8/20(土)朝は、リオ五輪の陸上4x100m男子リレーには大興奮!!
競馬のGⅠとは比べものにならない程、跳び上がって歓声を挙げてしまいました。
アスリートにしては物静かな山縣・飯塚・ケンブリッジ飛鳥の3走者に対し、唯一ネアカ・情緒豊かな桐生#3走者。
彼のことが失礼ながら心配でしょうがなかったのですが、見事、期待以上のバトンタッチと走りをやってのけ、本当に良かったと思いました。
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献血したことある?
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私も妻も正直、一度も献血をしたことがない。
家族の中では、下の娘が最も献血回数が多い。正義感の強い人格が作用しているのだろう。
それから、生前の両親は大正人間であり戦争を経験していたので当然に協力的だった。
特に母は、「日本赤十字社」(略称・日赤) の従軍看護婦として中国大陸・朝鮮半島へと赴(おもむ)いていたので、献血組織の内部にいた。
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言い訳になってしまうが、私の周りの献血に関する環境変化を書いてみたい。
私が5歳の1952年、日赤に血液銀行が開設された。
戦後の日本は貧しく、手っ取り早い収入を得ようとする売血常習者の血は薄くて質が悪くて "黄色い血"と呼ばれ、
輸血を受けた患者は副作用(肝炎などの感染)を起こしがちだったため大きな社会問題となって行った。
東京オリンピック開催の1964年(私の高2時)、後に「ライシャワー事件」と呼ばれる国際的な大事件が勃発。
米国の駐日大使E・O・ライシャワー氏 [日本からの帰国子女、ハーバード大学教授(東洋史)、日本女性と再婚]が、大使館前で統合失調症少年に襲われ重傷を負い、
輸血した"黄色い血"によってC型肝炎ウィルスに感染してしまった。この後遺症に最期まで苦しめられ1990年永眠。
全国に "黄色い血"追放の学生運動が激化。
1964年8月21日、自民党・池田勇人内閣はそれまでの売血制度を止め、全ての輸血用血液を献血により確保する体制を確立するよう閣議決定。
1974年(27歳時)、売血⇒献血への制度移行を完全実施。
1985年(38歳時)、帝京大学医学部附属病院で血液(治験途上の非加熱製剤)を投与された血友病患者がHIV(エイズ)感染で死亡。
翌年、大阪医科大学附属病院で旧・ミドリ十字(現・田辺三菱製薬)の血液(非加熱製剤)を投与された患者が薬害で死亡。
このように1980年代は世界的に、加熱などでウイルスを不活性化しなかった非加熱血液製剤を治療に使用したことにより、
多数のHIV感染の薬害犠牲者(エイズ患者)を生み出した。後に「薬害エイズ事件」と呼ばれた。
日本では全血友病患者の約4割に当たる約1800人がHIV感染し次々と死亡(継続中)。
1996年、帝京大学の安部副学長、旧・ミドリ十字幹部(厚生省天下り)の松下・須山・川野各氏、旧・厚生省官僚(生物製剤課長)の松村氏が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴された。有罪確定。
その後も2003年(56歳時)、検査をすり抜けた輸血でHIV感染した例が発覚。
2005年、取締り強化のため大幅に法改正され、かつ献血事業の主導権は日赤から厚生労働省に移行した。
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以上のように不安が渦巻く献血~輸血環境に生きて来た世代。
自分は勿論、エイズではないが胸を張るような品行方正の半生を過ごして来なかったので、どうも献血をしそびれたまま。
今は新世代の皆さんにとって安全・安心な献血態勢なのだろうけれど、よく訪れるJR有楽町駅前の呼び掛けを通り過ぎる度に、内心忸怩(じくじ)たるものがあるはある。