■ 4月13日は「喫茶店の日」
1888年4月13日、東京府東京市下谷区上野西黒門町2丁目に、日本初の喫茶店舗として「可否茶館」(かひさかん)が開業した。2階建て洋館で1階がビリヤード場、2階が喫茶室。新聞に開業案内広告「開店可否茶館開業報條」が掲載されたが、その味が受け入れられず5年程で閉店した。
「遠からん者は鉄道馬車に乗ッて来たまへ近くは鳥渡寄ッて一杯を喫したまへ抑下谷西黒門町二番地(警察署)隣へ新築せし可否茶館と云ツパ広く欧米の華麗に我国の優美を加減し此処に商ふ珈琲の美味なる思はず腮を置き忘れん事疑ひ無し館中別に文房室更衣室あるは内外の遊技場を整へマッタ内外の新聞雑誌縦覧勝手次第にて其価の厳なる只よりも安し咲き揃ふ花は上野か浅草へ歩を運はべらるゝ紳士貴女幸ひ来館を忝ふして当館の可否を品評し給へかしと館主に代りて鴬里の思案外史敬って白す定価カヒー一碗金壱銭半間牛乳入金弐銭」
一階には『トランプ, 玉突き、クリケット、碁、将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの設備の他に、『内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は籐であった。コーヒーは一杯が一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理、パン、カステラなども出していた。因みに当時の「もりそば」は八厘であった。
近年になって2008年に「可否茶館跡」碑 (煉瓦造りの碑の上にコーヒーカップのオブジェ)として、その後のビル再開発 (現在の東京都台東区上野1-1-10オリックス上野1丁目ビル/ローソン上野中央通店が入居)の中でも「日本最初の喫茶店発祥の地」碑(パネル)として現存されている。
「可否茶館跡」碑20180414撮影
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■ 喫茶店の歴史
□ 明治期の「可否屋」or「珈琲屋」
喫茶店様式に先立つこと、文明開化の波にコーヒー店舗がお目見えした。coffeeの音韻に当てられた漢字としては、「可非」「可否」「黒炒豆」「珈琲」があったが、そのうち「珈琲」は圧巻だった。考案者は幕末の蘭学者・宇田川榕菴(ようあん、1798年~1846年)。彼の造語には現在も生きているものが多い。酸素・水素・窒素・炭素・白金などの元素名、元素・酸化・還元・溶解・分析などの化学用語、細胞・属などの生物学用語。「コーヒー」が「珈琲」という漢字で表記された理由は、コーヒーの木の枝に実った赤い実の様子が当時の女性の髪飾り「簪(かんざ)」に似ていることからで、「珈」は髪に挿す花かんざし、「琲」はかんざしの玉を繋ぐ紐を表している。何とも美しい発想であった。
▽「放香堂」・・・1874年、兵庫県八部郡神戸町の元町通り(現在の兵庫県神戸市中央区元町通3-10-6)に開店。
▽「油絵茶屋」・・・1876年、東京府北豊島郡浅草公園地の浅草寺境内 (現在の東京都台東区浅草2-3-1) に開店。
▽「洗愁亭」・・・1886年、東京府東京市日本橋区小網町の日本橋川鎧橋通り (現在の東京都中央区日本橋小網町4丁目 明星稲荷神社orホテル法華イン東京日本橋の付近) に開店。
「洗愁亭跡」付近20180414撮影
▽「可否茶館(かひさかん)」・・・1888年、東京府東京市下谷区上野西黒門町2丁目 (現在の東京都台東区上野1-1-10オリックス上野1丁目ビル/ローソン上野中央通店が入居)に、「日本初の喫茶店舗」として開店。
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□ 大正期の「カフェー」(「純喫茶店」or「特殊喫茶店」)
「純喫茶」という言葉は、明治末期~大正期、社交の場として「カフェー」という呼称が使われるようになり、夜になると酒類を提供し女給さんが接待するのを「特殊喫茶」、接待しないのを「純喫茶」と分類された。
尚、鎌倉前期、仏教禅宗のひとつ臨済宗の開祖/建仁寺の開山である栄西が中国宋代から伝えた茶の種子を、華厳宗の僧・明恵(みょうえ)が譲り受け京都栂尾(とがのお)に蒔いて宇治茶の基礎を作るとともに全国に広めて行った。そして「喫茶」の語源はお茶を頂いてその効用を嗜(たしな)む習慣や作法を指していた。
東京・銀座煉瓦街の一角に、
▽「カフェー・プランタン」・・・1911年、東京府東京市京橋区日吉町20(現在の東京都中央区銀座8-6-24銀座会館)に、「日本初の会員制喫茶店」として開店。「プランタン(printemps)」とはフランス語で「春」の意。
「カフェー・プランタン跡」20180414撮影
▽「カフェー・パウリスタ」・・・1911年、東京府東京市京橋区宗十郎町(現在の東京都中央区銀座8-9-16長崎センタービル)⇒京橋区南鍋町2-12時事新報社向かい (現在の中央区銀座7-7-1丸嘉ビル)に、「日本初の庶民喫茶店」or「日本初のチェーン店舗型喫茶店」として開店。「パウリスタ(paulista)」とはポルトガル語で「サンパウロ子」の意。
尚、現在も尚、中央区銀座8-9-16銀座中央通りの長崎センタービルに「パウリスタ 銀座本店」名義で、「現存する最古の喫茶店」として営業中。
「パウリスタ 銀座本店」20180414撮影
東京・尾張町交差点の一角に、
▽「カフェー・ライオン」・・・1911年、京橋区尾張町1丁目 東京横浜毎日新聞社 ⇒中央区銀座5-8-1サッポロ銀座ビル(現在のGINZA PLACE)に、「日本初のメイド喫茶」として開店。
中央区銀座5-8-1サッポロ銀座ビル⇒現在の銀座プレイス)に、
「カフェー・ライオン跡」20180414撮影
大阪では旧川口居留地の一角に、
▽「カッフェー・キサラギ」・・・1912年、大阪府大阪市西区川口町の旧川口外国人居留地 (現在の西区川口1-3-8 川口基督教会 or 西区川口1-5-19 市立本田小学校の付近) に開店。
出典
「旧川口居留地」毎日新聞20181206
「ahisats3のブログ ~カッフェー・キサラギ跡:大阪市西区川口教会の前」20160227
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□ お題「行きつけのカフェある?」
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そういうこともあって、学生時代(1963~70年)には喫茶店でも皆がアイスコーヒー(金沢では冷コーとか冷子ちゃんと呼んだ)やホットコーヒーを選んでも、私はアイスティーやコークを選んだ。
サラリーマン時代(1971~2009年)には、コーヒーが主流の喫茶店よりも、酒類が主流のスナック喫茶やスタンドバーの利用が多かった。
でもサラリーマン末期には経費節減の風潮から、ドトール/ベローチェ/エクセシオールなどのコーヒーショップチェーンを利用する機会が多くなっていた。
リタイア後のシルバー生活の今は健康維持の観点から、専ら自宅でドリップコーヒーを嗜(たしな)んでいる。