11/17(木)・18(金)は、ここのところウォーキングをよくやったので、何時、腰痛がぶり返すとも限らないから、休息日としてテレビやパソコンとともにグータラ過ごした。
11/17(木)の朝、NHK-BSプレミアム「英雄たちの選択」「平安京を護るのは空海 ~千年の都 誕生の裏側」の再放送、
夜、BS朝日「五木寛之の百寺巡礼」「明王院 ~川底に眠った信仰」の再放送をそれぞれ観た。
両番組とも私にとっては初。
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【感想】
★ ヤマト~奈良時代までの勢力イメージでは---
中国~信越~北陸の日本海道・・・出雲(因幡)・八岐大蛇(越)の勢力。
九州~四国~紀伊半島(飛鳥・奈良・熊野・伊勢)の瀬戸内海道・・・大和・奈良南都の勢力。
それが、平安~鎌倉時代には勢力図が一変した。
西国・観音霊場・・・桓武平氏・伊勢平氏など平家勢力。
奈良・京都の南都北嶺・・・興福寺・延暦寺など寺社(僧兵)勢力。
東国・鎌倉の五山・・・嵯峨源氏・清和源氏など源家勢力。
★ 10日前の11/7(月)は、親類の訃報で急遽、新幹線で通夜を弔問した。
我々の世代になっても年配の方々は皆、ポケット経典を持参し一斉に唱和しておられた。
北陸は言わずと知れた「浄土真宗」(一向宗)、しかも大谷派が圧倒している。
東京なんかは平素、街歩きをしていると、参勤交代で全国の藩邸とその菩提寺が多く存在したためバランスがよい。
尤も徳川家所縁の大きな寺院を訪れることが多いので、浄土宗が目に留まる。
現代のマップを、図録・都道府県民の信仰 でチェックしてみると---
浄土宗・浄土真宗は富山・石川・福井・広島・鹿児島、
真言宗・天台宗は徳島・香川・岡山、
曹洞宗・臨済宗は秋田・岩手・宮城、
日蓮宗は山梨、
など。
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【番組メモ】
■■ NHK-BSプレミアム
「英雄たちの選択」
「平安京を護るのは空海 ~千年の都 誕生の裏側」
再放送 11月17日(木)午前8:00~9:00
【司会】磯田道史、渡邊佐和子
【出演】川尻秋生、上田紀行、おかざき真理
【語り】松重豊
平安のスーパースター「空海」。
774年、讃岐国多度郡屏風浦(現・香川県善通寺市)生まれ。
平安時代の初め、四国・室戸岬で修行僧が開眼した。
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□「南都六宗」鎮護国家の手段として深く政治に関わるようになった仏教。
三論宗、成実宗・・・元興寺・大安寺。
法相宗・・・興福寺・薬師寺、倶舎宗・・・興福寺・東大寺、華厳宗・・・東大寺。
律宗・・・唐招提寺。
道鏡の皇位簒奪の企てなど、平城京(710~740,745~784年の七十年)の奈良仏教界の専横。歴代政権は仏教勢力に翻弄されていた。
加えて、皇位継承問題。祟りに慄(おのの)き自然災害に悩まされていた。
□ 長岡京⇒平安京への2度に亘る遷都。
桓武天皇
桓武天皇(在位781~806年)は、遷都を余儀なくされていた。784年、藤原種継による長岡京(784~794年の僅か十年)を造営。奈良仏教「南都寺院」の影響力排除があった。
ところが、桓武天皇の弟で南都寺院と繋がりが深い早良(さわら)親王が、遷都阻止のため藤原種継の暗殺を企てた。
793年、和気清麻呂の建議によって、再び平安京(794~1869年の千年余)を造営に着手。
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「南都六宗」に対抗できる新たな仏教を欲していた桓武天皇は、「密教」を携えて帰国した空海に平安京の護りを託した。
804年、第18次遣唐使の長期留学僧(20年)として唐に渡る。
同期に霊仙(りょうせん、三蔵法師の称号)、最澄(短期留学僧、通訳に門弟の義真)、橘逸勢(たちばな・はやなり)がいた。
最澄は既に高僧(788年に比叡山延暦寺を開基、天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人)だった。
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空海は全くの無名だったが梵語に秀でていた。
醴泉寺の印度僧・般若三蔵から、梵語の経本や新訳経典を与えられた。
青龍寺の密教の第七祖・恵果は、空海が過酷な修行を既に十分積んでいたことを見抜き即座に密教の奥義を伝授した。
「虚しく往きて実ちて帰る」(空虚な身で出かけて行っても必ず充実して帰って来る) という空海の言葉は、成果がいかに大きなものであったかを示している。
僅か2年の留学期間を経て、最新の仏教「密教」を急ぎ日本に持ち帰った空海。遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗する形で帰国の途についた。
課せられていた留学期間は20年。密教に強い関心があった嵯峨天皇の即位までの3年間は、流石に直ちに京の都に入ることは憚(はばか)る。
806年の帰国後は、入京の許しを待って数年間、大宰府・観世音寺に滞在することを余儀なくされた。
空海の入京には、最澄の尽力や支援があったとも言われ、その後の2人は10年程、交流関係を持った。密教に限っては上下関係が逆転した最澄が礼を執っていた。
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嵯峨天皇と空海
809年、平城天皇が退位し嵯峨天皇が即位。平城天皇は病気のため在位僅か3年で皇太弟(嵯峨天皇)に譲位して太上天皇(平城上皇)となり旧都である平城京に移り住んだ。
810年、藤原種継の息子・仲成や娘・薬子(くすこ)の介入により、平城京への再遷都の詔を出し政権の掌握を図ったが、嵯峨天皇側に機先を制され頓挫した。
空海は、和泉国槇尾山寺に滞在、太政官符を待って入京、和気氏の私寺・高雄山寺(後の神護寺)に入った。
最澄
813年、最澄が空海に奥義「理趣釈経」(般若波羅蜜多理趣百五十頌) の借覧を申し入れたが、密教の真髄は口伝による実践修行にありとの理由で空海は拒否。
法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは対立するようになり、816年、訣別に至る。高野山・金剛峯寺(ぶじ)の開基。
823年、太政官符により東寺を下賜され真言密教の修禅道場とした。後に大乗仏教において天台宗・延暦寺の密教を「台密」、対する真言宗・東寺の密教を「東密」と呼ぶようになる。
京の前線基地では東寺がショールーム、吉野に近い高野山の金剛峯寺が実証実験場⇒後に聖地 に例えられる。
832年、高野山において最初の万燈万華会が修された。
空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」(全て尽きて苦しみのない世界が訪れるまで私は祈り続けよう) と想いを表している。
密教の「生けるものすべてがその身のまま仏となる」という新しい考えに基いて修行道場として造られたたのが高野山。
金剛界曼荼羅を通して仏の教えを感じ取り、正しい修行を行えば人は誰でも生きている間に悟りを開けるという「即身成仏」の考え。
密教行者が「即身成仏」、生きながらにして仏になる大日如来(左に梵天、右に帝釈天)と一体化するための基本的な修行方法「阿字観」。
金剛峯寺の根本大塔
その後、高野山に隠棲し穀物を断ち禅定を好む日々であった。
835年、宮中で後七日御修法、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われている。金剛峯寺が定額寺(官大寺・国分寺に次ぐ寺格) となる。
3月15日に高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。享年62(満60歳没)。
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最澄が866年に清和天皇より伝教大師の諡号が贈られたのに対し、空海は921年に醍醐天皇より弘法大師の諡号が贈られた。
弘法大師・空海は、唐で既に王羲之や顔真卿の書風の影響を受け "五筆和尚"、日本で "入木道の祖" と仰がれ、不世出の能書家である。
弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あると言われ、足跡の史実を遥かに超えている。
日本全国を勧進して廻った遊行僧の集団「高野聖」が、弘法大師と解釈されたのではないかとの有力説。
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■■ BS朝日
「五木寛之の百寺巡礼」
#80 「明王院 ~川底に眠った信仰」
再放送 11月17日(木)21:00~
初放送 2009年6月14日
芦田川の中州の一帯は、中世に瀬戸内海沿岸の交易によって栄えた「草戸千軒」(くさどせんげん)という港町。やがて洪水に流され川底の遺跡となって眠りについた。
空海を開山とする「明王院」は、芦田川を望む愛宕山の麓に在る。国宝「五重塔」は人々の浄財による建造物。
五木さんは、木造弥勒菩薩坐像及び両脇侍(不動明王・愛染明王)坐像や「兜率天曼荼羅図」は江戸時代に寺外に流出し、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。
往時の「草戸千軒町」と「明王院」のつながりや救いを求める人々の思いを感じ取る。
■ 草戸千軒町
芦田川に面した愛宕山の麓に、鎌倉時代から室町時代にかけておよそ300年間存在した都市(大規模集落)。
福山城が築かれた1622年までに芦田川の堆積作用により港町としての機能が失われて寂れ。1673年の洪水⇒遺跡の大部分が芦田川の洪水対策のために浚渫により破壊された。
遺跡として芦田川の中州、瀬戸川河口に広がる沖積地に眠っていた。
1930年前後の河川工事によって遺物が出土⇒1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査、4千点にのぼる大量の「中世木簡」(室町期)が出土。国の重要文化財に指定。
□ 朝鮮半島や中国大陸とも交易していた、瀬戸内海・福山湾の芦田川河口の港町として栄えていた。
□ 「草戸稲荷神社」と「明王院」の門前町としても栄えていた。
■ 真言宗大覚寺派中道山「明王院」(みょうおういん、草戸町1473)
空海は806年10月の帰国後、入京の許しを大宰府・観世音寺で待機。807年より2年程、各所の法要を引き受け密教図像の制作などをしていた。
807年、(伝)空海上人が「明王院」を開基。
□ 国宝「本堂」・・・1321年建立。
和様建築に「大仏様」と「禅宗様」を加味した折衷様建築。
「大仏様」・・・桟唐戸・虹梁(こうりょう)、鎌倉時代以降の新様式。
「禅宗様」・・・粽(ちまき)・台輪・渦巻文様の木鼻。
輪垂木(わだるき)を用いたアーチ型の天井・・・近世の黄檗宗寺院の建築には見られるが、中世には例がない。
虹梁を柱頂より一段高く持ち上げるために、斗(ます)や絵様肘木を複雑に組み合わせた架構・・・これも他に類例がない。
本堂と五重塔
□ 国宝「五重塔」・・・1348年建立。
純和様。四天柱・板壁などに極彩色の仏画や文様が描かれている。
「兜率天曼荼羅図」は江戸時代に寺外に流出し、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。
□ 国指定の重要文化財「木造十一面観世音菩薩立像」・・・本尊。
平安時代前期の作。
■ 「草戸稲荷神社」(草戸町1467)
807年、(伝)空海上人が「明王院」の鎮守として祀った。
当初は芦田川の中州に鎮座していたが、度々、洪水により流失していた。
1633年、初代備後福山藩主・水野勝成が現在地に再建した。
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緑のおばさん、見たことある?
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11月19日は「緑のおばさんの日」。
1959年11月19日、東京都において通学する児童を交通事故から守るための「学童擁護員」(愛称「緑のおばさん」)の制度がスタートしたことから。
お題「緑のおばさん、見たことある?」
私の場合は、交通量の少ない田舎道だったので記憶に残っていない。
私の子どもたちの場合は、「緑のおばさん」ではなく、交通安全協会の非常勤職員か、町のボランティアのおじさん・おばさんかではなかったかな。