カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro OBE, 石黒 一雄)が、日本時間の10/5(木)夜、2017年の「ノーベル文学賞」を受賞したニュースは、ハルキストならずとも驚愕した。
ノーベル財団では、国籍・国境等の変遷に鑑み出身国に関しては出生国としており、イシグロを日本出身のノーベル賞受賞者と位置付けていると言う。
*
私は彼の作品を一冊も読んだことがない。先ず彼の経歴と作品群をチェックし俄(にわ)か勉強した。
10/6(金)朝、9時開館の区立図書館へ行って端末で検索したところ、何と!!短編の「日の暮れた村」しかなかったが、借りた。
次に10時半開店の書店へ行ったところ、書棚に代表作「日の名残り」と「わたしを離さないで」の文庫本を発見!! この2冊しかない。私が嬉しく支払いを済ませている間、私のような老齢の女性がカズオ・イシグロの本を問い合わせていたようだった。ちょっとスマナイ気持ち。
*
先ず短編の「日の暮れた村」から読み始めた。
長編の「日の名残り」と「わたしを離さないで」はじっくり読もう。
■ カズオ・イシグロの経歴
日系イギリス人作家。ロンドン在住。62才。
祖父の石黒昌明は滋賀県大津市出身。上海の東亜同文書院大学(第5期生)で学び、1908年の卒業後は伊藤忠商事天津支社に在籍して上海に豊田紡織廠を設立する責任者(取締役)となった。
父の石黒鎮雄は1920年4月20日上海生まれ。九州工業大学電気工学卒業後、東京大学より理学博士号を授与された海洋学者。杉並区高円寺の気象研究所⇒長崎海洋気象台に転勤となり、一家で長崎に住んだ。
石黒一雄は、1954年11月8日長崎市新中川町で、海洋学者の父・石黒鎮雄(2007年に死亡)と母・静子(長崎の被爆者、今年91才)の間に生まれる。
長崎市桜馬場2丁目の「市立桜ヶ丘幼稚園」(2012年閉園)の年少組に通う。
1960年(5才時)、父がイギリス政府の国立海洋学研究所(National Oceanography Centre)に招致され北海で油田調査をすることになり、一家でサリー州ギルドフォードに移住した。
現地のストートン小学校、中等教育の名門グラマー・スクール、卒業後にギャップ・イヤーを取取得して北米を旅行したりデモテープを制作しレコード会社に送ったりした。
1978年、ケント大学英文学科で英文学と哲学の学位取得。
1980年、イースト・アングリア大学大学院創作学科で修士号修得。批評家&作家のマルカム・ブラッドベリの指導を受けて小説を書き始めた。
卒業後に一時はミュージシャンを目指すも、文学者に進路を転じた。
1981年、短編小説「'A Strange and Sometimes Sadness’, ‘Waiting for J’, and ‘Getting Poisoned’ in Introduction 7: Stories by New Writers」
1982年、長編小説処女作「女たちの遠い夏」(筑摩書房単行本)。後に早川書房文庫本を刊行する際に「遠い山なみの光」と改題した。原題「A Pale View of Hills」)・・・ 英国に在住する長崎女性の回想を描いた。
王立文学協会賞を受賞し9か国語に翻訳。
1982年(27才時)、イギリスに帰化。
1984年、テレビ脚本「A Profile of Arthur J. Mason」 。
1986年、長編小説第2作「浮世の画家」(原題「An Artist of the Floating World」)・・・長崎を連想させる架空の町を舞台に戦前の思想を持ち続けた日本人を描いた。
ウィットブレッド賞を受賞した。
1986年、イギリス・スコットランド人のローナ・アン・マクドゥーガル( Lorna Anne MacDougall)と結婚した・・・ He was a residential resettlement worker, and she was a social worker. They met at the West London Cyrenians homelessness charity in Notting Hill.
1987年、テレビ脚本「The Gourmet」。
1989年(35才時)、英国貴族邸の老執事が語り手となった長編小説第3作「日の名残り」(原題「The Remains of the Day」)で英語圏最高の文学賞とされるブッカー賞を受賞し、イギリスを代表する作家の1人となった。
1989年、国際交流基金の短期滞在プログラムで再来日し、大江健三郎と対談した際、
「最初の2作で描いた日本は想像の産物であった。私はこの他国、強い絆を感じていた非常に重要な他国の、強いイメージを頭の中に抱えながら育った。英国で私はいつも、この想像上の日本というものを頭の中で思い描いていた」と語った。
この機会に長崎を訪れ、「桜ヶ丘幼稚園」で年少組の担任だった田中皓子さん(91才)と再会を果たした。
1990年、短編小説「戦争のすんだ夏」(原題「The Summer after the War」)。短編小説「夕餉」(ゆうげ、原題「A Family Supper」)。
1990年、インタビューで、 「もし偽名で作品を書いて、表紙に別人の写真を載せれば『日本の作家を思わせる』などという読者は誰もいないだろう。谷崎潤一郎など多少の影響を与えた日本人作家はいるものの、むしろ小津安二郎や成瀬巳喜男などの1950年代の日本映画により強く影響されている」と語っている。
また、幼い頃に過ごした長崎の情景から作り上げた独特の日本像が反映されていると報道されている。
1992年、娘のナオミ誕生。
1993年、「日の名残り」は英米合作、ジェームズ・アイヴォリー監督・アンソニー・ホプキンス主演で映画化された。
1995年、長編小説第4作「充たされざる者」(原題「The Unconsoled」)。
1995年(40才時)、大英帝国勲章(オフィサー)を受章。
1998年(43才時)、フランス芸術文化勲章を受章。
2000年、戦前の上海租界を描いた長編小説第5作「わたしたちが孤児だったころ」(原題「When We Were Orphans」) を出版、発売と同時にベストセラーとなった。
2001年、短編小説「日の暮れた村」(原題「A Village After Dark」)・・・ニューヨーカー2001年5月掲載。
日本語版は2006年11月晶文社出版(柴田元幸・編訳)のアンソロジー「紙の空から」に収録。
2003年、映画脚本「世界で一番悲しい音楽」 (原題「The Saddest Music in the World」)。
2005年、英中合作映画脚本「上海の伯爵夫人」 (原題「The White Countess」)。
2005年、「わたしを離さないで」を出版し、2005年ブッカー賞の最終候補に選ばれる。
2008年、タイムズ紙上で、「1945年以降の英文学で最も重要な50人の作家」の一人に選ばれた。主な作品「わたしたちが孤児だったころ」「わたしを離さないで」。
作品の特徴として、「違和感」「むなしさ」など感情を抱く登場人物が過去を曖昧な記憶や思い込みを基に会話・回想する形で描き出されることで、人間の弱さや、互いの認知の齟齬が読み進めるたびに浮かび上がる。人間が意思を通わせることの難しさや記憶の不確かさを浮き彫りにする作品で高い評価を得た。
2009年、短編小説「夜想曲集―音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」(原題「 Nocturnes: Five Stories of Music and Nightfall」)。
「わたしを離さないで」は映画化・舞台化されて大きな話題を呼んだ。
2010年、イギリス映画化。
2014年、ホリプロ舞台化。
2016年、TBSテレビドラマ化。
2015年、英国紙ガーディアンでは、「英語が話されていない家で育ったことや母親とは今でも日本語で会話している」と語り、(英語が母国語の質問者に対して) 「 I'm pretty rocky, especially around vernacular and such.(言語学的には同じくらいの堅固な(英語の)基盤を持っていません)」と返答している。また、「最初の2作は日本を舞台に書かれたものであるが、自身の作品には日本の小説との類似性はほとんどない」と語っている。
2015年、長編作品の「忘れられた巨人」(原題「The Buried Giant」)を英国・米国で同時出版・・・アーサー王の死後の世界で、老夫婦が息子に会うための旅をファンタジーの要素を含んで書かれている。中世イングランドを舞台に、人々の記憶を奪う謎の霧に晒されながら、遠方に暮らす息子を探す老夫婦の旅を描いた。
2015年、来日講演では、1990年代のユーゴスラビア紛争で「一夜にして隣人同士が殺し合った」事実を着想のきっかけとして挙げた。 「1、2世代前の国家的、社会的な記憶が再起し、人々を戦いに向かわせる。記憶すべきか忘却すべきかの問題は、個人ばかりでなく、国家や社会にも当てはまる」と強調した。
2017年10月5日(まもなく63才)、ノーベル文学賞を受賞。スウェーデンのストックホルムにある選考委員会は日本時間の10/5(木)20時過ぎ、今年のノーベル文学賞受賞者の名前を「カズオ・イシグロ」と読み上げた。昨年のボブ・ディランに続くサプライズ。
ノーベル賞授賞理由 「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた。感情に強く訴える小説で、世界とつながっているという我々の幻想の下に隠された闇を明るみに出した」。
ロンドン北部の自宅、英国の郊外で多くみられる二戸単位の建売住宅 ( semi-detached suburban house in Golders Green, north-west London )前で報道陣の取材に応じ、「キッチンでメールを書いている時に、自身の代理人の電話で知った。選考に当たったスウェーデン・アカデミーではなかったため、いたずらだと思った」と話すなどユーモアも織り交ぜた。
インタビュー動画(TBS系JNN提供)
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20171006-00000001-jnn-int
「予期せぬニュースで驚いています。日本語を話す日本人の両親のもとで育ったので、両親の目を通して世界を見つめていました。私の一部は日本人なのです。私がこれまで書いてきたテーマがささやかでも、この不確かな時代に少しでも役に立てればいいなと思います。偉大な作家たちの歩みに加わることができたことは、最高の名誉です」。
長崎市の田上富久市長は、イシグロさんの長編デビュー作「遠い山なみの光」で原爆投下後の長崎が描かれていることを踏まえ、 「偉大な作家の心の原風景に長崎があり、作品の重要な要素になっていることを誇らしく思う。いつか、長崎市を訪れる機会があることを願っている」とするコメントを発表した。
作家の中島京子は、「非キリスト教文化圏の感受性を持ちながら、英国文学の伝統の最先端にいる傑出した現代作家」と述べている。
多くのイシグロ作品を翻訳した土屋政雄は、 「イシグロは非常に穏やかな人。いつかするだろうがノーベル文学賞の受賞はもう少し時間がかかると思っていたので今回の受賞には驚いた」と語っている。
時事通信は---
カズオ・イシグロ氏が紡ぐ物語は 「記憶」が重要な意味を持つ。登場人物たちは、さまざまな形で記憶をたぐり、自身や世界との関係性を捉え直す。その作風は長崎市で生まれて5歳で渡英、後に英国籍を取得した「越境者」としてのアイデンティティーと無縁ではない---と伝えている。