日本相撲協会から4/30(月・祝)、2018年夏場所[東京・両国国技館、初日は5/13(日)]の新番付が発表された。
遠藤関(27才=追手風部屋) は、新三役・自身初三役となる西小結に昇進した。
大関候補で屈指の人気力士が度重なる両足の故障でどん底を味わい、遅すぎる晴れ舞台と言える。
埼玉県草加市瀬崎5-32-22(東武スカイツリーライン谷塚駅前)の部屋での会見では、ケガで苦しみ続けた日々が喜ぶことを戒めていた。
☆ 遠藤聖大(えんどう・しょうた)関
1990年10月19日石川県鳳珠郡穴水町中居生まれの27歳。町立住吉小学校(現・向洋小学校)卒業後は、地元の穴水町を始めとして能登地方の中学・高校の多くで相撲部が休部状態に陥っているという事情から、
金沢市に転居、金沢市立西南部中学校、中部日本選抜中学生相撲大会で個人・団体優勝、私立金沢学院東高校(旧・金沢女子短大附属高校)、高校相撲金沢大会と選抜高校相撲十和田大会で優勝した。
だが当時から立ち合いに難ありと指摘された。
日本大学、アマチュア横綱・国体横綱、追手風部屋、十両優勝、東前頭筆頭(2014年)。
外国人力士が占める幕内で日本人イケメンで、柔軟な下半身を活かした取り口がスマートなことから、人気が沸騰し懸賞金の本数はダントツ。
身長183cm体重154kg。得意手は左四つ、突き・押し。素早く前廻しを取っての一気の寄りも得意。
課題は、立ち合いでアドバンテージが取れず相手に強い当たりを受けたり廻しが取れないと苦戦を強いられる。
ケガに耐えて西小結(2018年5月夏場所)の自身最高位となった。
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幕下10枚目格付け出しの鳴り物入りでの2013年春場所初土俵から昭和以降最速となる所要3場所で新入幕。イケメンな上にスピード出世で相撲人気回復の立役者となった。
ところが、その新入幕の2013年秋場所で左足首を負傷し途中休場。後に剥離(はくり)骨折が発覚した。
2014年初場所は史上最速タイとなる6場所目での2桁勝利を挙げたものの、過去3度、前頭筆頭で三役昇進を逃して来た。
2015年春場所では左膝半月板損傷と前十字靱帯(じんたい)損傷の重傷を負った。
2016年は右足首の捻挫(ねんざ)で十両転落も経験した。
2017年名古屋場所では古傷の左足首の靱帯損傷で手術に踏み切った。
度重なるケガに泣いて来た角界屈指の人気力士は、引き締まった表情を見せた。
「入門してからケガして、これからという時にまたケガ。それの繰り返し。タイミング悪くその都度、足首とか膝とか」と振り返った。ただ腐らなかった。稽古と治療とトレーニングを続ける毎日。「そのうちいいことがあるだろう」と前を向き続けた。私生活でも痛みを感じ、食生活にも気を配った。
徹底して摂生しコツコツ積み重ねて来たことが、ようやく実を結び、手術後4場所連続で勝ち越したのだ。
それでも、ケガが万全になった訳ではなく、「元に戻らないと思っている」と割り切っているが、勿論、諦(あきら)めている訳でもなく、「ケガを繰り返して、付き合い方が分かって来た」と振り返った。多くは語らないが「もっとうまく付き合えると思う」と自信をのぞかせた。
今後も痛みや不安と付き合う日々は続く。現状に満足せず言い訳もせず。
(加賀人とは対照的な) 能登人独特の黙して多くを語らず。
「まだお先真っ暗。辛いことは忍んで、必死にもがいてやって行くしかない」と独特の表現で決意を口にした。「三役になったから頑張るのではなく、毎日頑張る」。山あり谷ありの5年間で培(つちか)った不変の姿勢で、進む道を照らして行く。
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石川県という土地は、加賀前田家という雄藩成立よりずーっと遡(さかのぼ)った古代から、「唐戸山神事相撲」 (現・羽咋市)などの相撲が盛んだった記録が残っている。
その歴史と伝統から、「第1回全国(旧制)高等学校相撲/ 金沢大会」が1915年(大正4年)に開かれた。
この最古のアマチュア相撲大会以来、毎年、全国大会開催が続けられた。
当初は「学生角力大会」として開催。金沢市金石(かないわ)海岸に特設された土俵で行われていた。
その後転々と会場を移し、平和台や兼六園球場の特設、卯辰山(うたつやま)相撲場の常設へと移り今日に至っている。
私は幼い時(1953年?)に一度だけ父に連れられ、卯辰山で観た淡い記憶がある。
1952~53年 会場を平和台特設相撲場(現在の金沢市平和町付近)。
1954~60年 会場を石川県営兼六園野球場(現在の北陸電力会館 本多の森ホール)。
1960年には県営卯辰山相撲場(現在の金沢市末広町)が開設され、翌1961年~高等学校相撲金沢大会が開かれている。
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そんな「相撲王国石川」と言われる土地柄のため、県下のどんな田舎の小学校にも運動場に土俵が設けられ、実りの秋には相撲大会が行われた。私は小6時(1959年)に準優勝---但し5,6年生全体でも男子30名に満たない小学校だったが。
この昭和期の日本は、戦後復興を遂げ岩戸景気に涌いた経済急成長期に在って、大相撲は栃錦と初代・若乃花の栃若時代だった。そして、白黒テレビが普及し始め、街頭受像機から世帯別宅内テレビジョン時代へと移行して行った。
私は、栃錦の強引な首投げ、若乃花が繰り出す巧みな技の肩透かしや二枚蹴(げ)りを真似たものだった。
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「黄金の左」輪島関との行きずりエピソード-----
時は巡り、私が社会人2年目(1972年)の歳の暮れのことだった。会社では政府に申請する重要書類作成集中作業のため、銀座の某シティホテルの一室に閉じ篭(こも)っていた。駆け出しの私まで招集が掛かり、そのうち、上司から寿司を買いに行って来いとの指示があって有名な勘八本店に向かった。今で言うパシリ。
何とチラチラと雪模様。革靴が滑らないように注意しながら歩いていたところで、豪華な米車・黒塗りのリンカーンコンチネンタルの中から付き人の番傘に、悠然と白い着流しのちょんまげ姿力士。「あれ! 輪島だ!」。高級クラブの山口洋子ママの「姫」へと消えて行った。輪島関は、金沢高校時代から金沢市内では夙(つと)に有名で、私とは同期だったのだ。
☆ 輪島大士(わじま・ひろし)関
本名は輪島博、1948/1/11七尾市石崎町生まれの70才。市立香島中学校時代から頭角を現わして、金沢市の私立金沢高校に進学し先生宅に下宿、日本大学で2年連続学生横綱に輝く、花籠部屋、三役昇進前から私生活は派手、場所入りはリンカーン・コンチネンタルを乗り回す、史上初の学士・本名横綱誕生、第54代横綱(1973~81年)、左の下手投げを得意とし、トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破った。幕内優勝14回、引退後は全日本プロレス所属のプロレスラー。