勢市宇治中之切町2)
▽「大福餅」
江戸時代初期に生まれた「鶉餅(うずらもち)」が1771年、江戸・小石川村御箪笥町(おたんすまち、旧・竹早町⇒小石川3/4.5丁目) の未亡人・おたよにより小形化され、餡に砂糖を加えたものが始まりで、腹持ちが良いことから「腹太餅(はらぶともち)」「大腹餅(だいふくもち)」の名で大いに広まった。寛政の改革時(1787~93年)には、行商が焼きながら売り歩く熱い「大福」が流行した。 当初は焼いたものを「大福餅」、焼いていないものは生の「餡餅(あんもち)」「餅饅頭(もちまんじゅう」と呼ばれていた。
「御菓子司千代田」(文京区小石川2-25-12)
▽「餡衣餅(あんころもち)」
江戸時代中期に餅を小豆でできた餡で包んだもので、餡が衣になっていることから「餡衣餅(あんころももち)」と呼ばれ、それが「あんころ餅」になった。京都や金沢を中心に夏の土用入りの日に「あんころ餅」を食べる風習があり、別名「土用餅(どようもち)」と呼ばれる。金沢に近い松任(まっとう)では1737年創業の「圓八」(石川県白山市成町107) によって、かつてJR北陸線松任駅において駅弁スタイルで販売し名物の土産となっていた(現在はキヨスクや名店街で販売している)。
「圓八」(石川県白山市成町107)
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□ 焼饅頭(やきまんじゅう)
▽「今川焼き」
江戸時代中期の安永年間(1772~81年)、江戸市内の名主・今川善右衛門が架橋した今川橋(日本橋~神田境の竜閑川に架かっていた橋、現在の千代田区鍛冶町1丁目) 付近の店で、桶狭間合戦に捩(もじ)って「今川焼き」として宣伝・発売し評判となった。
「あま太郎總本舗」(埼玉県羽生市中央1-8-34)
▽「紅葉饅頭」
明治時代後期の厳島(宮島)の名所・紅葉谷に在る旅館「岩惣」には皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)や伊藤博文ら要人が多く投宿していた。この岩惣に和菓子を納入していた高津常助の「高津堂」(広島県廿日市市宮島口西2-6-25) は、女将・栄子から「大切なお客様への手土産に、紅葉谷の名にふさわしい菓子が作れないか」と依頼され、1906年、漉し餡(こしあん)の「紅葉形焼饅頭」を完成させた。
「高津堂」(広島県廿日市市宮島口西2-6-25)
▽「鯛焼き」
明治時代後期に神戸清次郎が浪花(大坂)出身であったため「浪花家」(現「浪花家総本店」港区麻布十番1-8-14) と命名し、「今川焼き(大判焼き)」を売り始めたが売れず、亀の形の「亀焼き」も売れなかったが、1909年、「めでたい」に因んで、さらに庶民の口になかなか入らない高級品である鯛の鋳型(いがた)で焼くことを考案し売り出した。
「浪花家総本店」(港区麻布十番1-8-14)