「シリーズ深読み読書会」
「小松左京 "日本沈没" ~戦後最大の問題作!?」
3/17(土) NHK-BSプレミアム22:00~23:00
■ 出演者
島田雅彦(推理作家、法政大学国際文化学部教授、俳優)
橋本麻里(フリーライター、高校美術教科書編集者、永青文庫副館長)
片山杜秀(政治学者、慶応大学法学部教授、音楽評論家)
瀬名秀明(SF・ホラー作家)
司会: 渡辺真理(フリーアナ)
朗読: 松尾剛(NHKアナ)
■ 番組概要 予告動画
必読の作家・作品の魅力に迫る文学エンターテインメント「シリーズ深読み読書会」。
今回は1970年代最大のベストセラー、400万部を売り上げた「日本沈没」。
日本列島が沈むという荒唐無稽ともいえる物語に、読者を引き込んだリアリティーとは?
小松の本当のテーマは「太平洋戦争」、中でも“一億総玉砕”を描こうとした?
島田雅彦(作家)や片山杜秀(音楽評論家)など“文学探偵”たちが、“秘密の読書会”を開催して徹底分析。
日本を代表するSF作家「小松左京ワールド」を解き明かす。
小松左京さんのSFの原点である13~14世紀のイタリアの詩人・ダンテの『神曲』にまで話が及んだ、文学探偵たちの「深読み」。
片山杜秀「あれだけの大戦争を経験しても『あれは軍国主義者がやったんだ』というような、今を正当化するようなロジックの中で日本人が生きている、それをどこかで断ち切るような…それがこの小説を書かせていると思う」
島田雅彦「(渡老人の告白)ひとつの血統主義をとっているように見せながら、今の日本人は純血の日本人なのか?と。大陸や半島からの大量移民もあったし、交雑が進んできた結果が今の日本人。これから交雑を続けても日本人らしさが失われるわけじゃない、と」
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■ 原作
書き下ろしSF小説「日本沈没 上下2巻」同時刊行
著者: 小松左京
発行: 1973年3月20日同時刊行
発行元: 光文社カッパ・ノベルス
受賞歴: 1974年、第27回日本推理作家協会賞、第5回星雲賞(日本長編部門)
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■ 概要
元々は「日本人が国を失い放浪の民族になったらどうなるのか」をテーマに据えており、日本列島沈没はあくまでもその舞台設定で、地球物理学への関心はその後から涌いたものだという。しかし、そのために駆使されたのが当時やっと広く認知され始めていたプレート・テクトニクスであり、この作品はその分野を広く紹介する役割をも果たした。
ベストセラーになった背景には、高度経済成長が終焉を迎え、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会に代表される薔薇色の未来ブームへのアンチテーゼとして登場したことの衝撃に加えて、1973年の狂乱物価とも言われたインフレーション、オイルショックなどの社会不安があった。また同年が関東大震災から50年という節目でもあり、本作によって大規模災害への不安が喚起されるきっかけともなった。
■ ストーリー あらすじ
地球物理学者・田所雄介博士は、地震の観測データから日本列島に異変が起きているのを直感し、調査に乗り出す。
深海調査艇「わだつみ」号の操艇者・小野寺俊夫、助手の幸長信彦助教授と共に小笠原諸島沖の日本海溝に潜った田所は海底を走る奇妙な亀裂と乱泥流を発見する。
異変を確信した田所はデータを集め続け、一つの結論に達する。
それは「日本列島は最悪の場合2年以内に、地殻変動で陸地のほとんどが海面下に沈没する」というものだった。
最初は半信半疑だった政府も紆余曲折の末、日本人を海外へ脱出させる「D計画」を立案・発動する。
しかし、事態の推移は当初の田所の予想すら超えた速度で進行していた。
各地で巨大地震が相次ぎ、休火山までが活動を始める。
精鋭スタッフたちが死に物狂いでD計画を遂行し、日本人を続々と海外避難させる。
一方、敢えて国内に留まり日本列島と運命を共にする道を選択する者もいた。
四国を皮切りに次々と列島は海中に没し、北関東が最後の大爆発を起こして日本列島は完全に消滅する。
小笠原諸島・鳥島の東北東で、高さ70mの小島が振動も鳴動もなく一夜にして海底90mに沈み込んだ(合計160mの地盤沈下)。
深海調査艇「わだつみ」が目撃したのは、深度7,000mの日本海溝斜面に出現した亀裂からモクモクと噴出する大規模な海底乱泥流の姿だった。
日本列島には何かが起こりつつあった。
最悪の場合2年以内に、日本列島は地殻変動で陸地の大半が海面下に沈没するのではないか!? と予測された。
その当時、超音速輸送機・超高速機関車が登場、新東京国際空港・関西国際空港・青函トンネル・第二東海道新幹線などの大規模交通再開発、大型コンピュータのLSI化、原子力発電など科学技術革新の推進が目白押しだった。
しかし、東名高速の鉄橋崩壊、第二新幹線の工事現場崩落などの大事故が勃発した。
天城山・三原山・浅間山の爆発的噴火など関東各地の火山活動が活発化し休火山までが休眠から醒め、大地震が相次いだのだ。
遂に、京都大地震に襲われるに至り、政府は極秘プロジェクト「D計画」を発動した。
水深1万mまで潜れるような仏製の深海潜水艇ケルマディックを購入した。
「D計画」の本部では、膨大なデータを用いたシミュレーション計算を開始、マルコフ過程に匹敵するナカタ過程と呼ばれる確率理論を導入した。
阿蘇山・霧島噴火、箱根山噴火、小諸に強震、三陸沖の浅発性地震・陸中海岸に沈降現象が続いた。
地球大地のプレート・テクトロニクス説。
その大地は極めてゆっくりと対流するマントルの上に浮かんでいるが、日本列島の地下深くではマントル対流が急変する兆候があり、激変すれば支えを失った日本列島は海面下に沈む。
遂に深発地震が関東地方を襲った。マグニチュード8.5、死者・行方不明者250万人、東京は機能を停止した。「東京大震災」と命名された。
「D計画」の大幅増強に迫られた。「D-2計画」。政府も未だ半信半疑ながら日本民族が生き延びるための対策を講じなければならない。社会不安が増幅される。
シミュレーションによれば、大変動発生まで後わずか338.54日(9.27カ月)。
政府は、日本民族救出のため国外に脱出することを決意した。
脱出実行が迫る中、女主人公は富士山噴火に巻き込まれて消息を絶った。
197X年に「日本が沈む」。
日本を救うための国際活動が本格化するとともに、日本沈没後の極東情勢を探るための諜報活動もまた激烈なものとなっていた。
日本民族は続々と海外避難を開始した。が一方で、敢えて日本列島と運命を共にする道を選択する者もいた。
四国を皮切りに次々と列島は海中に没し、北関東が最後の大爆発を起こして関東地方を未曾有の大地震が襲い、首都東京は壊滅状態、日本列島は沈んで行った。
帰るべき故国を失った日本民族流浪の歴史が始まった・・・。
■ 私の関連ブログ 小松左京氏が亡くなった(2011-07-29)
□ 小松左京氏の経歴
本名:小松実、1931/1/28~2011/7/26, 享年81。
ルーツが千葉、生まれが大阪・京町掘、育ちが神戸。多感な小中学生時代に「戦争体験」により、後のSF作家を志す精神基盤となった。京都大イタリア文学。高橋和巳と交流したり日本共産党に入党したりしたが、ソ連の核実験で失望し離党した。モリ・ミノルなどのペンネームで雑誌「漫画王」に掲載。"左掛かった京大生"を捩(もじ)った「小松左京」をペンネームとした。
1959~62年、早川書房の創刊以来、「SFマガジン」へのアプローチ。
1963年、「日本SF作家クラブ」創設に参加するなど、以降、盛んにSF作家仲間と交流し、後に、星新一・筒井康隆と「SF御三家」と呼ばれる。
1963年の「紙か髪か」、「地には平和を」が評価され直木賞候補となるとともに、「情報産業論」の梅棹(うめさお)忠夫に共鳴し「梅棹サロン」に参加、林雄二郎・川添登・加藤秀俊らと「万国博を考える会」を結成した。
1965年、NHK「宇宙人ピピ」(実写+アニメ合成)の原作。
1966年、長編「果しなき流れの果に」。
1968年、「日本未来学会」創設に参加。「大阪万博」では岡本太郎とともにプロデュースの主役を務めた。
1969年、「空中都市008 アオゾラ市のものがたり」がNHK・竹田人形座による人形劇化。
1970年、「宇宙漂流」、この頃から肥満が目立ち、自称"メガネ豚"と言っていた。「国際SFシンポジウム」を主宰。
1972年、「継ぐのは誰か?」で第2回星雲賞(日本長編部門)を受賞。
1973年、「結晶星団」で第4回星雲賞(日本短編部門)受賞。「日本沈没」で第27回日本推理作家協会賞・第5回星雲賞(日本長編部門)を相次ぎ受賞するとともに、映画化され一大ブームを巻き起こした。当時の世相として、高度経済成長の歪・オイルショック・狂乱物価があり、「日本沈没」のブレイクは、その後のノストラダムス終末論や超能力が持て囃(はや)される風潮の端緒ともなった。
1974年、「猿の軍団」(TBS)。
1977年、「ゴルディアスの結び目」で第7回星雲賞(日本短編部門)を受賞。「国立民族学博物館」オープンにコレクションを提供した。
1980年、日本SF作家クラブ会長として、徳間書店「日本SF大賞」の創設に関与。
1982年、「さよならジュピター」で第14回星雲賞(日本長編部門)を受賞し、
1984年公開の映画製作にはプロダクション設立、総監督の指揮、最新CG駆使した特撮などの物心ともに入れ込んだが、期待した成果が挙げられなかった。
1985年、「首都消失」で第6回日本SF大賞を受賞。
1989年、「小松左京アニメ劇場」(毎日放送)
1990年、SF狂言「狐と宇宙人-戯曲集」を茂山千之丞の依頼で執筆。「国際花博」では総合プロデューサーを泉眞也・磯崎新と共同で務めるとともに、シンポジウム「大阪咲かそ」のプロデュースもする。
1995年、小松家自身も被災した「阪神・淡路大震災」では、テレビ局の現場取材と連携した安否ライブ情報発信を提案・実行したが、成果を挙げられなかった。
1996年、その教訓として防災情報の共有化、温か味ある復興の大切さを記した「小松左京の大震災'95」を刊行した。大震災以降の60歳代後半は、めっきり気力が失せ鬱(うつ)状態に陥った。
2000年頃、漸(ようや)く回復し、大震災の復旧活動に関わっていた。小松左京氏の人生は、戦争体験⇒SF文学の創作⇒日本列島の危機予測⇒情報ニューメディアの牽引⇒大震災体験 に集約される80年の歩みだった。
2011年、再び「東日本大震災」という大地震・津波と原発危機が襲った年に逝ってしまったのは、彼の日本列島に対する警告かもしれない。