NHK「ラジオ深夜便」
11/5(月)4時台
「近代日本150年 明治の群像」#20 「高橋是清(これきよ)」
正しく波乱万丈の人生に、改めて敬服した。
人格として、今の財務大臣と大きな隔たりを禁じ得ない。
YouTube
■ 出演者:
東京大学史料編纂所教授: 本郷和人
講談師: 神田蘭
MC: 川野一宇(かずいえ、元NHKアナ)
■ 高橋是清翁の略歴
1854年(嘉永7年)7月27日、武蔵國豊島郡(江戸)の芝中門前町(現・東京都港区芝大門)に幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)と子守奉公・きん(16歳)の私生児・川村和喜次として生まれた。間もなく仙台藩の足軽・高橋家に里子に出された後に覚治是忠の養子となる。
1864年、米国長老教会宣教師(医師)ジェームス・カーティス・ヘボンの夫人クララによる横浜市の家塾(成仏寺内、後の明治学院大学) で基礎英語を学び、1866年、英国人の銀行家アラン・シャンド邸のボーイとなって実践英語を聞き齧(かじ)る。
1867年、藩費留学生として勝海舟の息子・小鹿とともに米国留学が決まった是清は、横浜滞在中の米国人貿易商(オーガスティン・ハード商会)ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先であるユージンの両親に騙され年季奉公(奴隷売買)契約書にサインしてしまい、オークランドの富豪ブラウン家に売られ、牧童や葡萄園での奴隷同然の生活を強いられ辛酸を舐(な)めたが、英会話と読み書き能力も上達した。
1868年年末、帰国後に森有礼(ありのり、後の初代文部大臣) の学僕(書生)。1869年、大学南校(東京大学)に入学、次いで教官三等手伝。1870年、女癖が付き放蕩(ほうとう)のため辞職。
1871年、唐津藩の英語学校・耐恒寮の教員。1872年、教員を辞めて上京、駅逓寮で翻訳の仕事、間もなく辞職し共立学校(現・開成中高校)に入学。1873年、文部省督学局十等出仕としてモーレー博士の通訳。1876年、仏教研究の後、官立東京英語学校教員。西郷里ゆうと結婚。1877年、教員を辞め翻訳・予備校教師。1878年、東京大学予備門英語教員。1881年、文部省御用掛に転じ東京大学予備門教員を兼務。
1881年、直ぐ農商務省御用掛に転じて、1884年、妻・里ゆうと死別。その後に原田しなと再婚。農商務権少書記官、工務局商標登録所長。1885年、専売特許所長兼務、商標登録専売特許制度視察のため欧米派遣。「商標登録・発明の専売特許制度」の立案と実施に当たり、1886年 農商務省専売特許局長、1887年、特許局長、1889年、東京農林学校長兼任。特許や商標など "日本の産業財産権制度の生みの親" と言われる。
1889年、辞職してペルーのカラワクラ銀山の経営に当ろうとしたが、鉱山が廃坑であると判明し騙(だま)されたことが発覚。財産を失い帰国の途に就く。
1892年、日本銀行総裁・川田小十郎の世話で建築所事務主任に就職。1893年、正社員となり支配役・西部支店長(下関)として成績を挙げる。1895年、横浜正金銀行に転じ本店支配人、1897年、副頭取として経営を刷新。
1899年、日本銀行の内紛に際し日本銀行副総裁に就任。1904年、日露戦争に際して外債(戦時公債)募集のため英米両国に出張し、戦費および内国債償還のため5回に亘り1億500万ポンド(約9億円)の募債に成功。1905年、その間に貴族院議員に勅選。1906年 日銀副総裁のまま横浜正金銀行頭取を兼任。1907年、男爵位を受ける。
1911年、日銀総裁。原敬と積極的な財政政策について意見が一致。1913年、山本権兵衛内閣に大蔵大臣(蔵相)として入閣。政友会入党。1918年、原内閣の蔵相として鉄道・電話・教育などの支出を拡張して積極政策を取った。
1921年、原敬暗殺の後を受けて、1924年に第2次護憲運動で爵位と貴族院の議席を投げ打って代議士に当選し、護憲三派内閣の内閣総理大臣・政友会総裁等を歴任。加藤高明内閣に農商務相として入閣。1925年、政友会総裁を辞して政界を引退した。
1927年、それでも尚、銀行取付けの最中に金融界の救世主として田中義一内閣の蔵相となり金融恐慌を支払猶予令(モラトリアム)で鎮静。犬養毅・斎藤実・岡田啓介各内閣の蔵相を再三務め、金輸出再禁止を断行、続いて大量の赤字公債を発行して、財政資金を呼び水にして景気にテコ入れし、国債の市場操作を通じる景気調節政策を導入して、恐慌からの脱出に成功した。「高橋財政」と呼ばれる軍需インフレ政策は、金融恐慌・世界大恐慌に対処し日本経済を景気回復させるなど、財政家としての評価が高い。
政治家としても、転んでもただでは起きなかったので、"ダルマ蔵相"と言う異名で呼ばれた。
蔵相だった1936年、無制限な財政膨張を抑制するため、1935年公債漸減主義に転じ、軍部の軍事費拡大要求を抑えて衝突。
1936年2月26日、赤坂区赤坂表町三丁目私邸(現・赤坂七丁目の高橋是清翁記念公園)で暗殺・・・「二・二六事件」。享年83・満81才没。
■ 名言・格言集(抜粋)
「元来、米国人が金銭を尊ぶのは、わが輩の見るところによれば、金銭それ自体を尊ぶというのではなく、かの民族特有の、極めて強い、個人的独立心から来ているように思われる。彼らはいかなることがあっても、決して他の助力を仰がないという性格の国民である」
「我が国民が世界に比類なく勤勉なことである。いくら為替安であらうが廉価であらうが、輸出品が劣悪であれば、今日のごとき邦品の海外進出は到底望まれるものではない。刻苦精励、工夫を凝らし生産設備を改善し、研究に研究を重ねて今日の結果を招来したのであつて、このたゆまざる永き努力の上に、徐々に躍進の素地が築かれて来たのである」
「即ち『人の働きの値打』をあげることが経済政策の根本主義だと思つてゐる。またこれを経済法則に照して見ると、物の値打だとか、資本の値打のみを上げて『人の働きの値打』をそのままに置いては、購買力は減退し不景気を誘発する結果にもなる」
「資本が、経済発達の上に必要欠くべからざることはいふ迄もないことであるが、この資本も労力と相俟つて初めてその力を発揮するもので、生産界に必要なる順位からいへば、むしろ労力が第一で、資本は第二位にあるべきはずのものである。ゆゑに、労力に対する報酬は、資本に対する分配額よりも有利の地位に置いてしかるべきものだと確信してゐる」
「何であろうと一生懸命やれ」
「よい地位にあがったからといって欣喜雀躍するはずもなければ、またその地位がさがったからといって、失望落胆することもない。すべて己を本位とすればこそ、不平も起り失望も起るのだ」
「他人から見てはうらやましがられるような境遇にいる時でも、自分に重きを置くことをしなかったため、特別によろこぶ気も起らない」
「どんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつか強い運が向いてくるものだと気楽に構え、前向きに努力した」
*
リブログ
「高橋是清翁記念公園」(港区赤坂7-3、 銀座線・青山一丁目駅から徒歩5,6分)
◇