■ ブログネタ お題「ご飯のお店、自分で決めたい?決めてもらいたい?」
年金生活に入ってからは、どちらからともなく節約意識が上がって、めっきり外食機会が減っている。
それでも偶には---と外食ムードが漂って来たならば、そうすることにしている。
妻は自分から決めて行くタイプではないので、通常は夫(私)が提案する。
◇
■ 昨日12/5(木)の雲の動きは、ウロコ雲・スジ雲など朝から変化に富んでいた。
20191205
□ 09:25
西の空
□ 10:43~44
南西の空
南の空
南東の空
□ 14:35~36
南西の空
南の空
東の空
月齢8.5・・・月と地球の距離が最も遠い「遠地点」40.7万kmにほぼ等しい40.4万kmに位置している。
□ 16:40
実況気象衛星画像
◇
昨日は、改めて浅草を代表するスポットの晩秋風景をカメラに収めた。
■「浄土真宗東本願寺派 本山東本願寺」(台東区西浅草1-5-5)
1651年、神田明神下に「江戸御坊光瑞寺」を開創し、その後、京都の「東本願寺 掛所(別院)」となった。
1657年、「明暦の大火」(「振袖火事」)により焼失し浅草に移転。「浅草本願寺」(「浅草門跡」「東門跡」) と称され、支院21と塔頭35を抱え、境内は1万5000坪(現在の東京ドームとほぼ同じ)に及んだ。
葛飾北斎の「富嶽三十六景 東都浅草本願寺」(1831~35年)
1868年、大政奉還後に上野寛永寺に蟄居(ちっきょ)していた徳川慶喜を擁護する「彰義隊」の拠点となった。
1894年、日清戦争の俘虜(ふりょ)収容所となり清国捕虜を収容。1914年、第一次世界大戦の俘虜収容所となりドイツ捕虜を収容。
1923年、関東大震災により焼失。1939年、本堂を鉄筋コンクリート造りで再建。
1945年、東京大空襲により再び焼失。1953年、焼失した本堂内部を再建。
1965年、「浅草本願寺」から「東京本願寺」へと改称。
1981年、真宗大谷派との包括関係を解消し独立。1988年、浄土真宗東本願寺派を結成し東京本願寺を本山と定めた。
2001年、現名称「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」が文化庁より認証。
境内マップ
正門、本堂、手水舎
蓮如上人像、本堂
月↓ 憲政碑↓
東京スカイツリーの遠景
管理棟、東本願寺学院
徳風幼稚園スクールバス
紅葉
■「浅草今半 国際通り本店」(西浅草2-17-4)
合羽橋本通り、浅草今半
■「助六の宿 貞千代」(台東区浅草2-20-1)
■「聖観音宗 金龍山浅草寺」(浅草2-3-1)
628年、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網に掛かった聖観音像を、土師真中知とともに供養。645年、本尊を秘仏と定めた。
857年(828年とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺しお前立ちの観音像を造作。942年、雷門・仁王門(現・宝蔵門)など伽藍整備。
1590年、徳川家康から祈願所として寺領五百石を与えられた。
1649年、徳川家光の援助により焼失していた本堂・五重塔を再建。
1685年、表参道に仲見世の前身である商店街を許可。その後の江戸中期、奥山区域で大道芸などを許可。1843年、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町)に移転。
歌川広重の「名所江戸百景 浅草金竜山」(1856年)
1868年、明治維新の神仏分離により神社は「三社明神社」と改称。1873年、「浅草神社」へと改称。浅草公園の整備。
1885~90年、文明開化の一環として煉瓦造りの仲見世や「凌雲閣」(「浅草十二階」)が完成。1917年、大正ロマンの一環として浅草オペラや大衆演劇が隆盛。
1923年、関東大震災により浅草区市街地の大半、仲見世が焼失したにも拘わらず、避難民の協力で境内は僅かな延焼だけに止まった。
1945年、東京大空襲で本堂・五重塔などが焼失。1958年に本堂、1960年に雷門、1964年に宝蔵門、1973年に五重塔をそれぞれ鉄筋コンクリート造りで再建。
境内マップ
アサヒビール本社ビルの遠景
お札所、本堂(観音堂)
薬師堂、本堂
東京スカイツリーの遠景
本堂、お水舎、宝蔵門、五重塔