<追記>
オリックスバファローズが11年振りにセパ交流戦で優勝しました!!
私がリタイアした翌年2010年以来の2度目です。
この10年間は "守りの野球" を主とした指揮官が続きましたが、
今季は中嶋聡監督による1軍/2軍を一体化した "攻めの野球" が
長い山道をよじ登るかの如く上昇中であります。
かくなる上は公式リーグ戦優勝を目指してください!!
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■ 6月12日は「日記の日」
1942年6月12日~1944年8月1日、ナチス・ドイツの迫害を逃れようと、アムステルダムの隠れ家に身を隠した、ユダヤ人一家の少女アンネ・フランクによって「アンネの日記」(オランダ語「Het Achterhuis」)が書かれた。1947年にオランダのコンタクト社から初版本発売。
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□ 私が選んだ日本の主な日記・紀行文
日本での「日記」の始まりは、旅日記(紀行文)で、遣隋使・遣唐使(600~838年)の日誌かららしい。それ以降、日記・日誌を書く風習が、平安時代~室町時代に公家⇒僧侶⇒武家へと各層に広がって、江戸時代には庶民層にまで普及して来た。
▽ 平安時代
838~847年、原本は失われ1291年の東寺観智院旧蔵本が最古の写本、
「入唐求法巡礼行記」天台宗山門派の祖・円仁・・・最後の遣唐使の一人として入唐。
930~934年頃、成立は935年頃、
「土佐日記」貴族(木工権頭)・歌人の紀貫之・・・日本初の日記文学。
954~975年頃、成立は977年頃、
「蜻蛉日記」摂政・関白・太政大臣の藤原兼家の側室であり右大将・大納言の藤原道綱の母。
1003~1004年、成立は1007年頃、
「和泉式部日記」和泉守・橘道貞の元妻であり摂津守・藤原保昌の妻の歌人・和泉式部・・・恋愛物語風の女流日記文学の代表作のひとつ。
1008~1010年、成立は1010年頃、
「紫式部日記」蔵人・右衛門権佐(検非違使佐)の藤原宣孝(死別)の妻の歌人・紫式部。
1020~1059年、成立は1060年頃、
「更級日記」菅原道真の玄孫に当たる菅原孝標の次女であり信濃守・橘俊通(死別)の妻・・・人生の哀惜感漂う女流日記文学の代表作のひとつ。
▽ 鎌倉時代
中世三大紀行文として---
1223年、成立も1223年、
「海道記」作者不詳・・・京都~鎌倉の紀行、「伊勢物語」などの歌枕探訪と人生観を描写。
1242年、成立も1242年頃、
「東関紀行」作者不詳・・・京都~鎌倉の紀行、風物・故事を記述。
1277~1280年、成立は1283年、
「十六夜日記」権大納言・藤原為家の側室・阿仏尼・・・京都~鎌倉の女流紀行、当代の所領紛争の実相を記述。
▽ 江戸時代
1689年3月27日(太陽暦5月16日)~1691年9月6日(太陽暦10月18日)、京都・井筒屋から1702年に出版、
「おくのほそ道」俳人・松尾芭蕉・・・芸術性の高い俳句と深い人生観が織り込まれた日本の古典紀行文学の代表作。
▽ 昭和時代
1917~1959年、岩波書店から全7冊1980~1981年に出版、
「断腸亭日乗」作家・永井荷風
1958~1959年、中央公論新社から1960年に出版、
「どくとるマンボウ航海記」精神科医・作家の北杜夫
1962~1963年、大和書房から1964年に出版、
「若きいのちの日記」顔に軟骨肉腫ができる難病に冒された兵庫県立西脇高校生・大島みち子
1969年、新潮社から1971年に出版、
「二十歳の原点」70年安保闘争・失恋などで苦悩し自殺した立命館大学生・高野悦子
1980~1982年、日本放送出版協会から1984年に出版、
「清張日記」作家・松本清張
▽ 平成時代
1971~1996年、朝日文庫から1996年に出版、
「街道をゆく」作家・評論家の司馬遼太郎
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□ お題「過去に書いた思い出のブログ」
▼本日限定!ブログスタンプ
▼ 1959年9月26日に潮岬⇒紀伊半島に上陸した台風第15号は、伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり「伊勢湾台風」と呼ばれることとなった。被災者はほぼ全国に亘り約153万人。死者4,697人、行方不明者401人、負傷者38,921人。建築物の全壊36,135棟、半壊113,052棟、流失4,704棟。床上浸水157,858棟、船舶被害13,759隻。
伊勢湾台風 愛知県半田市内 日本経済新聞1959年9月

当時を回顧して書いたブログ記事を掲載すると---
『1959年9月26~27日に中部地方全域を襲った、「台風15号」・・・後に「伊勢湾台風」と命名・・・の被害のことを思い出した。当時の私は小学校6年。北陸では台風といえば殆どの場合、勢力が弱まってから通過するのだが、このモンスターは、26日の夜やって来て・・・北緯36度・東経136度は940ミリバール・・・、隣の春日神社の大きな杉の木が私の家の屋根に倒れ、父の指揮の下に家族全員で2階の壁と柱を支え続けた。翌日、氏子の皆さんが杉を斬ってくれ倒壊を免れた。』
▼ 1962年(昭和37年)12月末~1963年(昭和38年)2月初めの約1カ月間、北陸地方を中心に東北地方~九州地方の広範囲で、「昭和38年1月豪雪」(通称「三八(サンパチ)豪雪」)が起こった。我が金沢市は、1月22~27日の6日間に310cmの降雪があり、うち1月27日は史上最高の積雪181cmを記録した。全国の被害・・・死者228人、行方不明者3人。建築物の全壊753棟、半壊982棟。
当時を回顧して書いたブログ記事を掲載すると---
『その時の私は中学3年生。1月22日~2月1日の「38(サンパチ)豪雪」は北陸でもかつてない程の厳しい豪雪だった。容赦の無い降雪と屋根からの落雪で、とうとう家は2階まで積もってしまい2階が玄関代わりとなり、唯一の交通手段のバスが来てくれず、通勤通学もかれこれ1カ月間も徒歩で通った。3月上旬の高校受験を間近かに控え不安な冬の出来事だった。』
38豪雪 新潟県長岡市内 1963年1月の報道写真(ジオテクサービスが保存)

▼ 1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発し、石油輸出国機構(OPEC)加盟産油国のうちペルシア湾岸6カ国が、相次いで原油価格を引き上げる原油生産を削減した。1960年代以降にエネルギー源を石炭から石油に置き換えていた日本は、ニクソン・ショック(米ドル危機)⇒円高不況から立ち直ろうとしていた景気を直撃。1972年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレが発生していたが、この石油危機により相次ぐ便乗値上げにより一層インフレが加速された。そして労働組合も賃上げに走った。
日本の消費者物価指数で1974年は23%上昇し「狂乱物価」という造語まで生まれた。「オイルショック(石油危機)」のインフレ抑制のために公定歩合引き上げが行われ企業の設備投資を抑制する政策がとられた結果、1974年は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し高度経済成長がここに終焉を迎えた。
当時の私は、新社会人3年目で会社の独身寮(世田谷区玉川)に入居していた。当時を回顧したブログ記事を掲載すると---
『1973~74年(昭和48~49年)と言えば、かの「オイルショック(石油危機)」と「狂乱物価」の時期。物価と給料が1年間で125~135%もアップする程の異常インフレとなり、我が国は戦後初めて実質経済成長がマイナスとなった。1974年11月初頭、或る休日、駅前の東急ストアへ行くと、 店員の誘導の大声でどんどん前進、狂ったような客の姿が見えて来て、事情を知った。トイレットペーパや洗剤の列ではないか、なあんだと並ぶのを止めた。会社の寮生活だったので、それらには余り困っていなかったからである。友だちの自宅を訪ねた折、台所に所狭しと洗剤・シャンプー・石鹸のヤマがあった。それ程に危機感があった時期だった。』
オイルショック 狂乱物価 スーパーマーケットにトイレットペーパー・洗剤などを買い漁る主婦たち 1973年11月の報道写真

▼ 1995年3月20日(月)47才時、午前8時頃の東京都区内ラッシュアワー時間帯の営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線2本、丸ノ内線2本、千代田線1本の計5本の電車内で、「オウム真理教」の幹部らが猛毒サリンを撒いた同時多発テロ事件のひとつ「地下鉄サリン事件」。乗客・駅員ら14人が死亡、約6,300人が重軽傷を負った。関与した犯人グループの教団元代表・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚ら10人の死刑(⇒2018年7月執行完了)と4人の無期懲役が確定した。
約25年に亘り後遺症と闘って来た浅川幸子さん(当時31才/死亡時56才)は2020年3月10日に死去した。死因はサリン中毒による低酸素脳症だった。彼女はこの日の朝、山王溜池に在る客先を訪問するため、自宅から直行の東武線~日比谷線で国会議事堂前駅まで乗車した。そして次発に当たる8時過ぎの日比谷線中目黒行でのテロによって、乗客の8人がサリン中毒死し(殺害され)、浅川幸子さんら2,475人が重傷を負った。
後になって書いた関連ブログ記事を掲載すると---
『当時の私は、情報通信システムの営業活動を行っており、事件当日は偶々、朝早く自宅の埼玉から客先(溜池山王駅)へ直行しようと日比谷線で霞ケ関駅==国会議事堂前駅まで行き、そこからウォーキングした。事件はその1,2本後の時間帯に発生しており、まさしく間一髪であった。』
地下鉄サリン事件 日比谷線築地駅 朝日新聞1995年3月20日

▼ 2011年3月11日、「東北地方太平洋沖地震」勃発による「東日本大震災」が発生した。
東日本大震災 被災直後の気仙沼市内 時事通信2011年3月12日

当時、私はリタイアしてから2年半、自宅でテレビを観ていた。
発生した当初のブログ記事を掲載すると---
『妻が初めて「花粉症に罹(かか)った」というので、「とうとう文明人になったね」と薬局へ送り出してから、15分程経っただろうか? 激しい地震が襲った。横になっていたが、どんどん強い揺れとなり、「もしかして、大震災かもしれない、逃げた方が良さそうだ」と思い急いで準備していると、大型液晶テレビが踊っている。必死に手で押さえる。少し弱まったのを見計らって出る。エレベーターが停止している。階段から下り、マンションの外へ出ると、妻が戻って来た。薬を買えず仕舞いで・・・。』
この大震災は、東北地方~北関東地方に未曽有の被害(※1)をもたらし、今尚、地震・津波、原発事故の傷痕を残したままで、安倍内閣による復興はオリンピック開催を優先しているキライがあって遅々としている。
私が住む浅草は被害が少なく、短期間、飲料水や東北産タバコに不自由した程度だった(計画停電も無かった)ので、深刻な被災地の住民の皆様には申し訳ない気持ちである。
▼ 2012年4月12日(木)64才時、京都市東山区祇園(大和大路通四条の交差点)で、午後1時過ぎ軽ワゴン車を運転していた男 (藍染販売会社の元従業員、当時30才) が持病の癲癇(てんかん)発作により暴走事故を起こし、運転者を含む8人が死亡し12人が重軽傷を負った。容疑者死亡により不起訴。
当時のブログ記事を掲載すると---
『この日は京都旅行の最終日で、本能寺~先斗町(ぽんとちょう)~四条大橋に向かっていたところ、四条一円の上空でたくさんのヘリが旋回・ホバリングしており何事が起きたのだろうか?と不安がっていた。そこに地元のお婆ちゃんが息を切らせ本能寺境内に入って来て、目と鼻の先の大事件勃発を教えてくれたのだった。』
京都祇園軽ワゴン車暴走事故現場2012年4月12日

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今日6/12(土)は少し暑さが和らぎ風も有った。
午前中、仙台堀川周辺の「水辺の散歩道」を巡った。
浅草通り⇒清洲橋通り⇒日本橋浜町中ノ橋交差点
周辺広域マップ

□ 中央区日本橋浜町2付近
アンティチョーク(別名チョウセンアザミ)

▽ 生け簀(いけす)
ヒツジグサ(別名スイレン)

金魚

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隅田川==清洲橋(日本橋中洲5~江東区清澄1) ⇒萬年橋通り
□ 江東区清澄3/2付近
チョウチクトウ/白

オオバギボウシ(別名トウギボウシ/ウツリギボウシ)

▽「都立清澄庭園」(整理券発行中で今回はパス、清澄3-3)
脇の花壇
テッポウユリ/トライアンファーター、アガパンサス(別名ムラサキクンシラン)

▽「都立清澄公園」(開放型、清澄3-3-9)
八重咲きザクロ

八重咲きザクロ/天絞(あましぼ)り

ガクアジサイ、クマンバチ

▽「仙台堀川」末広橋(平野4)~木場公園大橋(平野4)