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6月6日は「楽器の日」、「かえるの日」マイフォトギャラリー

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 6月6日は「楽器の日」


芸事(習い事/稽古事)は「6歳の6月6日」から始めると上達する---出典は猿楽師(後の能楽師)・世阿弥(ぜあみ:1363~1443年)が著した芸道論の『風姿花伝(ふうしかでん)』---と言われていることに因んで、6月6日は「楽器の日」である。

数を指で折って数えると6は小指が立つ形になることから、"子が立つ"に繋(つな)がり、芸事の稽古始めは「数え6歳(数え7歳説もあり) の6月6日」にすると上達が早いという習わしに由来する。



ところで、「6月6日」の歌詞が登場するのは「ドラえもんの絵描き歌」(1979年発売)。

「丸書いて ちょん 丸書いて ちょん お豆に芽が出て 植木鉢 植木鉢 6月6日にUFOが あっちいって こっちいって おっこちて お池が2つできました お池にお舟を浮かべたら お空に三日月昇ってた ヒゲをつけたら ドラえもん」。

YouTube「ドラえもんの絵描き歌」

 





■ 6月6日は「かえるの日」


蛙(かえる)の鳴き声「けろ(6)けろ(6)」の語呂合せから、「かえる友の会」会員で作家の矢島さら氏 (ライトノベルズ「テイルズオブシリーズ」、エッセイ「けろけろ」など) が、1998年に「かえるの日」を制定した。 


先ず連想したのが、「蛙の歌が聞こえて来るよ クヮクヮクヮクヮ ケケケケ ケケケケ クヮクヮクヮ」という歌詞。「ケロケロケロケロ ゲゲゲゲゲゲゲゲ ゲロゲロゲロゲロ」などとも歌われる。
原曲のメロディーはドイツ民謡。1930年、スイスの教育者ヴェルナー・ツィンメルマン(Werner Zimmermann)博士が来日し玉川学園(東京都町田市玉川学園6-1-1)での合唱指導で使われたらしい。「quak quak quak quak, kae kae kae kae kae kae kae kaek, quak quak quak」


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奈良時代の「万葉集」には、楓(かへるて⇒かえで)の葉っぱの形が「蝦」(かへる⇒かえる)の手の形に似ていることから、楓のことを「蝦手」と詠われている一方、鳴川津(なくかはづ)・川津妻(かわづつま)などと「川津」(かはつ⇒かわず)とも詠われていると言う。

私の少年時代、金沢の田園地帯では、「ぎゃわず」だの「ぎゃっとん」などと親愛の情で呼んでいた。
 


製薬会社・興和(名古屋市中区錦3-6-29)のマスコットキャラクターケロちゃん・コロちゃんは、1949年にコルゲンコーワの新聞広告で初登場し、1958年にマスコット人形として誕生、1963年からは薬局の軒先に店頭カエルがお目見えした。

コルゲンコーワ
 

1985年、公衆電気通信法は電気通信事業法に改正、電話機や回線利用制度が自由化。独占していた電電公社が民営化してNTTとなり、電気通信事業者として第二電電(⇒DDI)、日本テレコム(⇒ソフトバンクBB)、日本高速通信(⇒KDDI)が新規参入した。
その新生NTTが提唱したのが、「帰る」と「蛙」を掛けた「カエルコール」。モーレツ社員の夫がようやく仕事を終え妻に帰宅予定時刻を告げる電話を掛けることを推奨したのだった。今のようにケータイやスマホがない時代で、我々(当時30代終盤)は残業の後でも最終電車ギリギリまで居酒屋やカラオケスナックに立ち寄ったものだった。そうして会社を出る時に小声でカエルコール、公衆電話を探してカエルコール、とうとう終電に乗り遅れてサウナや深夜喫茶のピンク電話からカエレナイコール・・・。

NTTテレカ



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□ お題「かえる触ったことある?」
 

 

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私(夫)は、カエルの方は比較的嫌いではない。私の故里は水田地帯だったのでカエルを見ない日は無かった程なので親しみがある。

そういう意味ではヘビもそうなのだが、何故か未だに好きになれない。先祖に忌み嫌う体験があって、私のDNAに書き込まれたのだろうか??



一方、妻は街中の育ちで、しかも "小学生の理科の時間にカエルの解剖実験があり、開腹の途中で実験室内を逃げ回られた" 記憶が悪魔のように消えないらしい。これは体験DNAではなくリアル体験からだ。


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□「カエル」のマイフォトギャラリー


「皇居東御苑」二の丸池のニホンアマガエル20180809


「小石川植物園」沼のガマガエル20190625


「皇居東御苑」二の丸池のニホンアマガエルに再会20191003




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■ 6月6日のその他記念日


□ 1281年(元号:弘安4年) 6月6日(新暦:6月23日)、2度目の元寇「弘安の役」で志賀島に上陸!!


蒙古(遊牧民族)出身でモンゴル高原~中国大陸を支配(南宋国を征服)していたモンゴル帝国 (中国名「元国」、第5代皇帝:フビライ・ハーン(クビライ・ハーン、漢表記:忽必烈) 。

彼は、朝鮮半島を支配していた「高麗国」を属国化した後、
国書を黙殺し続けて来た日本の武家政権・鎌倉幕府(第8代執権:北条時宗)を属国化させようと、

13世紀後半に連合軍を編成して「文永の役」~「弘安の役」の2度に亘り襲来(侵攻)して来た。これを「蒙古襲来」とも「元寇」とも呼び当時の世界最大規模の艦隊だった。



うち2度目の元寇「弘安の役」

1281年6月に東路軍(高麗を主力とした連合軍)は対馬~壱岐の占領を経て、遂に志賀島~能古島に上陸し占領した。

7月には到着が遅れていた江南軍 [旧南宋を主力とした連合軍、日本への移住(難民)を期待していたという説] が合流して、博多占領そして果ては大宰府占領を目論んだ。

しかし「元寇 防塁(石塁)」に阻まれ長引く戦いの最中に、「文永の役」の時に続いてまたしても暴風雨 (後の世相が "神風"と称して神格化して行った) に襲われて、

軍船の多くが沈没や損壊の大損害を被ってしまい、ほぼ全滅するに至った。

6月6日元寇「弘安の役」で志賀島に上陸!!
出典は「歴人マガジン」https://rekijin.com/?p=21559






3度目の元寇計画はフビライの死によって中断された。

一方、戦後の鎌倉幕府もまた、多大な軍事的・経済的な負担が痛手となって御家人層の没落が進行し滅亡を早めてしまった。


YouTube「市橋章男 歴史チャンネル」
 
 

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