新撰組のメンバーで好きなのは?
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■ 2月27日は「新撰組の日」
1862年2月27日、江戸幕府によって、京都警備のために武芸に優れた浪士を集めて作った武力組織として、「新撰組」の前身である「壬生(みぶ)組」が結成された。
当初は20名程度だった隊員数は、1865年頃の最盛期には約200名に膨(ふく)らんでいた。
1864年6月5日の京都三条木屋町(三条小橋)の旅館「池田屋事件」・・・尊王攘夷派志士を斬殺・自刃・刑死など死亡23名、捕縛9名・・・での活躍が特に有名。その名は天下に轟いた。
逆に尊攘派は、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助ら、多くの逸材を失った。
■ お題「新選組のメンバーで好きなのは?」
山南敬助(1833年陸奥國仙台藩出身 ~1865年3月20日)かな。
私は思想的には佐幕・武闘の新選組には反対。
その中で数少ない勤皇・文武の山南敬助は、位としては近藤勇局長・土方敏三副長に次ぐ総長に成っていた(1863年9月)ものの、
1864年6月の池田屋事件までには既に主流から外れていたと見られる。
しかも近藤・土方が、屯所を壬生(みぶ)から西本願寺に移転する方針を固め、
その意図は、西本願寺が長州藩毛利家と近く勤皇色が濃いため楔(くさび)を打とうとしていた。
山南は1865年2月、新選組と決別するため江戸へと脱走した。
近藤・土方は山南が弟のように可愛がっていた沖田総司を追手として差し向けた。
かくして3月20日、山南は切腹し、屯所は西本願寺へ移された。
世の山南ファンや坂本龍馬ファンは、二人を結び付けようとするが、
北辰一刀流の千葉門人と言っても、山南は神田お玉が池の「千葉周作」の道場(上級武士向け)で、龍馬は桶町の弟「千葉定吉」の道場(下級武士向け)なので、接点は無かったろう。
思想の方も、1865年3月までの尊王攘夷(⇒後に倒幕に発展する)論の山南に対し、龍馬はそれ以降の尊王開国・公武合体論であり、協業することは無かったろう。
■ 新選組関連ブログ
またまた幕末下級武士の「壬生義士伝」(2010-01-07)
「謎解き! 江戸のススメ」#32「龍馬が愛した京都」詳細(2012-11-05)