■ 「哲学の廊下」保存=西田幾多郎の京都・旧住宅解体で
2016/06/13時事通信/讀賣新聞・配信
6/13(月)、「善の研究」で知られる哲学者/京都学派※の西田幾多郎(きたろう、1870/5/19~1945/6/7)が、
住んでいた旧・借家(京都市左京区田中上柳町)が、老朽化し解体してマンションに建て替えられることになったため、
京都大学大学院/文学研究科/現代文化学専攻/情報・史料学の林晋教授(思想史)らが音頭を取り、
「哲学の道」に因み、西田が思索に耽(ふけ)った書斎と行き詰まった際に行き来したとされる2階の外廊下を、
(産経新聞20160613配信)
「哲学の廊下」として、「京都大学総合博物館」(左京区吉田本町)などに保存し追体験してもらおうと決まったことが報道された。
今後、復元した上で一般公開を検討している。
住宅は木造2階建てで、京大の北西約600mの住宅街にある。明治時代半ば(1900年頃)に学生向け下宿として建てられ、西田は、1911年1月に「善の研究」を出版(弘道館)した翌1912年に入居し10年間、一軒貸し切りで家族とともに暮らした。西田は2階の書斎で哲学と向き合い、考えがまとまらないと約10mの廊下を取り憑かれたように何度も往復。その様は「檻おりの中を歩くライオン」と評された。しかし、西田はこの時期、長男を病気で亡くし妻も脳出血で寝た切りになるなどの不幸に見舞われた。後に西田は「哲学は深い悲哀の念から始まるべきだ」と唱えており、京大の林晋教授は「西田哲学の源がこの住宅での苦難にあった」と指摘する。
琵琶湖疎水沿いの小道「哲学の道」(左京区若王子橋~浄土寺橋)は、西田が散策しながら思索した散歩道として、日本の道百選にも選ばれている。
私が訪れたのは最近では、春の京都・奈良を訪れました(2014/04/17)。
橋本関雪(ソメイヨシノ)を思わせる各種の桜並木、木瓜・山吹・雪柳・三叉。
「法然院」(左京区鹿ケ谷御所ノ段町)にも歌碑があった。
(20140415撮影)
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■ 西田幾多郎の略歴
1870/5/19、石川県宇ノ気町(現・かほく市)森に生まれる。←私が生まれ育った集落の旧・河北潟を挟んで対岸。
1884年、石川県師範学校予備科卒業。1888年、第四高等中学校予科修了。1890年、第四高等中学校中途退学。
1894年、東京帝国大学文科大学哲学科選科修了。
1895年、石川県能登尋常中学校七尾分校の教諭。1896年、第四高等学校の講師。
1897年、禅への関心が高まり洗心庵の雪門玄雪はじめ諸禅師に就く。
1899年、「披露堕落」を雑誌『日本人』に投稿した首謀者と見なされ解職。山口高等学校の教授。第四高等学校の教授("デンケン(考える)先生"と親しまれる)。臥龍山雪門老師に参禅。
1911年、「善の研究」を出版(弘道館)。
1912年、左京区田中上柳町の借家住まい始まる。
1913年、京都帝国大学文科大学教授(宗教学)・文学博士。1914年、哲学・哲学史を命じられる。
1922年、西田邸に「骨清窟」が建てられる(⇒1974年、石川県宇ノ気町に移転)。
1945/6/7、鎌倉にて尿毒症により急逝。法名・曠然院明道寸心居士。同郷で専門学校以来の親友だった哲学者・鈴木大拙は、遺骸を前に座り込んで号泣したという。
墓所は、鎌倉・東慶寺(鎌倉市山ノ内)、京都・妙心寺(霊雲院、右京区花園妙心寺町)、石川・西田家墓所(かほく市森)の3カ所に分骨されている。
尚、北鎌倉の東慶寺には、鈴木大拙や和辻哲郎らの墓もある。
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■ 西田哲学は、何度、読み返しても難解なところがある。
□ 「松岡正剛の千夜千冊」1086夜「西田幾多郎哲学論集」(2005/12/19) より抜粋。
人間にとって疑うことのできない確実なものとは何か。ふつうは、外界の事物や現象はわれわれの感覚や意識とは独立して確実に存在しているようにおもわれる。
すなわち主観がどうあれ、客観的なものは実在しているように見える。しかし西田はそれだって疑おうとおもえばいくらでも疑えると考えた。
だいたいそれらを実感しているわれわれの感覚や知覚の実在性が突きとめられていない。
そこで西田は、自分の主観と客観がまだ分かれる以前の、また知・情・意の区別もまったくない「純粋経験」というものを想定してみた。
だから『善の研究』の冒頭に、「たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」と書いた。しかもこの「純粋経験」はある程度の複雑な体系をもつだろうと考えた。
原初の経験であるはずの「純粋経験」が複雑な体系をもつとはおかしく見えようが、西田はそうではないと考えた。
たとえばここにコップがあるとして、そのコップを自分が認知できるのは、コップ以外のさまざまなものを知覚しているからであって、
つまりはコップ一個の知覚や認識にもけっこう複雑な体系が動員されている。そうだとしたら、「純粋経験」にもそういうことが想定されてもよい。
ただしそれは原初的なものなのだからちゃんとした体系があるわけではないだろう。そこには分裂や衝突がおこっていて、それがなんらかの恰好で統一されているのだろうと推理した。
このような複雑な「純粋経験」が人間の意識のなかでその後に成長し、発展していったらどうなるか。西田はいずれ闊達きわまりない宇宙のような活動になっていくだろうと想像した。
また、そこには最初から「我」などというものは入っていないだろうと考えた。きっと「我」は「純粋経験」のあとから派生してきたもの、あとから抽出されたものにすぎない。
最初から入っていたのは統一への意志のようなものだけではないか。そう、考えた。
こうして西田はこの「純粋経験」が発展した宇宙的なるものを「神」と見なし、またそれを人間が獲得しえたときのものを「善」と見なした。
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□ Wikipediaより抜粋
禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した「純粋経験論」
⇒ その純粋経験を自覚することによって自己発展して行く「自覚論」
⇒ その自覚など意識の存在する場としての「場所的論理論」
⇒ 最終的に、その場が宗教的・道徳的に統合される「絶対矛盾的自己同一論」
過去と未来とが現在において互いに否定し合いながらも結びついて、現在から現在へと働いて行く。
鈴木大拙も「即非の論理」において・・・Aは非AでありそれによってまさにAである⇒ 自己は自己を否定するところにおいて真の自己である。
哲学(者)において行動と思想とが、言語道断で(不文律として)不可分である。
宗教は、心霊上の事実である。
哲学者が自己の体系上から、宗教を捏造(ねつぞう)すべきではなく、この心霊上の事実を説明せなければならない。
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※
□ 哲学・京都学派
西洋哲学と東洋思想の融合を目指した「善の研究」などで表される"西田哲学"に立脚し、
東洋でありながら西洋化した日本で、西洋哲学といかに内面で折り合うことができるかを模索した。
しかしながら、東洋の再評価やアイデンティティの模索は、次第に、西洋は行き詰まり東洋こそが中心たるべきとの"大東亜思想"に近づくこととなった。このため太平洋戦争敗戦により、京都学派は一旦は没落した。
西田の他の主なメンバーとしては、私の知る波多野精一・和辻哲郎・久松真一らが挙げられ、左派としては三木清・久野収らが挙げられる。
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■ 私は、学生時代に「実存哲学」や「西田哲学」を学び、浅知恵を絞りながら、
「人間の存在」==ミクロ宇宙とマクロ宇宙の成り立ち、そして人生観を考えた。
□ 人間は考える葦である。~パスカル
我思う故に我在り。~デカルト
存在の懐(ふところ)から意識が滲み出て来る。意識は存在を空しく感じ否定する。それが「虚無」である。
「空即是色」 宇宙==「空」での揺らぎ ⇒ 物質==「色」の誕生。
「色即是空」 「色」==「物質存在」 ⇒ 人間の生命・意識。
⇒ 生命力の一方で、意識は存在とのギャップを感じる。
不条理==疎外 ⇒ 虚無となったり、~カミュ<反抗>
自由 ⇒ 変革へのエネルギーともなったり。~サルトル・ボーヴォアール<投企>
私のブログ NHK-E「ケンブリッジ白熱教室」--カミュ=サルトル論争など(2014/10/09)
⇒ やがて死によって「空虚」となる。
⇒「輪廻転生」「永劫回帰」。
あの世(宇宙)に還った霊魂が、この世に何度も生まれ変わって来るや否や???
あたかも星がブラックホールとなり新星が再び誕生するが如し。
太陽は、最新の天文学では109億歳で寿命を迎える。現在の太陽は46億歳なので63億年後には今の形は失われる。
赤色巨星⇒白色矮星⇒次第にエネルギーを失いやがて黒色矮星⇒ブラックホールだけが残り極限まで圧縮された状態になる。
⇒光子(光の素粒子)を放出しながら長い時間を掛けて蒸発。宇宙には光子のみが残る。光子には質量が無いため宇宙から全ての質量が無くなってしまう。この情景はまるで宇宙の始まり、ビックバン直前の宇宙とそっくりなのだ。別の宇宙の始まりなのである。
死に行く星がこれほど美しい輝線(きせん)を放てるならば、老いて行くこともそれほど悪くない。そうして、宇宙空間に拡がるガスは、いつかどこかで新しい天体の材料となる。
まるで仏教の輪廻転生だ。太陽の寿命109億歳の億を取って、人間の寿命に例えればよい。
□ 「西田哲学」が唯一誤ったのは、思想・宗教が政治と結びつき、暴力(軍事・侵略)へと利用されたことにある。