お盆に入った8/13(日)深夜24時台、J:COMナショナルジオグラフィック(ナショジオ)チャンネルで、「衝撃の瞬間」第6シリーズ第5話
「日本航空123便墜落事故」(原題「Terrified Over Tokyo」)が放送されていた。
記憶に強く残っている方々も多い本事故は---
1985年(昭和60年)8月12日(月)、羽田(東京国際空港)18:00発--伊丹(大阪国際空港)行き、日本航空123便ボーイング747SR [Short Range(短距離)ジャンボジェット、機体記号JA8119、製造番号20783]が、
18:12 羽田空港を離陸。
18:24 爆発音と共に圧力隔壁破損。垂直尾翼と油圧を喪失。
18:28 操縦不能の無線連絡。
18:45 交信を聴いた米軍横田基地より支援の申し出があったが123便は断る。
18:53 ACC(航空交通管制部)より123便を呼び出すが「アンコントロール(操縦不能)」とのみ返答。
18:56 墜落。
出典: 朝日新聞
123便は制御不能になり、離陸44分後に群馬県多野郡上野村大字楢原の高天原山(標高1,979m)・・・通称「御巣鷹」(おすたか1,565m付近)・・・の尾根に墜落し、
乗客509人・乗員15人のうち死者520人・生存負傷者4人という単独機で世界最悪の航空事故死者数を記録した。
遺体は激しく損傷。男女の区別もつかないほどに焼け焦げたもの、四肢が断裂してバラバラになったもの、遺体に別の遺体がめり込んでしまったものなど、想像を絶するような凄惨な姿の遺体が数多く収容された。
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本事故が起こった1985年の我が家は、長男が小3、長女が小1、次女が2歳。
私は37歳でサラリーマン15年目。国内出張は隔月に1回、海外出張は隔年に1回の頻度であったので、
これまでのハイジャック事件に加え、本事故が発生してからは、
既に掛けている生命保険や会社が掛ける旅行保険に加えて、空港で更に傷害保険を毎回掛けるようになった。"保険バブル"
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番組では、本事故の原因、その真因(本当の原因)が解説されていた。
原因
隔壁の接続部の金属疲労によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の与圧に耐えられなくなった。
後部圧力隔壁が損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出した。
与圧によって垂直尾翼が破壊され、垂直尾翼と補助電源装置の脱落、4系統ある油圧パイプが全て破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失が起こった。
真因
「日本航空115便しりもち事故」
1978年(昭和53年)6月2日、羽田発--伊丹行き日本航空115便ボーイング747 SR(機体記号JA8119、製造番号20783。115便は修理後、123便に改称された。)は、
伊丹に着陸する際、機体尾部を滑走路面に接触させた「しりもち(不良)着陸」を起こしてしまい、乗客379人・乗員15人のうち負傷者25人の事故となった。
原因はパイロットエラー・・・機長の接地時の引き起こしが過ぎたため機体がバルーニング(ふわふわと浮かぶ状態)を起こし、そのバルーニングの回復操作のため、スピードブレーキレバーを操作していた航空機関士が誤ってアーム位置を超えてレバーを操作したため揚力が急減し、機体が落下して滑走路に接触したのだった。
このしりもち事故(不良着陸)により機体尾部の圧力隔壁が破損した。
事故後に損傷した圧力隔壁など機体尾部の修理をボーイング社に依頼。
ボーイング社のエンジニアによる圧力隔壁の修理に欠陥があり、修理交換した圧力隔壁の下半分と上半分との繋ぎ目に挟む部材が、途中で2枚にカットされていたため、本来2列必要なリベットが1列分しか利かず、接続強度が不足した状態になっていた。
更に、JAL側においても点検でこれらの異常を発見できなかった。
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以上より、520人も死亡した「日本航空123便墜落事故」は、「日本航空115便しりもち事故」時の機長操縦ミス、ボーイング修理ミス、日本航空123便点検ミスという人災が重なって引き起こした大惨事だったのだ。
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