■ 2/3(月)は「節分」
季節の移り変わりの目安となる「雑節」の一つ。「立春」(2月4日頃)の前日で、「大寒」(1月20日頃)から15日目(最終日)に当たる。
本来は春夏秋冬全てに「節分」がある、即ち、四季の始りの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことであるが、近代では春の「節分」だけを特に重視するようになった。
□ 「豆撒(ま)き」の由来
季節の変わり目には邪気が生じると考えられていたため、それを追い払う意味で「豆まき」が行われる。
この日の夕暮れ、トゲトゲの柊(ひいらぎ)の枝に鰯(イワシ)の頭を刺したものを戸口に立てておいたり、炒(い)った大豆を撒いて歳の数だけ食べたりする習慣がある。
宇多天皇期(867~931年)に、鞍馬山から鬼が出没して都を荒らすのを、祈祷で鬼の穴を封じ、三石三升の炒り大豆で鬼の目を打ち潰して、災厄を逃れたという故事伝説が始まった。
これは元来、平安時代初期(9世紀) から宮中で行われている大晦日の年中行事、「鬼儺(おにやらい、鬼祓い)」の儀式「追儺(ついな)式」から派生し、後の「節分」の「豆まき」のルーツとなった。
室町時代(15世紀半ば)には、「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆 (煎り==炒り大豆) を撒いて、年齢の数(もしくは1つ多く)の豆を食べる厄除けを行うようになった。
江戸時代以降は、立春の前日「節分」には、邪気(鬼、病気)が襲う季節の変わり目の悪霊祓い行事として、「豆まき」が熱心に行われている。
今年は諸般の事情で浅草の豆まきには行きませんでした。
昨年20190203 芝・増上寺
一昨年20180203 浅草・鷲神社
□ お題 「節分は豆まきする?」
一戸建てだった埼玉の時期(1978~2007年)は盛んにしていましたが、浅草のマンションに引っ越してからはしていません。
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■ 2/4(火)は「立春」
「二十四節気」の一つ (先頭の1月節) 。初めて春の気配が現れて来る日。天文学的には (現在広まっている定気法では)、太陽が天球上の黄経315度の点を通過する時。
「冬至」(12月22日頃)と「春分」(3月21日頃)の中間の2月4日頃に当たり、また、期間としての意味もあり、この日から、次の節気の「雨水」前日までである。
『礼記 月令 (らいき・がつりょう)』[編者は、古代中国・前漢時代(紀元前1世紀頃) の儒学者・戴聖。礼に関する書] には「東風凍を解く」(はるかぜこおりをとく)、即ち、暖かい春風が吹いて、川や湖の氷が融け出す頃と記されている。
『暦便覧』[著者は太玄斎(たいげんさい)。江戸時代中期の1787年に江戸で出版された暦の解説書] には「春の気立つを以て也」、即ち、春の気配が立ち始める日と記されている。
この日以降初めて吹く南寄りの強風を「春一番」と呼び、気象庁の定義では限定的に、「立春」から「春分の日」の間に、日本海で低気圧が発達し、南寄りの8m/s以上の強い風が吹き、気温が上昇する現象を指している。
この頃を境に日本列島南岸を発達しながら東に進んで行く南岸低気圧の発生も多くなり、時として東京都心など関東平野部に降雪をもたらす。
この日から数えて88日目を「八十八夜」、210日目を「二百十日」など、さまざまな四季の行事が行われる。
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■ ブログネタ 「給食で好きだったメニュー教えて!」
私が小学生だったのは1954年4月~1960年3月。尚、母校の小学校は12年後の1972年3月で統合され廃校になった。
入学した1954年度に「学校給食法」が施行され、当時の小学校は全国一斉に同じメニューで給食を開始した。
出典「独立行政法人 日本スポーツ振興センター」 (港区北青山2-8-35。新国立競技場建設に伴い日本青年館と一体化で改築中)
代表的な給食献立・・・コッペパン、いちごジャム、脱脂粉乳(スキムミルク)、鯨(くじら)肉の竜田揚げ、千切りキャベツ。
これらは美味とは言えなかったかもしれないが、育ち盛りの "欠食児童" だった私(夫)は残したことが無かった。同じ団塊世代の妻はよく残してランドセルに入れて帰ったと言うのだ。
その他に、時として宣伝用の乳酸菌飲料やゼリー状栄養剤などが差し入れられた。
そして特異なものとして、文部省の献立に対し、豊かな米作り農家の家庭が殆ど (その中で我が家は国鉄職員) だったPTAでは、持ち回りで大鍋にたくさんの野菜を入れた、けんちんのような豚汁を作り、浅漬けを持ち込み、生徒は個々に家から白飯弁当を持ち込んでいた。
この味が私は忘れられない。
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尚、私の中学校は学校給食が無く、家からの手弁当だったが、いつも空腹だったので、売店でジャムやピーナツバターを塗った食パン、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳を、追加で "買い食い" することがあった。
また、高校では勿論、手弁当だったが、中には豪傑がいて1限目と2限目の授業中に教科書を立てて "早弁(はやべん)" していた奴がいた。
そこまで豪傑になれなかった私と親友たちは、2限目と3限目の休憩時間に美術室の止まり木に並んで "早弁" していた。